因果関係による証明でなく了解的関連という枠組み

フロイトの夢の中の象徴や精神分析療法を考えるうえで参考になるのはK.ヤスパースではないかと思います。K.ヤスパース『精神病理学原論』(1913年、西方四方・訳、みすず書房、1971年)からの引用です。
「理論は皆意識外のものに関係がある。すなわち意識された精神生活の基礎にあると考えられるもの、意識された精神生活をおこす原因となるものである。心理学で用いてかまわない理論というのはごく一部の事実の説明に用いて成績が上がるような観念であるが、しかしそれが正当であるといえるのはそれが用いて有効であるからであって、そこに考えられたことが真実であるからというのではない。」(30ページ)。
ごく単純化すれば、真実よりも有効性というわけです。これに飛びつくと有効なものは何でもよいとなりかねません。しかし、ヤスパースはもっと深いところからこれを言い、了解的な関連という物事の理解の枠組みをつくりだしました。
「了解的関連というのは理想的な類型としてなるほどそうであるとわかる関連であって、これを尺度として一つ一つのケースを測るのであり、それら個々のケースはその尺度に、時にはよくあてはまり、時には少ししかあてはまらないというようになっているのであるが、このものが誤って法則とされ、精神的な出来事はすべてこれにあてはまるとされたり、或いはまったくあてはまらないとされる。この種の偽の法則や理論を作るのはフロイトやリップスの心理学がよくやることで、こういう研究者ことにフロイトのやることには空想的な特徴やでっち上げがあって、それに反抗してみないとこれらの了解的心理学の価値ある核心に到達できない」(31ページ)。ここではフロイトもさんざんです。しかし、それだけではありません。
ヤスパースはフロイトの病状の精神分析的な見解を「かの如き了解」(AlsobVerstehen)として認めます。因果(原因結果)的な関連とともに、実験ができない人間の精神的な領域について了解的な関連という理論を展開したのです。因果的な関連というのが発展して今日のEBM(実証に基づく医療)になったはずです。それに加えてヤスパースは了解的な関連を打ち立て、フロイトは「今日の精神医の中では疑いもなく了解心理学の最もすぐれた人の一人である」(185ページ)とされるのです。
ヤスパースがこう認めたからというのではありませんが、フロイトの精神分析療法は目覚ましい広がりを見せました。精神科医がフロイト的な方法に注文をつけながら受入れているのは大方こういう理由ではないかと思います。

EBMレベルの精神分析療法を求めるならば次の意見が参考になるのではないですか。
「フロイト的な精神分析学は科学であるかどうかという問題があると思います。精神分析学で、フロイトが無意識というのは実は無意識の意識であり、本当の意味の無意識とは、ああいう無意識ではなくて、脳髄のなかの物理的なエネルギーであるべきだと思うのです。それならば純粋の無意識と言っていいと思います。それが意識に影響を与えるというならいいけれども、フロイトの無意識の概念、たとえばいわゆるエゴというようなものは、どこかに貯えられている意識のことですから、これは奇妙な概念だと思います」
(竹内啓・広重徹『転機にたつ科学』(中公新書、1971年、177ページ)。
この見解が何らかの形で立証されたかどうかを知りません。立証する特別の意味・利益がなければ立証されなくても精神分析療法は大きな支障なく継続していくものと思います。

最後のところは保留するとして、EBMレベルではなくても了解的な関連において認められるならば「メンタル相談」には十分に掲載可能なのです。しかし、もっと範囲は広いものと想定しています。ヤスパースを参考にすれば真実よりも有効性かもしれません。西洋医学ではプラシーボ(偽薬)効果も肯定されているのです。
8月11日のブログで書いた「「メンタル相談」ページに紹介できる判断基準」は相当にいいところをついていませんか。

カラーセラピーにおける象徴の有効性を考える

「メンタル相談」ページに扱う施設に関する探究は予想を越えて広がりそうな感じになりました。とても4回ではすまないことがはっきりしました。この際、終わりを想定しないで思いつくことを書き連ねることにします。読みにくい文で申し訳ないですが、お付き合い願います。さて、

チユ-リップは「博愛」、あさがおは「はかない恋」、のばらは「詩、才能」を示す花言葉とか。サイト内の花言葉集をみたら聞いたことのない花の名前が並んでいて、それぞれに花言葉があるのを教えられました。
花言葉は文化の1つ、自己表現とコミュニケーションに有効な文化になるはずです。花の名前と花言葉の間に証明できるような関係は(たぶん)ないでしょう。それを求められる状態にもないでしょう。

ではこれはどうでしょうか。
赤の象徴「情熱。プラス要素:非常に活力があリ何事にもパワフルです。マイナス要素:心に不満や怒りを抱えて攻撃的になります。」
緑の象徴「平和。プラス要素:おだやかで心身のバランスがとれています。マイナス要素:安らぎが望めない日々で心身ともに疲れています。」
青の象徴「接触。プラス要素:自己表現ができコミュニケーション能力があります。マイナス要素:人との接触で精神的に疲れています。」
これらはカラーセラピーを扱うサイトの書かれていた色(カラー)とそれが示す象徴の一部です。
カラーセラピーもまた花言葉と同じような文化ならば無色透明なものですが、セラピーが療法を意味するなら、文化とはいえ医療・健康周辺の文化になります。その範囲で心身の健康に有効であるとうたうならば、何らかの証拠(evidence)を求めたくなりませんか。実は私もそう考える1人ですが、証拠がないからすぐにだめという結論にはなりません。それを考えるのです。

カラーセラピーを心身の健康には無関係と考える人にお尋ねします。それではS.フロイトの精神分析療法にも、カラーセラピーと同様に何らかの証拠を求めたいと考えますか。フロイトは精神分析療法を構成するに当たり夢の中に出てくる動植物や物を象徴として示しました。少し引用しましょう。
「さて男性性器一般に対しては、聖なる数としての3が象徴としての意味を持ちます。…陰茎を象徴的に代理するものは、…つまりステッキ、傘、棒、木などです。」
S.フロイトの『精神分析入門・上巻』(1915-17年、高橋義孝・下坂幸三・訳、新潮文庫、1972年、196-200ページ)には多くの象徴が並んでいます。
カラーセラピーに何らかの証拠を求める人はフロイトの夢の中の象徴にも何らかの証拠を主張するとみなくてはなりません。フロイトの象徴とそれに基づく精神分析療法にも同様な態度をとるはずだからです。
もしその方が精神科医であれば、フロイト的方法でない対応をしているのでしょうか。そうするともっぱら投薬になるのでしょうか。大まかな論理展開ですがこういう疑問が湧いてきます。
そうではなくてフロイトを相当の意味で肯定しているのでしょうか。そうするとそのEBM(実証に基づく医療)はどうなるのでしょうか。EBMではなくて惰性でしょうか? いや失礼しました。米山公啓さんのいう「実際の臨床の現場では、意外にも、医者の経験に基づく判断であったり、いわゆるカンで治療が決められたりしている。EBMによって治療や診断が行われているのは、医療行為のうちの半分にも満たない」(『医学は科学ではない』9ページ、ちくま新書、2005年)といいますが、半分以上あるのでしょうか。
伝統医学、代替医療、民間療法、あるいは医療類似行為の科学性または有効性を扱うにはこのあたりを糸口にするのがよさそうです。
私はこれらについての決定的な見解はありません。「メンタル相談」に掲載できる施設を調べていく中で見解やスタンスを確立していきたいと思います。