不登校・引きこもり質問コーナーというページがあります。その最初の質問は「不登校・引きこもりに共通する強さや能力は?」というものです。ずいぶん昔に誰かから問われていたことですが、その質問を受けたとき私がどのように答えたのかはよく覚えていません。
このページに3人の当事者からの回答が並びました。
「周りに合わせられない自分があること」(島田邦子)、「欲求を我慢する能力がある」(二条淳也)、「孤独に耐えられる能力です」(ひきこもりマスター)です。
このページにこの質問を設定したとき、私が思い浮かべた回答は、もう一人の回答者・赤沼侃史先生の「優しく忍耐強く悪いことができない性格」と似たようなことでした。ですからあえて私の回答は載せていません。
その後、当事者からそれぞれの実感による上の回答を得られたのです。それは私の思っていた回答のレベルを超えています。「周りに合わせられないこと」、「欲求を我慢する」=節約生活に耐えられる、「孤独に耐えられる」ことは“問題を含む”とする人がいるかもしれませんが、確かにこれは強さです。少なくとも強さも含まれるのです。
私はこういう問題(に限りませんが)には、本質面に価値を付着させないことが必要ではないかと思います。例えば火は燃えます。火にはいいとか悪いとかはありません。それが価値を付着させないという意味です。火は人に暖を与えることもあれば、火傷のもとにもなります。TPOによって役割が違うし、使い方によって意味が変わるのです。もともとの火にいい、悪いはないのです。
「周りに合わせられないこと」、「欲求を我慢する」=節約生活に耐えられる、「孤独に耐えられる」こともまた、TPOによって役割が違うし、使い方によって意味が変わるのです。そう捉えるにはある種の発想の転換がいります。
モンテスキューだったはずですが、「曲がった針金をまっすぐにするには反対側に曲げる」という比喩をしています。こういう価値を付着させないこと、価値の中立性を達成するには、否定的に言われることを肯定的な面から取り上げるのは、そういう役割をするのです。
これは引きこもりの積極的な意味を探す手がかりになるでしょう。私はこの質問をこのページの最初にもってきたことに成功を感じています。