支援者側に身を置くなかで自身の問題に向きあうのか

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まだうまく説明できない、どうすればいいのか困っているものを、この数年間の事情として次にもう一つ上げましょう。居場所問題とは少し離れます。
文通ボランティアにおけるある現象を紹介します。以前から文通の仲介をしてきたし、それはほそぼそと続いています。数年前に文通ボランティアを希望する人が現れました。現在、文通ボランティアは10名以上いますが、それらの人への「不登校・引きこもり・対人関係の不安を持つ人」からの文通希望者はなかなか現われません。
その一方、文通ボランティアの多くは自身が不登校や引きこもりの経験者であり、いわゆる“わけあり”なのです。
この現象をどう理解すればいいのでしょうか。援助を受ける側ではなく援助をしようとする側に身をおき何かをしようとしていると見えます。自分の問題を解決するには理解できる範囲のことで支援する方法が有効と考えている、ひとまずはそう考えています。
似たようなことは引きこもりの人への訪問サポートの希望者、カウンセラーの希望者、対人サービスの仕事に就こうとする人の中にも見ることができます。あるイベントのときに、一般参加者としてではなく「企画者として参加したい」という人もいました。この人もまた、同様のことを表わしているように思います。
もしかしたらこれは社会問題を解決する基本中の基本スタンスかもしれません。私が東京都主催の引きこもり支援策に感じる避けがたいほどの違和感は、支援者と支援対象者を画然と分けてしまう方法でした。なぜ両者は相互に出入りできないのか、それでは支援を受ける人はいつまでも被支援者のままに扱われてしまいます。まるで架け橋のない隔離を感じ、その場から逃がれたい嫌な気分でした。
ただ、文通相手の現れない文通ボランティアにどうすればいいのかはわからないままです。実践的に取り組むことしか意味がわかる方法はないはずですが。

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