バスに乗っていたところある停車場で降り口から乗るという人がいます。
乳母車に小さな子どもを乗せたおばあちゃんのようです。
乳母車の人は幅のある降り口から乗るのです。
ちょっと苦労したようですがなんとか乳母車ごとかかえて乗り込みました。
子どもは私の席から数メートルのところです。
その子に見とれているうちにバスは進み、今度はバスから降りるようです。
降り口まで行って乳母車をかかえるのを手伝うことにしました。
運転手さんは乳母車が出るのを確かめ、私が車に戻るのを確認してから出発しました。
バスが動き出してから先ほどの停車場は自分も降りるところだと気付きました。
次の停車場で降りるボタンを押しました。
次のバス停から引き返す感じで歩いていると、先ほどの乳母車の人と出会いました。
互いに軽く会釈をしてすれ違いました。
いい話になりそうだったのにトボケた話になりました。
月別アーカイブ: 2014年9月
体幹と動物性臓器・植物性臓器-2の4
消化器は口から食道を通って胃に入ります。『内臓とこころ』の説明は口腔感覚の次に胃袋感覚になります。しかし、すぐに胃の理解に進むのではなく、(食道は省略しますが)胃を含む体幹(躯幹)を理解しようと思います。推測ですが内臓感覚という場合、これらの多くが何らかの意味でかかわっているはずです。
『人類生物学入門』の説明です。「身長は頭部と体部の和であり、体部は体幹と下肢の和に等しい。体幹は本来は運動器であるが、むしろ内臓の容器とみることができる。下肢は純粋な前進運動器である。下肢が環境の影響を受けやすいのは、それが運動器であるからである。…人体を自動車にたとえれば、頭部は運転台、体幹はエンジン部、そして下肢は車輪に比することができる」(100-101ページ)。
人体は体幹と頭部と上肢・下肢からなります。体幹のなかに内臓があるのですが、それは胸部と腹部にわかれます。『からだの法則を探る』では体幹は躯幹と言われます。その説明―。躯幹に内臓が収められている。「胸腔と腹腔との二つの箱に分かれている、と考えていいわけです。この二つの箱のあいだに横たわっているのが、厚い膜状の骨格筋で、横隔膜と名づけられています」(26ページ)。
横隔膜から上が胸の内臓、下が腹の内臓です。
胸の内臓には、肺、心臓、膵臓…。
腹の内臓には、肝臓、胃、大腸、小腸、腎臓、膀胱…。
『からだの法則を探る』はこれに続いて内臓をつくる筋肉の種類をまとめています。筋肉であるために「体幹は本来は運動器」といわれるのです。
骨格筋(横紋筋):自律運動をしない。骨と骨との間の渡し役。
内臓筋(平滑筋):自律的に動く。胃や腸の筋。
例外は心臓。「心臓も強い筋でできているのですが、それは繊維がたがいに橋のようにくっついているところのある特殊な構造で、しかも、横紋があるのです。これも内臓筋の一種で、意志の力では動きません」(47ページ)。
再度、『人類生物学入門』をみます。「消化器は本来不対性のものであるが、腹部においていちじるしく左右非相称になる。これは消化機能をたかめるため消化管が胴の長さより数倍も長くなるからであるが、その非相称な折りたたみ方には規則性がある。循環器は温血動物になって非相称となり、心臓は鳥類で右側、哺乳類では左側に偏り、基幹的な動静脈ならびにリンパ本管も非相称的になるが、末梢の部分は多分に相称的である。呼吸器のうち肺は心臓の影響を受け、右肺の方が大きく、気管支の長さも左右で異なるが、以上諸内臓の左右非相称性は機能的になんら特別の意味がない」(114ページ)。
器官(臓器)が左右にある場合(相称性)、ない場合(非相称性)の意味を説明しながら、全体としての「植物性器官と動物性器官」の関係をみています。
「舌の筋肉は、内舌筋、外舌筋ともに左右非相称運動が自由である。これは口周辺の表情筋と同じく、摂食活動上絶対必要なことである。しかし、咀嚼、嚥下、肛門括約などにあたる随意筋は左右非相称の運動はできない。発声にあたる喉頭筋、呼吸をいとなむ横隔膜や胸壁の肋間筋、そして腹筋も一側だけ作用させることはできない。…胸壁を片側だけ動かすこともできないし、また、それをなすなんらの生物学的意義もない。これらは生命維持のための器官であり、左右に分化する意味がない。
肺、腎臓、睾丸、卵巣などは左右一対あるが、これは片側が損傷しても、多側で補償することができる利点をもつ。感覚器も対性であるが、聴覚器は音源を知るためにも左右がそなわる必要があり、視覚器も左右にあるため、立体視が可能である。ともに利き耳、利き目というものがあり、習慣と結びついている。
左右性というものは有対の器官において、左右分化の必要がなければ成立しない。生命維持をいとなむ植物性器官には存在せず、動物性器官でも生命維持と密接なものでは発達しない。結局、前進運動、摂食活動、視聴覚にかかわる器官において、はじめて左右非相称現象が見られる」(119-120ページ)。
『内臓とこころ』では、動物性器官を体壁系(外皮、神経、筋肉)とし、植物性器官を内臓系(腎管系、血管系、腸管系)と表現しています。神経系は脳につながり、血管系は心臓につながります。これらの全体がそろっているので体幹(躯幹)では体壁系と内臓系の位置が明瞭になるはずです。
舌による感覚と感覚体験―2の3(2)
『内臓とこころ』の説明では舌の役割と乳児の口唇・母乳の役割が連続して説明されます。「脊椎動物が魚類から両生類になって、水から上陸して、ものを食べる時に、どうしても必要な手となってくるんです。魚の場合は、しっぽとひれの運動で、自由に餌のところに行ったり来たり…いったん陸に上りますと、最初は食物の近くにきても、パッと飛びかかる運動ができない。その代わりに発達したのが舌です。…舌というのは生命を維持するための大切な触覚と捕食器官を兼ねている」(32ページ)。
この一部は『進化のなかの人体』でも説明されます。「人間も脊椎動物のメンバーだから、比較解剖学的にみると、人間のからだはサカナを土台ないし原型にしている…鼻は出発点としては、呼吸用であるより前に、嗅覚用の器官だった。そして呼吸のほうは、水中に溶けこんでいる酸素を鰓で摂取していた」(58ページ)。
『人類生物学入門』ではこうふれます。「生物の歴史のなかにも、いくつかの革命的変化はあったが、水中から陸上に生活の場を変えたことほど大激変はあるまい。身体構造もそれに応じて、相当な変化が見られる。そのうち最大なものは、呼吸器と運動器の変化であろう。…鰓呼吸から肺呼吸へという変化である。消化管の一部は深く陥没して、肺を形成し、従来の鰓は甲状腺その他の鰓性器官と化した。魚類の時代は体幹を左右に波状運動させることによって前進していたが、陸上動物になると体肢が生じ、それによって前進運動を行うことになった」(131ページ)。
『内臓とこころ』は続いて先行する生物が獲得した成果を後続のより高等化した生物が受けつぎます。人類も例外ではありません。
「舌の筋肉だけは、さすがに鰓の筋肉、すなわち内臓系ではなくて、体壁系の筋肉です。…顔面の表情筋が全部鰓の筋肉であるのに対し、舌の筋肉だけは手足と相同の筋肉です。…舌というのは、内臓感覚が体壁運動に支えられたものだと思えばよいのです」(34ページ)。
一言でいえば舌の感覚は内臓感覚の一種です。体壁系とは、外皮系(感覚)、神経系(伝達)、筋肉系(運動)から構成されます。それに対する内臓系は、腎管系(排出)、血管系(循環)、腸管系(吸収)から構成されます。舌は外皮系の筋肉(運動)に支えられた腸管系=食物の吸収の働きをし、内臓感覚をもつ特別の筋肉というわけです。
*『進化のなかの人体』にあった舌の特徴:「男性はどの筋肉も女性よりより発達しており、とくに上肢と下肢で性差がはっきりしている。…ドイツの解剖学者ワルダイエルが、たったひとつの例外をみつけたという」。それは舌で「女性では、この筋肉はかなり力強く発達しており、おまけにじつによく動く」(106ページ)。
この後で人間の哺乳時期の舌の役割、“なめ廻し”による“生命記憶”の説明があります。この部分は正統派の解剖学や生理学では及ばないはずです。育児の場面や母乳の説明になり、先の『母乳』で説明したとおりです。それを乳児の側からみたらまた別の役割もあります。内臓感覚は後天的に“鍛えられる”こともあるのです。
『内臓とこころ』の説明です。「正常な哺乳とは…母親の乳首から直接吸うことです。この唇と舌の、最も鋭い内臓感覚でもって、母親の乳首のあの感覚を味わい尽くす。…赤ん坊の時には、まず哺乳動物であることの最低の条件を満たすためにも、母乳を体験させないといけない」(35ページ)。
「乳房を吸わせ続けるということは、内臓感覚を鍛える、それはかけがえのない出発点であると思うんです」(39ページ)。
「ふつう六カ月過ぎて首が据わって、手が自由になりますと、手あたりしだいに物をなめ廻します。…この時に鍛え抜いた舌の感覚と運動が、後になって、どのように生かされてくるか…。いまの心理学のことはわかりませんが、たとえば、コップを見て“丸い”と感じるでしょう。これは類人猿には見られない、まさにホモ・サピエンスの特徴です。この“丸い”と感じる、その奥には、この“なめ廻し”の、ものすごい記憶が、それは根強く横たわっているのです。…そこには手のひらの「撫で廻し」の記憶も混然一体となっているはずです。…からだに沁みついた、かつての記憶――私どもは、これを“生命記憶”と呼んでいます…」(39-40ページ)。
*舌と手は、脊椎動物の筋節から生じた「将来の腕の筋」と「将来の舌の筋」という「兄弟の関係にある」ことが発生的に図示されています(33ページ)。
もう少し追加しておきましょう。“なめ廻し”には「適度のバイ菌がいる」畳なども対象になりますが、「そのバイ菌を入れてやると、腸管のリンパ系が心地よく刺激されて、加不足ない防御体制ができあがる」(42ページ)。「少々の毒物は、ですから舌を通してどんどん入れてやることです。それを衛生だとかなんとかやりますと、無菌動物になる」(43ページ)。〈清潔は病気だ〉みたいな本がありましたが、ここにつながるわけです。それはまた別に扱うことになります。
舌による感覚と感覚体験―2の3(1)
私は自分の舌が特別の動きをするのに気づいたのはいつのことだったか…たぶん小学生のころに少し変わっていることを知りました。O字型に膨らませられます。U字型に丸められます。舌の上下をひっくり返すことができます(付け根の部分は変えられませんが右側でも左側でも)。舌の先端を上向き下向きに口の奥の方に曲げることができます(∩型にはできません)。それによる利益はありませんでしたが、かなり器用に動かせるのです(食べ物の好き嫌いが多いのは味覚の敏感さによるはずで、これは別もの)。
『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記(下)』(1452年~1519年。岩波書店、1958年)の中に「舌の主要な運動は七種ある。すなわち伸ばす、抑える、縮める、膨らます、短くする、拡げる、細める」(248ページ)とあります。ここには丸める、曲げる、ひっくり返すがありませんし、膨らますは実態が違うかもしれません。ダ・ヴィンチは画家として観察的な解剖学をしています。
舌は感覚器官としては味覚を担当します。その感覚は内臓感覚とは違うのでしょうか?
『人体の不思議』では、舌と味覚をやや詳しく説明しています(82ページ)。そのうえで「味覚には、まだ未知の分野が多い」(84ページ)としています。
「食物が口の中に入ると、舌が後方に動いて、食物を後ろへ送り、口蓋扁桃(いわゆる扁桃腺)の門を通って、喉頭蓋および咽頭の粘膜の上を滑る。すると、咽頭は前上方へ引かれ、閉じていた食道の入口が開いて、食物が入る。
人を含めた哺乳動物では、口腔粘膜のほかに、喉頭蓋や咽頭にも味蕾のあることが、古くから知られている。咽頭の味蕾は、気管に食塊が入らないように、喉頭が閉じる前に咽頭で味覚を受け、その情報を伝える働きがあるといわれている」(85ページ)。
正統派の解剖学や生理学の説明では、このように味覚以外の感覚器官としての説明はありません。
手元の文献には舌に関する説明は少ないです。『人類生物学入門』でも舌の説明はあまりありません。後で見る『内臓とこころ』との関係では、乳児と母親・母乳の説明は参考になりましょう。
「注目すべきは、人類の乳頭の数と位置である。…体幹が直立するとともに上肢が自由になり、育児にあたって子どもを胸に抱くためである。つまり、サルでもヒトでも、乳児を胸に抱き、その顔を見ながら哺乳するわけであり、乳児も母親の顔をみながら乳房にすがることになる。哺乳にあたって母子のスキンシップが満たされるばかりでなく、顔を見つめあうことにより、母子の紐帯が他の動物よりはるかに緊密になるといえよう」(102ページ)。
このあたりは以前に読んだ『母乳』(山本高治郎、岩波新書、1983年)に詳しく書かれています。舌の説明は少ないのですが、こうあります。
「新生児がきわめて鋭敏な味覚を持っていることは古くから知られています。…彼らは甘・苦・酸を識別します。単味の水と甘味のある水と、熱量を含んだ水を、そのときどきの必要に応じて弁別し、必要を充たしていきます」(196ページ)。
「…乳首が唇に触れますと、口は自然に開いて乳首をくわえこんでしまうのです。…乳頭が口の中に入ると別の反射が作動します。吸啜反射と呼ばれる反射です。吸啜は、下顎と舌によって母の乳首と乳輪を口蓋に圧し上げながら、前から後ろへと強い力でなでつけてゆく運動です。…生理的な吸啜運動は、1分間100回前後のリズムでおこるきわめて律動的な運動です。吸啜には下顎の活発な運動が伴っていますから、そのリズムは、容易に外から観察することができます。…最初の抱擁において、このように吸啜反射が見られることは、生への第一の関門が見事に通過されたことを意味します」(197-198)。
この説明は解剖学や生理学とは少し離れますが、「西洋医学は病気を治す」ことに集約されてきたものとは少し違う説明になります。
子どものSOSソングライターで売り出します!
「15歳からのSOS~お子さんの手紙を預かっています」の内容を検討する会を開きました。2時間のトーク&ライブをたのしく豊かにするためです。悠々ホルンに来ていただき、藤原宏美さんと私の3人が集まり27日夜のことです。
十代の子どもからもらった手紙など内容はいっぱいあります。リストカットをする子どもが多いのですが、これらをどう伝えるのか。子どもたちの置かれた“現状を”子どもたちの言葉で伝える一部、“何でだろう”と考える二部にする原案をホルンさんから提案してもらいました。これを時間オーバーにならないように圧縮する感じで考えることになりました。
演奏会の参加者の書いてもらうアンケートも、多くを書いてもらうよりも「これから子どもにどんな声かけをしたいですか?」というようなものにしようとか、書く時間、筆記具や机(書く場所)の確保、参加者のうち住所や名前を書くのに抵抗のある人への配慮なども…。12月13日が近付いたら会場でリハーサルをしよう、10月にはタイムスケジュールに沿った事前演習をしよう、と決めました。
宿題にしたのは、悠々ホルンの“呼び名”? というかキャッチフレーズというか。後でホルンさんが考えてきたうち 子どものSOSソングライター で売り出そう!と勝手ききめました。広がるといいのですが、よろしくお願いします。
参考(引用)文献、要素と総合など―2のX
顔については、目、鼻、耳、歯、頬、顎などの顔面部位がありますがさしあたりは省略します。眼科や耳鼻咽喉科があるのに、顔科(かおか)や口科(口腔科)がないのが要素的な西洋医学的発想の限界が表われているといいました。しかしまた、顔科や口科があったとしても、人体全体からみれば要素部分にあたります。そうすると要素に分けることは事態を理解する一過程であると認めなくてはなりません。必要なのは要素を総合することで、総合は単純に部分の合計ではなくまた違った性質というか働きがあります。それは生物学における細胞が基本単位でありながら、細胞自体が細胞核や遺伝子DNAの研究を必要としていることにも通じます。
参考(引用)文献になる可能性のあるものをまとめて載せます。
すでに紹介したものもありますし、入手したばかりで読んでいない1冊も含まれます。
◎『内臓とこころ』(三木成夫、河出文庫、2013年)。
◎『人体の不思議』(吉岡郁夫、講談社現代新書、1986年)。
◎『進化のなかの人体』(江原昭善、講談社現代新書、1982年)。
◎『からだの法則を探る』(林髞=はやしたかし、講談社現代新書、1964年)。
◎『皮膚の科学』(田上八朗、中公新書、1999年)。
◎『人類生物学入門』(香原志勢、中公新書、1975年)。
◎『生命を探る・第二版』(江上不二夫、岩波新書、1980年)。
◎『生命の起源を探る』(柳川弘志、岩波新書、1989年)。
◎『生命の奇跡』(柳澤桂子、岩波新書、1997年)。
◎『臨床の知とは何か』(中村雄二郎、岩波新書、1992年)。
◎『悲鳴をあげる身体』(鷲田清一、PHP新書、1998年)。
◎『顔面考』(春日武彦、河出文庫、2009年)。
◎『動物の体内時計』(桑原万寿太郎、岩波新書、1966年)。
◎『進化論が変わる』(中川英臣・佐川峻、講談社BlueBacks、1991年)。
◎『医学は科学ではない』(米山公啓、ちくま新書、2005年)。
◎『中国医学のひみつ』(小高修司、講談社BlueBacks、1991年)。
◎『東洋医学』(大塚恭男、岩波新書、1996年)。
◎『アーユルヴェーダの知恵』(高橋和巳、講談社現代新書、1995年)。
◎『名医が伝える漢方の知恵』(丁宗鉄、集英社新書、2013年)。
◎『セレトニン欠乏脳』(有田秀穂、生活人新書、2003年)。
口科という診療科もありませんー2の2
『内臓とこころ』が口の役割において最も重視するのは「食物を選別する精巧無比の内臓の触覚」のところと思われる。つまり消化器官のはじまりの部分です。著者が食と性を動物として、人間としてのもっとも基本におく点とも一致します。
ところで『人体の不思議』ではこういわれます。「患者が、何科で診てもらったらよいか、と迷うのが口の病気である。内科、小児科、外科、皮膚科、耳鼻咽喉科、口腔外科(歯科)で扱うから、文字通り境界領域の病気です」(76ページ)。顔科に続き欲しいのは口科または口腔科ではないですか。
口は消化器のはじめにあたります。呼吸器の役目もするし、言葉を発する器官、そして感覚器官でもあります。『皮膚の科学』には皮膚全般の感覚器官の役割を書いていますが、感覚器官としての口は触れていません。
『からだの法則を探る』のなかでは、消化器の説明において口は「消化器…口から咽頭を経て胸部を通り、横隔膜を抜け出て腹腔にはいると胃です。胃から十二指腸を経て小腸、それから大腸へとさがります」(105ページ)と素通りになります。他の臓器については多少の説明がありますが、口には戻ってきません。感覚器官からの説明は舌に限られます。
『人体の不思議』においては「口も消化器の一部」としています。図になかで口は「歯による破壊、唾液による分解」(79ページ)と説明します。
口唇:「解剖学では口のまわりをとり囲んである部分全体をいう」(『進化のなかの人体』63ページ)は、「顔面の皮膚の続きである外皮部、口腔粘膜の一部である粘膜部、皮膚と粘膜の移行部である口唇縁の三部に分けられる」(『人体の不思議』80ページ)。これらはいわば正統派の解剖学や生理学の知見を要約的に述べてものだと思います。
これらに対して『内臓とこころ』の説明は生物の発生と進化の過程を踏まえたものになります。正統派の知見が省略している部分を引き出し、食物を体内に入れる触覚の役割を際立たせています。
「解剖学的に、これは鰓(えら)です。鰓腸(さいちょう)と申しまして、腸の最初の部分が外に出ているところです(28ページ)。「鰓腸は、顎から下は、かなり退化して文字通り“くび”れ、そのうえ変形して“のどぼとけ”になっている。これに対して、顎の部分は本来の鰓のままで顔の下半分を占めている。俗にいうエラが張っている、というあれです。そして顔の上半分に、その鰓の神経と筋肉を送っている。…あれに耳たぶの部分を加えたものが、要するに内臓の前端露出部ということになる。…ここが古い鰓の感覚が残っているところです。そしてこの鰓の感覚は、そのまま口のなかに続き、そこからノド元を過ぎて、胃袋のへんまで及んでいます」(30ページ)。
「内臓感覚といった場合、…この感覚がもっとも高度に分化した場所として、この唇と舌を考えればいいわけです。…この入口こそ、食物を取り込む、つまり毒物と栄養物とを選択する“触覚”に相当する場所だからです」(32ページ)。
この次に舌の役割について説明が続くのです。
顔科のある病院はありませんー2の1
加賀乙彦さんに『頭医者』という本があります。書名は眼科や耳鼻咽喉科があるので頭科もよいのではと思い頭医者という言葉が出てきたとありました。ところで多くの人がより欲しいのは顔科かもしれません。じつは口科もないのです。このあたりは頭部を脳や目や耳などの要素に分ける西洋医学的発想の限界が表れているのかもしれません。その周辺事情から「メンタル相談施設を考えるエッセイ」の第2部を再開しましょう。『内臓とこころ』を詳細に読み込んでいくスタイルになります。
『内臓とこころ』における内臓感覚の説明のはじめは膀胱感覚、次に口腔感覚、そして胃袋感覚です。膀胱感覚についてはまだ何かを得ることができないので後回しにします。 口腔感覚の項目はこう書き始めています。 「顔は内臓の前端露出部だが、唇から舌にかけての感覚はとくに鋭敏で、これら尖端部の構造は食物を選別する精巧無比の内臓の触覚となる。この機能は正常な哺乳によって日々訓練されてゆくが、やがて赤ん坊はすべてをなめ廻し、将来の『知覚』の成立に備える」(27ページ)。この部分を少しずつみていくことにします。参考文献はそのつど明記しますが、出版社等は別にまとめます。まずは顔です。顔はいろいろな面から見なくてはならないし、見ることが可能です。
手元の本で詳しい説明は『人類生物学入門』にあります。広義の頭部は性質、役割の違う異なる2つの部分からなります。静的な脳頭蓋(狭義の頭)と動的な顔面頭蓋、顔はそのうちの顔面頭蓋です。 「顔面頭蓋は大部分が口、いいかえれば体外からの新陳代謝物資の導入孔となる。 系統発生的にみて、口はもっとも古いものである。はじめは単なる摂食器にすぎなかったが、やがて歯に成立とともに捕食器となり、唾液腺の発達した哺乳類では咀嚼器に変じ、そして人類では美味求真の快楽受容器と化した。 歯によって食物は小片に切断され、噛みくだかれ、胃で消化作用を受けやすくされる。それにともない、上下顎はかなりはげしい律動的運動をなすようになった」(59ページ)。
このあと鼻の説明が続きますがそれは後回しにします。少し先に進んだところに「顔と心」という見出しがあるのでそこから少し…。 「脊椎動物が進化するにつれて、個体性が確立していく。個体性がもっとも強調されるのが精神であり、…人体においてもっとも顕著に表現されるのが顔である。…人類においては顔は脳頭蓋と顔面頭蓋の合成部であるだけでなく、心を表現する部分なのである。そのことは、他の哺乳類と根本的にちがう。いいかえれば、人類において顔に個人差がいちじるしいのは、ひとえに人類が心の動物であり、その心の表現部位が顔である」(83ページ)。 さらに無毛性は「人類の重要な特徴」であり、「もし顔面部に毛が生えていたならば、無意識的な年齢推定はほとんど不可能」(87ページ)としています。
『進化のなかの人体』では内臓頭蓋部ということばが使われています。「あたまの役割という面からみると、だんだん発達して大きくなる脳を、安全に保護する容器の役割をする脳頭蓋部と、採食・捕食・咀しゃく用である消化器官の口、呼吸用の鼻などをまとめた内臓頭蓋部からあたまはでき上がっていることがわかる」(50ページ)。
もう1冊あげます。『顔面考』(春日武彦、河出文庫、2009年)で著者は、精神科医。 村上仁さんからの引用です。 「幻像が大して自分に似ていなくても、それを自分自身の像であることを確信して疑わないのがこの現象の特徴である…このような事実を説明するためにソリエという学者は、この場合外界へ移転されるのは自己の内臓感覚だ、といった」と記している。そして続けて書いている、「近来の学者は内臓感覚というフランス流の少し古風な概念の代わりに、身体図式という言葉を用いる」と」(131ページ)。孫引きの中の引用文なのでごちゃごちゃしているけれども、注目です。
村上仁さんからの引用がさらに続きます。 「身体図式を理解するには、外科手術で手や足を切断された患者の訴える、幻覚肢という現象を観察するのが最もよい。戦場などで一方の足を切断された患者は、その後一定期間は切断された足が実際に存在すると信じ、その戦傷部位に痛みを感じ、足指などの運動を幻覚的に体験することがある。この事実は自己の身体各部の形態、運動、感覚等に関するわれわれの意識は…、身体瑣末部とは独立に相当強固に大脳内に形成されているということを教える。自己像幻視においては、この身体意識あるいは身体図式が外界に移転されると考えると、この現象の種種の特性がよく説明できる」(132ページにある引用)。 村上仁さんは精神病理学医、ソリエはフランス人心理学者といいます。
最後の『顔面考』からの引用がおもしろく、内臓感覚というのはでてきました。しかし、その言いかえ表現の身体図式は大脳内の現象に終わっています。ただそれだけで終わっていないようです。それもまた後で…。
「不登校・ひきこもり・サポート相談室」をつくりました
あまり熱心ではないのが取り柄(?)だったのですが、不登校情報センターの相談活動をもうちょっとちゃんとしようということになりました。いえいえ、ちゃんと相談は受けてきているのです。問題は体制というか仕組みというのがわかりづらいのを何とかしようという話です。
フェイスブックにメインのページをおきました。
「不登校・ひきこもり・サポート相談室」といいます。
https://www.facebook.com/futoko.hikikomori.soudanshitu
かなりわかりやすくなったはずです。(うまくリンクができません!?)
不登校の子どもさんのいる親の方、不登校の中学時代をすごしいろんなことがわからずに戸惑っているご本人から連絡を待っています。
初参加4名が加わりゲーム交流会(9月23日)
合計参加者は9名のうち初参加が4名、1人は初めて情報センターに来たKくんです。
テレステレーションだったかテレジネーションだったか、交信とイマジネーションの合成語がゲーム名になったもの、このカードゲームの正式な名前は忘れましたが、一種の伝言ゲームの“実績”をコピーしておきました。
言葉がありそれを1分の短時間で絵にする、その絵を見て何を表現しているのか言葉に書く、次の人はその言葉を絵にする。これを繰り返し9人のところを回って自分の元に戻る。
うまく伝わるものもあるし、あっちの方に行くものもある。特に見当外れが笑える。そういうゲームです。この絵の部分をコピーしました。言葉の部分も欲しかったのですが、合間の短時間にコピーするのが難しかったわけです。
新参加のK君はいくつかのゲームを持参し、日本歴史のカルタやトランプもありました。予定を1時間ほどオーバーして終了。
来月は10月19日(日)の予定です。