一昨日10日に「ひきこもりの親の集まりに参加したサポート希望者の感想」を載せました。
その一節です。「一般的には原因や理由を詮索してから対策を立てようと思ってしまいますが、その辺はあまり重要じゃないのかな?と感じました。今をどうするかというところに重きをおいている感じを受けました」。
なるほど内容はそうなっているのかと思いました。数年前とは徐々に話している重点が移り変わっています。確かに私の中で「今をどうするか」を親として明瞭にできればいいと考えているところがあります。
逆に言いますと、引きこもっている当事者の様子と家族の関係がおおよそわかれば、多くのケースで先行きが見え、どこに向かうのかを考えられるようになってきました。
私のエッセイに2006年から2007年にかけて「社会へのアプローチの時期―脱引きこもり期(その1、その2、その3)」というシリーズがあります。この当時は、引きこもりになったことやその個人的な表われの「原因や理由を詮索して」いたことがわかります。エッセイを読み直すと原因というよりも生育歴・先天的な要素・心身の心理的教育的な作用など深い背景を考え続けていました。
そういう時期を越えて、状態がおおよそわかればその背景も推測できるのです。そのあたりの話しは参加するほかの親が自分の子どもの状態を理解する、相対化できるように期待しています。その上でそこに多くの時間を使うよりは、今はどうするのかに集中しようとしています。感想を見るとそのバランスをやや修正すべきではないかと思いました。進みすぎているようです。
個人差がありますし、私が回答を示す方法がいいとはいえません。そのあたりは微妙ですが、体験者が関係することを話すといいヒントになります。
高年齢化している引きこもりからの脱引きこもりがどういう形なのかはまだ十分には説明できません。いまは「引きこもりのままでの社会参加」も現実的にありうると考えています。引きこもりの側から脱引きこもり方法が考えられ、社会の側から引きこもりへの接近が進む先に答えの輪郭が明確になるもののようです。
想定する解決策がすべての人に当てはまるとか、納得できるとは思いません。しかし、そういう方法を含む全体的判断に到達していないという意味でまだ十分には説明できないのです。
感想を読んでみて、この数年間に何かは進んでいると感じました。しかし、道半ばであり、闘いは続くというのも実感です。