自分の弱さを悪びれずに認める

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「引きこもりの高年齢化の先」その4です。
心身力の低下はいろいろな形で現われ、対人関係や社会的な面にも及びます。それらの品目を並べるのはやめ、受けとめ方を書いてみます。

からだを動かすことが少ない結果は、作業や仕事の場面において動作が遅いこと、スピードについていけない経験します。これは高年齢になった引きこもり経験者には取り戻すことは困難で回復しづらい部分です。そこにも個人差がありますので自分の特徴と認めることです。

こういうこともあります。自分なりに仕様どおりにしているけれども、他の人がしたのと比べるとできが違う。例えば、数枚の紙をとじるのだけれども、四隅がキチンとそろわない書類のとめ方になる。文字数はわかっているのに、いざ書いてみると紙面の片隅に書いてバランスが悪い。バランスが悪くなるのは自分の偏りとして受け入れるのです。

対人関係が子どもの頃から少ないことは、成人になっても社会経験が少ないことにつながります。それは知識の少なさと同じではありません。
知識という場合は、学業成績がいい、オタク的にある分野のことをよく知っている(音楽、鉄道、芸能、地理…など)ことはありえます。社会経験のある・なしは日常の社会生活のおける処理能力になります。社会常識ということもあります。こういうものは教科書的なことで身につくわけではありません。日常の人との接触の中でわかるものです。人との接点が少ない当然のこととして考えていいのではないですか。

この社会的な生活不足が就労においても、働く場における人間関係においても、社会生活を送るに際しても、支障をきたす程度になります。社会生活の経験不足です。人にものを聞くときにどうするのか、お願いのしかた、謝り方…といろんなことにとまどいます。
といっても人には得手・不得手があるものです。社会生活においてこれらのあらゆることに合格点を持つ人はいません。自分の特徴は何かを理解しようとすればいいのです。

これらはあらゆることに自分は不合格である、何も知らないという感覚に陥りやすいことに長期の引きこもり経験者にでる思いです。これらを否定的な状態として列挙し、指摘することはもういいでしょう。
問題はそれをどうするのかです。対人関係の不足による社会的なハンディは、体内にしみこんだものはすぐに浄化はできません。意識して取り組むしかないのです。
経験したことが少なく失敗したことが多い、失敗をおそれて手を出さなかった。正しいといわれるやり方だけが認められ、自分なりのやり方が認められる環境がなかった。優れていることが存在理由になるのではない。優れていなくてもいい、むしろ劣っていることや自分のできないことのなかに自分らしさ、自分のすぐれた特質が隠れているかもしれないのです。それを自己流に解釈してみるのです。

自己否定感の存在の雰囲気が外側にもれてくる。「自分がここにいたら迷惑にならないか」という気持ちが座っている姿かたちに表れる。ここを意識して解消できないか。できないことは悪いことではないのだから、失敗しても、率直に謝る姿勢で悪びれない。これもまた自分を認めることです。不完全な自分を認めるのです。

自立の課題には、それに先立つものがあります。自分を受け入れ、認めることです。自分に強いことだけを認めるのではなく、弱いところ、悲観的なことをニュートラルにみようとするのです。

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