国民皆保険制度の崩壊によりクスリ依存医療をなくすのではない

ある代替医療を推進する団体が発行する新聞の記事「TPPと日本の医療を考える」を読みました。
TPP参加により日本の国民皆保険制度の根幹が揺らぐ危険性を孕んでいるが「仮にそうだとしたら、我々はむしろ歓迎したいと思う」というのがこの記事の結論的なことになります。
その論拠を見ましょう。
(1)国民皆保険制度により「医療費だけで国の税収のほとんどを費消するという異常事態が起きている」
(2)「医師はクスリを出すことが仕事だと思っているし、患者はクスリを処方してもらうことが当然だと思っている」。「クスリを服用している間に、身体の自然(自主)治癒力の働きで症状を緩和したり改善する」のを「あたかもクスリで治ったかのように錯覚する」
(3)クスリは人体にとり異物であり、「その結果、細胞は、苦し紛れに悲鳴を上げたり助けを求めます。その時に現われる症状を副作用といいます」

後半の(2)と(3)は同意見ですが、(1)は同意できません。
国の予算は主に福祉・教育・医療、国民の安全に使うべきであって、現在の予算に占める医療費自体では(1)の結論は出ないからです。
2009年の民主党政権の発足は「コンクリート国家から国民の生活が第一」のためでした。福祉・教育・医療、国民の安全に向いた方向がありました。民主党はその方針を貫けなかったがゆえに崩壊しました。民主党政権はそれを弾き飛ばそうとしたものにより腰砕けにされたのです。
この方向を貫く必要性はいまもあります。政治的なことを私は詳しく言うことはできませんが、公共事業という名の建設事業国家への逆流を歓迎しません。

問題は国民皆保険制度を崩壊させれば、医師はクスリを使わなくなるのでしょうか? そういう短絡的な展望のないことで国民皆保険制度の根幹が揺らぐのを歓迎するところに、事態認識の浅薄さがあります。
いまのままの国民皆保険がベストかどうかはひとまずおきますが、それが崩壊することは国民の健康を守る法的・社会的な基本条件をなくすことです。
薬の使用、とりわけ精神科におけるクスリ依存的な医療を根本的に糺すのは、国民皆保険制度の崩壊によってではできません。もっと地に着いた取り組みと意思表示をこの新聞を発行する団体に願うものです。

社会的ひきこもり実践者交流会への参加を誘われて思うこと

ある人から来年2月に予定の「社会的ひきこもり実践者交流会」(正確には、第9回社会的ひきこもり支援者全国実践交流会in大阪)に参加するように誘われています。それでネット上に掲載されている準備状況を拝見しました。

準備状況を見て、「出かけてもいいかな」という気もします。
私がこれまで他の集会にあまり出かけなかった理由は、自分では何となくわかっています。その集会内容にもよりますが、主に私の活動スタイルの特殊性です。いくつかのところに行って感じてきたのは、他の活動を見聞きしてもあまり参考にならないのです。気落ちすることもありました(たとえばこのブログ今年1月22日の「当事者団体と支援団体」を見てください)。
不登校情報センターの取り組み状態が進んでいるわけではありません。逆に遅れているとも思いません。けれども有益な情報を得た記憶はありません。内容の向きが合わない気がするのです。それに時間とときには金がかかる一方、その間に自分の作業が停滞するのをもったいないと思ったからです。

今回出かけてみようという気になったのは、よく言えば勉強のためです。手堅い言い方をすると、このような取り組みの仕方が私だけではなく小規模で不安定ながら、他でも始まりつつあるかもしれないと思うからです。
それを象徴的に言えば、当事者が「ワンコインの収入を得るために自分で何かを始める」方法の模索が始まっているように思うからです。私の取り組みの方法はどうやらそういう方向に向かいつつあります。
言い方をさらに変えれば、当事者中心の活動であり、支援者中心の活動ではありません。当事者が支援者に進む可能性を内側に含むスタイルです。

「日刊ADHD新聞」に期待するがゆえの苦言です

ネット上の「日刊ADHD新聞」9月5日付のトップに不登校情報センターの2つのブログから「ムラテックのコピー・ファクス複合機の使いづらさ」「10日のサポステ報告と交流会は中止します」「トカネットの活動を応援ネットで報告しかなり好評」「『学校・教育団体』『相談・支援団体』ページのトップを整理」「Facebook内のページはリンクできないか?」の5本の記事が並びました。
ありがたいとは思うのですが、「日刊ADHD新聞」の編集スタンスを考えるとそうとばかりは言っておれません。
小人数で編集されているので手が回らないのかもしれません。新聞のテーマに沿った内容を期待している人が多いはずです。その視点から見ると不満足感を持つのです。
新聞はトップの文字情報に続く動画が中心で、文字情報は編集上の都合ではじめに並んでいる、そんな憶測もしてしまいます。
私のブログはあくまでも不登校情報センターの日常から生まれることを書いています。活動の性格上「日刊ADHD新聞」に触れるものもあると思います。それを転載し紹介していただくのはいいのですが、読まれる方にはどうでもいいと思うこともあるのではないかと思うのです。
逆に考えると、私の考える“これは!”と思うものも、編集の目には留まらない事態も想定されます。これが「日刊ADHD新聞」の編集スタンスに表われると感じるのです。貴重な活動をされている「日刊ADHD新聞」にいっそうの向上を願い、5本の記事をトップに並べていただいたこの機会にあえて“苦言”を書いてみたくなりました。

自己肯定感が生まれれば動き出す:居場所の役割

以前に『ひきコミ』という文通誌を発行した当時、2チャンネルで「(投稿をしているのは)みんなつぶされたやつらじゃないか」と書かれました。
“つぶされた”という表現の仕方は、単純素朴で乱暴な言い方ですが、確かに重要な点をさしています。いじめを受け、仲間はずれにされた人です。家族内で特異な扱いを受けた人も混じります
繊細な感性をもち周囲の感情の起伏を受けとめやすい人、逆に無頓着で自己流の人などがこの“つぶされた”人たちであり、不登校や引きこもりの経験者も多く含まれます。これらの子ども時代の経験が、心身の成長を停滞させ、自己否定感を心身に強くしみこませています。
子ども時代に強いいじめや虐待を受けた人の困難は、人格の成長が阻止されたためか、ある程度成長した人格が破壊されたために生じているのではないか。言い換えると対人関係が毒素として働いたためです。「みんなつぶされたやつらじゃないか」という単純素朴な表現は人格の成長が“つぶされた”点を表しています。
そのときからずいぶん時間を経ています。その長い期間には同世代の人は成長し、成長の差は子ども時代以上に広がっています。いじめの罪深さはここにも出ます。困難を持つ人はその人なりの社会参加を考えなくてはなりません。

不登校情報センターで私が実際直面するのは、不登校や引きこもりの経験者の自己否定感との波風の立たない闘いです。彼ら彼女らは自分の考え方や動き方などを支持してくれるものがないと動けません。受身になりやすく、失敗が怖く失敗しない最善策は何もしないことにしているかのようです。
彼ら彼女らはそのことを日常的に口にすることはありません。それを口にしていい経験はしていないからです。しかし追い込まれた状態になると、その気分は比較的すぐに表面化します。
「行けるところまで行く」と一見前向きに見える言い方をしますが、「ダメならそこまで…」と言うのとはほとんど同じ意味です。年齢も精神状態も人生の絶壁の淵で背水の陣におかれているのです。それを十分に知りながら、その場そのときを平穏に過ごす術(すべ)を身に着けているだけなのです。

「何もする気はありません」と自己否定感はほぼ共通の状態です。漠然とした不安感と依存、人への不信感とおびえがあります。これらは周囲の人へ向けられた感覚ですが、自分自身の無力さ(自己否定)と結びついています。このような感情状態では意識的な行動は長続きしません。
そういう人は意識して何かができる状態ではありません。生きていること自体が不安定であり、何かにつけてパニック、恐怖になりやすいのではないでしょうか。それは自己存在感の空白、自己否定の深刻な状態です。意識してすることの前に感覚・感情としての自己否定感を薄める体験がいります。彼ら彼女らの繊細さと優しさ、ものを深く考えるよさをどう生かし、伸ばすのか。居場所の役割はそこにあります。

こういう人たちが不登校情報センターという居場所にきます。「不登校情報センターに通っていれば何かできるようになるのですか」と疑心暗鬼の質問をしながら、自問もしています。期待はずれになっても落胆しないためです。
怖れているのは自分を操作されること、得るものがなかったときの時間の損失です。私は操作をしないように心がけています。自然状態に任せることですが、放置しているだけと見られやすいです。時間損失は成功を期すだけで対策はありません。せめて費用負担は少なくすることができる方法です。
私がこのような引きこもり経験者に居場所に来るように呼びかけるのは、心の成長を促進する栄養分は対人関係づくりにあると思うからです。心の成長を阻害したいじめや暴力という毒素も対人関係でした。対人関係が栄養素として働いたことが記憶の表面に出てこないのも特徴です。実際はそういう栄養素として働いた対人関係もあるのですが意識としては弱いのです。その回復です。

「居場所にいて何かの作業をし続けながら、他の人を見ていると自分を理解するようになります。そんな自分でもいいと思えるようになったら、何かに手を出して始めたくなります」。これがめざすことですが、この状態に達するまでには長い時間がかかります。初めのうちは居場所にいるだけでエネルギー消費の激しい大仕事です。ほとんどの人がいるだけで疲れを経験します。
個人差もあります。家に引きこもっている人が居場所に来始めると急に動き始めることもあります。長く通っていてもゆっくりと進むように見える人もいます。私にはこの個人差を事前に見分ける目はまだありません。
マイナスの自己否定感からプラスの自己肯定感に進むことは、人格の形成または完成に向かうことです。子ども時代に停滞状態に置かれた成長エネルギーを再作動させることです。自分を認めそれを肯定的に受け入れ成長すること、それが心を育てることになります。
それは学校の成績がいいか悪いか、運動能力が優れているかどうか、身体に障害があるかどうか、すべて問題ではありません。自分の状態がどうであれ、自分として受け入れられるかどうかの心理的・精神的な成長の問題です。居直りやあきらめの形でそうなる人もいます。それでもいいのです。