マハリシ総合教育研究所から『超越瞑想 癒しと変容』(N.ロゼンタール、原田稔久・訳、さくら舎、2013年)が贈られてきました。
Facebook上の私のページに瞑想をする人のアクセスが多いと感じていたのですが、私のブログに書いていることと何か共鳴するところでもあるのでしょうか。
以前にインド医学に関心を持つ医師の『アーユルヴェーダの知恵』(高橋和巳、講談社現代新書、1995)という本を読んだことがあります。瞑想とアーユルヴェーダ医学はつながっており、多いに学ぶところはあるはずです。しかし、実践なくして多くを理解できないものとそれっきりになっています。
本に同封されていた手紙を私なりに解釈すると、薬物療法に依存するといえるほどの精神科医療に別の道を開く可能性があると思います。たぶん医療を超えた範囲で有効性があると紹介されているはずです。ここでも実践なくしてはある線を超える理解はできないと予測できます。
日別アーカイブ: 2013年9月20日
書くこととは私にとって事態解決の方法の追求と覚えたり
高年齢になった引きこもり経験者の社会参加の仕方に取り組んできているのですが、いろいろな場面で何かを感じてそれを書き連ねているのが、このブログです。不登校情報センターの日常を書くということは一面ではそういうものにならざるを得ません。
これまでに書いてきたことをたまに読み返します。何をどうするのか、ああではないか、こうではないかとさ迷っていると感じます。あるものは継続して追求の対象になり、あるものはそのまま忘れ去られています。ときおり思い返されてまた俎上に上がってきます。
この経過が意識しない・十分に意図的に追及されていない理論化の過程です。そこに意図的・計画的な部分も含まれます。何らかの仮説を立て事例によって確かめていく方法です。この意図的な仮説とそうでないものが混じりあっている状態、生活状態のなかでの追求が好ましいと思います。
文献などによる思索的な方法でなく、日常生活の中の実際的なことからこの作業が続きます。医療行為としての診療でこれを追求するのは効果的であろうと思います。同時にそれはある条件の下で観察・確認された事実としての制約を持つと理解すべきことと考えます。
一般に理論化とはそういうものです。不登校情報センターというなかで見聞きしたことも、それが引きこもり経験者の日常化した生活であっても制約した環境にあることを了解していないと拡大解釈になります。
K.ヤスパースの『精神病理学原論』(1913、西丸四方訳、みすず書房、1971)のなかの一説です。ごく短く引用するので誤解を与えるかもしれないがこうあります。「精神病理学者は、心理学(が手をつけていない問題)に相談しても無駄なので、自分で使う心理学を自分で作らなければならない」(17ページ)。ヤスパースは、この本のはじめに「緒言」という精神病理学の一種の認識論をまとめながらこのような感想も交えているわけです。
何かに継続的に取り組むには、そのレベルはどうであれその人なりの方法論が必要であるし、自然に出来てきます。私もそうしてきた1人に過ぎないわけです。
そういう過程(自分の経験だけでなくそれに関係する多数の動きを)を見ながら、ヤスパースは一つの見方、解釈の仕方、より真実に接近する理解、あるいは哲学的な体系の一部としてこの「緒言」を展開したのでしょう。
ちょうど100年前に発行された本ですが、日常生活の雑然と押し寄せる動きのなかでは、発生する一つひとつの事態に流されないで、立ち止まり整理していくのに役立ちます。