代替医学や伝統医学を判断するには科学の側が進歩する必要がある

人間の身体科学としての医学はどうでしょうか。人体を部分や臓器に分けて(要素にして)研究や理解が進んできました。ところが人間全体を理解する点ではいろいろが行き詰まっています。人の精神作用をこのような部分に分解したらうまく析出することができるのでしょうか? 脳と神経系がその役割を担っているように考えられますが、とてもそれでは説明できないのではないですか?
私は30歳頃の1970年代に都内のある小さな診療所で働いていました。そこは針治療を取り入れていました。民間医療と西洋医学の融合の先行事例かもしれません。ときどき学習会というのがあり東洋医学についてもテーマになることがありました。鍼灸講師の玉田先生の言葉で印象的で覚えているのが、
「東洋医学ではまず患者の全体をみます。表情や雰囲気に精気があるのかというようなことです」。部分の前に全体があり、常に全体が問題なのです。部分を治療しますが見るのは全体です。
医学の関係者も身体を分解し理解することの限界をそれぞれの立場から訴えています。門外漢の私が偶然に手にした書物によるものを紹介します。

「西洋医学の薬による副作用の恐ろしさが喧伝されてきたこと、「難病」で代表されるように、西洋医学ではうまく治療することができない疾病が増えてきたことなど、いくつかの理由が考えられると思います」。これは、漢方・東洋医学が脚光を浴びてきた背景を述べた部分です。それに続いてこういいます。
「最大の理由は、西洋医学が人体を個々の臓器の集合体と考え、総体の人間として見ることをおざなりにしてきたことにあるように思われます。「病める人」を見ずに「病める臓器」を見ることに追われてしまっている医者・医療に対する不信感がつのり、そのために西洋医学に対して、さまざまな不安と疑問が潜在化しているのではないでしょうか」(5ー6ページ)。これは『三千年の知恵 中国医学のひみつ』(小高修司、講談社BLUE BACKS、1991年)。

「私たちが自分の持っているパラダイムにあらためて気づくのは、長年使い慣れてきたパラダイムが役に立たなくなったときである。今まではうまくいっていたのに、最近どうも理解できない現象が起きている、あるいは予想のつかない事態が発生している、などと考えるとき、それは現実が私たちのパラダイムを超えて変化しているときである。…私がアーユルヴェーダを勉強して最初に見えてきたもの、それは役割を終え、新しいものにとって代わられようとしている近代西洋医学の古いパラダイムであった。それは次の三つの大前提にたって物事を考えてきたといえるであろう。つまり、
第一に、医学とは病気を治療するための科学である。
第二に、その治療技術は人間が生み出したものであり、
そして第三に、治療技術は目に見える身体(物質)だけを扱うものである。……
この三つに代わるものは何か。それは、
第一に、健康を扱う医学であり、
第二に、自然治癒力を引き出す治療技術であり、
第三に、身体を越えていく精神(意識)に注目する医学である。
これはアーユルヴェーダが現代医学に対して持つ新しいパラダイムである。
(高橋和巳『アーユルヴェーダの知恵』25―26ページ、講談社現代新書、1995年)。

もう一人は西洋医学のなかからの主張です(米山公啓『医学は科学ではない』ちくま新書、2005年)。
「西洋医学は万全ではない。…その受け皿が代替医療といっていい。そのなかには非常に多くのものが含まれ、まったくインキチなものから、伝統的な医学まで雑多なものがある。しかも、その有効性を科学的に証明することが非常に難しい。なぜなら、それら代替医療は医学的な考え方や方法論がまったく異なるため、統計学的な比較を行うこと自体にまったく意味がないことになっているからである。
代替医療には鍼灸、アーユルベーダ医学、カイロプラクティック、ホリスティック医学、ホメオパシー、アロマテラピーなど数多くのものが含まれる。…医者のやることにいつも批判的な姿勢をとる人であれば、代替医療のいくつかにある種のあやしさを感じ取り、代替医療の治療法をすべて鵜呑みにするようなこともないであろう。…
代替医療は、西洋医学が失っているものを確かに持っている。それを患者が求めているのも事実である。そこに科学という視点だけでは理解できない患者の心理がある」(181-182ページ)。

紹介した3人の意見はとらえるている西洋医学の面が少しずつ違います。西洋医学には多くの達成を認めながらもそこを乗り越えなくてはいけないとする点で共通しています。乗り越える先に用意されているのは代替医療や伝統医学であり、それらを科学的に裏付けられたものにしなくてはなりません。ところが裏づける側にいる科学の方が取り扱い難いものを避けてきた代償を払うように改変を迫られているのです。そうでなければ代替医療や伝統医学を評価し判断する審判役になれないのです。おそらく科学はこの事態を迎えて大きく進歩するしかないでしょう。
  
 

要素論、数量化、法則の形式性のやりかたが行き詰まっている

8月11日の「「メンタル相談」ページに紹介できる判断基準」をさらに追求していくつもりです。考えていることは医学との関係になります。文献からの引用が多くなり、読みにくいことは受け合います。一通りのテーマをまとめ、分割して3、4回ぐらいに分けます。
最近のニュースにiPS細胞移植による始めての手術が伝えられました。STAP細胞の有無または有効性が疑問視される中で一服の清涼剤でしょう。さて話題は両方とも“細胞”です。
少し前に読んだ本、40年前に発行されたものですが、これは人間科学にとっても欠かせないと思います。竹内啓・広重徹両氏の対談です。『転機にたつ科学 近代科学の成り立ちとゆくえ』(中公新書、1971年)によります。

ニュートン以来成長し確立していった近代科学を「要素論、数量化、法則の形式性が、近代科学の三つの特徴」(24ページ)と評価し、特に物理学、化学にそれをみています。

私が注目したいのは生物学です。「細胞で要素論をやってゆくのが科学的方法だという考え方が定着するのが、19世紀初めですね。(78ページ)…細胞自体、内部構造をもっているということがありますね。…要素と言ってもいろいろ違いがあると思う…。要素と言っても、それ以上分けられないという意味ではないので、ここで現象のレベルという考えが入ってくると思います。つまり化学変化を捉えていく場合、その現象、変化を担う単位になるものが元素であり…あらゆる化学変化はさまざまな元素の出入りとして捉えられ、そういう出入りを通して元素は不変であるということですね」、「元素からもう一つ先まで見ていくと、化学現象ではなくなる。生物について言えば、細胞をこわしても化学的な過程はあるけれども、生物としては存在しなくなるという意味ですね」(79ページ)。

ここで社会関係の要素として商品が出てきます。「『資本論』の最初に出ている、資本主義社会の富の要素形態(Elementarform)は商品であるから、資本主義社会の分析は、商品の分析から始まるという文章です。…しかしその場合の商品は、物理学の質点や化学の元素と違って、そのなかに社会的関係を含んだ、いわば生物の細胞にたとえればいいようなものだと思います」(81ページ)

「現代の科学は、いろいろな方面で行き詰まり、退廃的な様相が出てきている…それをもたらした一つの要因として、つねに下位へ下位へと降りてゆくことが、認識の進歩であり、高級な理解の仕方であると…」、「政治学でいろいろな国際紛争を…対立関係のモデルをつくってゆくうちに、すべての対立を抽象的に取り上げ…ゲーム理論になって、きれいな理論になる。…どこかで枠を一歩越えたら、対立は対立でも国際政治における対立とは無関係になってしまうところを、大幅に踏み越えてしまっている。…一見きれいな理論ができても、現実に戻ってこられなくなる」(82ページ)。

「要素はいつでもある面の抽象でしかない…力学がうまくいったのは、われわれの身のまわりにある現象は雑多というか、多様性に富んでいるけれども、そのなかから速度、加速度、質量をうまく取り出し、それを担っているものとしての質点をうまく抽象して、実際にはそんな質点はどこにも存在しないけれども、それについて理論体系をうまくつくりあげた。…それが成功したから、何でもそうやればよろしいということで始めたのが、やはり少しまずかった…」(83ページ)。

要素論、数量化、法則の形式性で追及する現代科学の理論が空論になる、行き詰まりや退廃になっていることを例証し、転換の必要性を述べているわけです。もう40年以上前ですが、たぶんそれ以前に出てきた意見をこの時点で総括的にまとめたのです。8月11日のブログで柳澤桂子さんが言われた「科学は、本質的に、答えられる問題を探し出して、それに答えるだけのものである。答えられない問題は、はじめから切り捨てているのである。私たちは、何が切り捨てられているのかということも考えずに、あたかも、科学はすべての問いに答えられるかのような錯覚に陥りがちである」のより詳しい説明です。