アスペルガー等の経験者発表会

1月6日「発達障害の経験発表会」を行うと書きました。
そして、その2月11日の発表者が少ないので“公募”もしました。さいわい発表してもいいという方から連絡がありました。さらに発表できる人を募集します。合計5名ぐらいはいた方がいいからです。メールで連絡をしてくれた方への返事のコピーを載せておきます。こういう主旨の企画です。

自己紹介として、お名前(ニックネームやHNでも)、年齢(30代とか、20代後半など)と住所(これもおおよその)を教えてください。発表においては、①自分にとってはありがちなアスペルガー的な体験、②印象的か象徴的なアスペルガー的体験、この片方か両方の実例を話して欲しいので考えておいていただけませんか。後は参加者に質問をしていただき、自分の場合に即して答えていただく役割になります。
当事者以外の出席者からは参加費500円をいただきますので、それは発表者に等分にわたします。1人3000円になれば御の字ですので、あまり当てにはしないでください。それ以上にアスペルガー症候群を理解していただく機会、アスペルガー症候群の自分を肯定的に考えられる経験になればすばらしいです。それがねらいの発表会です。

未婚主婦業ってありうるか

引きこもり状態から通常の主婦業コースをめざすと見える30代の女性がいます。
思い起こすとそれに近い状態の人が何人か思い出されます。個人差があるので、聞いた状態を項目別に分けて挙げてみましょう。このいくつかの組み合わせが特定の女性の場合になります。
(1)食べ物への関心や食事づくり、食器の整理や洗い方をしっかりしようとしている。
(2)家族のこと、特に健康面に気遣いが大きくて少し心配性ではないかと思う人。保険なんかも詳しい人がいます。
(3)衣類のことに関心を向けて洗濯をよくする、部屋の掃除をよくするようになった。
(4)家計をしっかり管理するタイプで、お母さんが「もう少し手綱をゆるめて欲しい!」と悲鳴を上げているタイプ。
これらのことが前に比べて動くようになった、変化している面として家族は話します。その結果、ときにはきょうだい間で衝突になったり、父親が敬遠される事態も発生することがあるようです。
このまま進むと主婦業としてやっていけると思えるのですが…。ただ主婦となる相手の夫となる人との出会いは別問題です。単身主婦、未婚主婦というのもありなのか、私が勝手に先走って考えているだけなのか。「大人の引きこもりを考える教室」で話された1人女性の実例に方向をつかめず、返事ができないままになっています。

ベッドの上で迎えた成人の日

20歳のH君は病院のベッドの上に横になっていてほとんど動けません。
訪ねていった直後に看護師か介護師か2人の職員が「体位交換します」と言って病室に入ってきました。
掛け声とともに彼の体を動かした後、会釈をして出て行きました。
その後、ベッドの横の椅子に腰かけて、退屈かな? と声をかけると何か言いたそうです。
「ぼくは社会に入っていけますか?」とつぶやくように聞いているのです。

少し考えて、さっきの看護師さんか介護師さんに「ありがとう」って言えるようになるのが、社会への入り口かな、と答えました。
Hくんはこれが質問への答えかどうかわからなかったのかもしれません。
社会というのは人間からできているの。身近なところにいる人に声をかけ、声をかけられたらできる答えを返していく、自分が社会に入ることはそんなことかな。
こんど看護師さんや検査の人がきたら、自分の体の様子とか、さっきのような体位交換のときに“重たいですか”とか声をかけてみてはどうかな。そうすれば職員さんは何か言ってくれるよ、それだけで社会に触れていることになるから、そういうのを繰り返すと知らないうちに社会にはいっている自分になるね。

明日(14日)は成人の日です。ベッドの上で成人の日を迎えるHくんもまた社会への入り口を探していたのです。ようやく話せる元気が出てきたのでしょう。

体罰教育は何を教えるのか

体罰を重要原因とする高校生の自殺事件が注目されています。
体罰でなくなった生徒に対して、体罰を行った教師は「数回殴った」と言っていたようですが、生徒本人は30回ぐらいと言っていたようです。体罰を行った教師は、体罰の程度を軽く見せようとウソをついたわけです。数回殴ったことが原因で亡くなったなら、1回殴る体罰の重大性をもっと深刻に考えないわけにはいきません。
もしこの教師が生徒指導において体罰を必要と主張するなら、なぜウソをついてまで自分のした体罰の程度は軽かったと思わせようとしたのでしょうか。必要ではあると言いながら、後ろめたさは隠しきれないということではないですか。ウソをつかなくてはならないところに、体罰の決定的なダメさが出ています。
人は、特に子どもは指導する立場の人の言うことによってではなく、すること(行為)によりどうすべきかを学ぶものです。暴力はいけないと言っている人が、暴力を振るっていたら、それは暴力でもって事を進めなさいと教えているのです。体罰という暴力は、生徒に暴力により主張を通すことを教えているのです。なんと悲しい、貧弱な教育方法でしょう。
教育現場でのいじめの原因の1つに、教師の体罰があると言うことになります。学校教育の必要性と向上を願うものとして、教師の体罰はなくして欲しいと切に願うものです。