「引きこもりの高年齢化の先」その2です。
(1)現実に当事者が話していること(もちろん全員が同じように話していることではありません)にこういうものがあります。
死を選ぶか、狂気になるか、生活保護か――これが将来選択を迫られるものではないか。この意識は危機感を表わしています。「行けるところまで行って、行きづまったらそこで考える」というのはこれとかなり近い感覚です。口にするか、無言で考えているかは違っても、多くの人が感じていることです。当事者から見た支援策の到達点がこれです。ほとんど当てにできません。
(2)、もう一面は生存のためのサバイバル戦略です。サバイバル戦略用のマニュアル本も出ているようです。私はその内容を知りませんが、考えられても不思議ではないところに事態はきています。家族がここを考える人は少なくありません。どこまでその対応ができるかは未知数です。
(3)、私がこれまでにしたことを言い換えると、不幸な事態を迎えないように各人の対応力と対応方法をつくることでした。しかし、現実にはそれを超える対応策が必要であると認めなくてはなりません。引きこもり教室で発言した「社会的なカバー」というのがそれです。
(4)、これまで重ねてきた引きこもり支援は何になるのか。可能な取り組みを重ねることで、必要条件が少しは明瞭になりました。私が気づいた大事なことは次の点です。私にもできていませんが、それ以上に支援団体の多くも行政者も意識していないのが残念です。
① 引きこもり経験者が引きこもり支援者になる道を、実際にきりひらいていくこと(見本ができること)―これは社会福祉的な考えの基本になるのではないでしょうか。
② 支援の方法は対個人サービス業を超えて、集団的・社会的なものが必要になること―医療やカウンセリングの役割は対個人サービスです。それとして重要ですが、それを超えた生存のための社会環境づくりを求められます。就職支援も対個人サービスの範囲内の支援策です。
③ それを超える集団的・社会的な支援策とは何でしょうか。支援者が一緒に条件に合った仕事をつくりだすこと、就労時間に対して収益の高いものを実現すること(多くの人が試みて実現していない)、生活費を大幅に低くしながら生活レベルを維持できる方法をつくること、そのための法律的・制度的条件を利用・設定することなどです。「社会的なカバー」とはこれらに関係します。
④ 集団的・社会的な支援策が必要なことはわかっていても実際には支援団体の多くは手を出せない、出していません。対人関係づくりと仕事の技術・ノウハウを身につけることは、対個人サービスの範囲か延長線上にありますが、集団的・社会的な支援策とはいえないはずです。
これらはそれぞれ詳しく説明しなくてはなりません。どれだけ説明できるのか自信はありませんが、その前に問題の全容を書き続けましょう。