居場所・訪問・相談がポイント

これは8月11日の「大人の引きこもりを考える教室」での私の報告です。テーマは「引きこもりからの社会参加=居場所・訪問・相談」

事務所移転をより効果的・有効に活用する方法を考えています。その中心は居場所・訪問・相談の3つの分野です。
新事務所になってから、引越し作業があったことと関係しますが、多くの人が来ています。隔離されたスペースがないための不都合や不自由を感じる人もいますが、1フロアーでより広く感じることもあるようです。

(1)居場所は当事者が来て、何かをしながら人間関係の経験、社会生活の経験を重ね、職業的な場との接点づくりをするところです。
新事務所の条件を生かした取り組みをします。これまでのホームページづくり、事務作業グループに加えて、小規模な集会的なミニイベントを多く開いていきます。
さっそく8月8日には食事会が開かれました。9月10日(火)に「サポートステーションの現在」の交流会を開きます。ミニイベントには通所してきている当事者が開くもの、外部のゲストに来てもらうもの、親がかかわるものなどを考えています。
これらの計画は決まるつど「事務所利用スケジュール」に、掲載します。

(2)訪問活動は、主に親からの要請により行います。
訪問は家から出られない、出るきっかけがつかめない、出ても行く先がない、顔見知りがいないと行く気になれない…という人が居場所につながる手がかりになる方法です。
可能な範囲で引きこもり経験者と一緒に行くようにします。また、継続するときは訪問サポート部門のトカネットに引き継ぎます。訪問活動の多くは継続的な取り組みが必要なのですが、単発に終わりやすいからです。

(3)居場所の利用、訪問活動を含む取り組み全体に関して、相談が先行します。特に個別的な事情に対応するためには個別相談が大事になります。会員をはじめより多くの家族と当事者からの相談を受けるようにします。

不登校セミ&引きこもり教室

土曜日の不登校・未就労の対応「ミニセミナー&質疑応答の会」、日曜日の「大人の引きこもりを考える教室」が続きました。両日とも猛暑日で土曜日の夜は温度が30度を下がらなかったという異常です。事実上の盆休みに入っている中で、参加者は少なかったです。特に「大人の引きこもりを考える教室」は親よりも当事者の参加が多い状態になりました。

「大人の引きこもりを考える教室」に参加したT君は久しぶりに顔を見せました。26歳の青年であり、今日は彼の話を多く聞きました。聞いていてわかったことは彼のエネルギーのある行動が、単に若いというだけではなく、先天的な気質や性格に関係すると感じさせたことです。現在は週5日のバイトをしています。
それでT君にこれまでの経験を話す場を改めて設けたいと考えました。対象者は主に20代の引きこもりの人かその家族になると思いました。T君を紹介するとすれば「不登校・中退を経験し、20代半ばで高卒認定に合格し、学童保育などで子どもと関わる保育士のタマゴ」となるでしょう。引きこもりの時期もあったと思いますが、中学時代の不登校から始まる十数年の「模索の時期」においては半年程度と短かったので、あえて引きこもり経験者とはいわないほうがいいでしょう。
T君の話を聞く場は秋に入ってから改めて考えます。バイトの関係で水曜日になるはずです。
なお9月の「大人の引きこもりを考える教室」は、9月14日(第2土曜日)にします。事情があり変則で申し訳ありません。

日本の福祉制度は何点か?

日本の福祉の状況を点数で表わすと何点ぐらいかを尋ねられました。
その方面を詳しくは知りませんが、20~30点であろうと答えました。
すぐに100点満点を望むわけではありません。合格点は60点程度でしょう。
北欧の“福祉国家”はこのレベルを超えていると思います。
私が基準とするのは、民主主義的な視点です。民主主義とは多数意見による意思表示と表わしますが、より突き詰めると「ある社会集団において(最も)弱い立場・状態にある人が尊重されるために多数意見が確立する社会制度」です。
不登校の問題に関わって出あったことに、ある特定の子どもを多数の意思によって排除する事態があります。それはときに弱い者いじめを民主主義という形で肯定します。これは民主主義ではありません。民主主義を多数意見にとどまらせる考え方は、ある特定の人、殊に弱者を排除する多数意思の形成に対して無力であり、無効です。多数意見による民主主義は、この面を超えていかなくてはなりません。
福祉または社会福祉を考える基準もここにおいて考えます。福祉の考え方は何らかの社会的なハンディ、心身の負担、障害をもつ人がその社会で通常の社会生活をできる条件を社会、国、自治体が保障することであろうと思います。福祉は個人の権利であるという意見はこの面で賛同できます。
福祉国家は何を基準にしていうのかは実はよく知りません。それが社会的な弱者のそれぞれに応じた社会生活に必要を権利として保障ものであるならば私はそれに賛成です。
しかし、福祉を“上からの恩恵”的に扱う立場からの福祉国家・福祉社会の考え方にもときどき出会います。そのような福祉国家論に対しては原則としては賛同できないところです。
私が日本の福祉の現状にかなり低い点数をつけるのはこのような恩恵福祉論を感じるからです。それにとどまると障害者福祉や生活保護制度の大幅な後退の動きに対して抵抗の根拠が弱くなります。生存と生活のための法的な権利でなくてはなりません。