不登校はおかしさを感じた表現

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私がはじめて不登校に触れたのは教育書の編集をしていた25年くらい前のことです。
聞いた話しのなかで不思議に思ったのはある生徒の例です。同級生が先生からしかられているのを見て不登校を始めたというものでした。なぜなのかがわかりませんでした。
同級生が攻撃的に言われているのを見て泣いてしまう女の子の話しも聞きました。この子も不登校になりました。泣いてしまう理由は少しわかる気がしました
クラスに障害のある生徒がいて、その子の面倒を見続けた生徒がいました。弱い状態の子をそのままにしておくことができなかったのです。この生徒は高校に入った後、中退になりました。

やがてわかったことは共通して感受性が優れていることです。他の子どもが見過ごし、気がつかないことに気がつき、心を痛めているのです。
不登校になる子どもにいろいろなタイプがいることはもちろんですが、私が教えられたのはこのような生徒です。周囲のおかしさ、不条理に耐え切れないのです。けれども何が起きているのか、自分ではうまく説明はできません。やがて私はこの言葉にできないことを体の表現にしているのが不登校であると思えるようになりました。

クラスの同級生や学校の問題だけでなく、家庭内のおかしさを不登校という形で表わす子どももいます。その子は後に登校できるようになったのですが、その時点でお母さんがこう言いました。「子どもが不登校になったことは、この子にも家族にもよかった」と。不登校の形で家族内の問題を表面化させ、気づかせてくれたという意味です。

相談などの形で親から不登校の子どもの話を聞くとき、私がまず子どもの味方になろう、子どもを理解しようと思うのはこういう経過があるからです。それは一人その子の問題ではなく、周囲の問題を表わしている可能性があると推測するからです。

30日の進路相談会で主催4名によるパネルディスカッションを行いました。そのなかでの私の発言を整理し直し、数回に分けて紹介することにしました。今回はその1回目です。

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