口科という診療科もありませんー2の2

『内臓とこころ』が口の役割において最も重視するのは「食物を選別する精巧無比の内臓の触覚」のところと思われる。つまり消化器官のはじまりの部分です。著者が食と性を動物として、人間としてのもっとも基本におく点とも一致します。
ところで『人体の不思議』ではこういわれます。「患者が、何科で診てもらったらよいか、と迷うのが口の病気である。内科、小児科、外科、皮膚科、耳鼻咽喉科、口腔外科(歯科)で扱うから、文字通り境界領域の病気です」(76ページ)。顔科に続き欲しいのは口科または口腔科ではないですか。
口は消化器のはじめにあたります。呼吸器の役目もするし、言葉を発する器官、そして感覚器官でもあります。『皮膚の科学』には皮膚全般の感覚器官の役割を書いていますが、感覚器官としての口は触れていません。
『からだの法則を探る』のなかでは、消化器の説明において口は「消化器…口から咽頭を経て胸部を通り、横隔膜を抜け出て腹腔にはいると胃です。胃から十二指腸を経て小腸、それから大腸へとさがります」(105ページ)と素通りになります。他の臓器については多少の説明がありますが、口には戻ってきません。感覚器官からの説明は舌に限られます。
『人体の不思議』においては「口も消化器の一部」としています。図になかで口は「歯による破壊、唾液による分解」(79ページ)と説明します。
口唇:「解剖学では口のまわりをとり囲んである部分全体をいう」(『進化のなかの人体』63ページ)は、「顔面の皮膚の続きである外皮部、口腔粘膜の一部である粘膜部、皮膚と粘膜の移行部である口唇縁の三部に分けられる」(『人体の不思議』80ページ)。これらはいわば正統派の解剖学や生理学の知見を要約的に述べてものだと思います。

これらに対して『内臓とこころ』の説明は生物の発生と進化の過程を踏まえたものになります。正統派の知見が省略している部分を引き出し、食物を体内に入れる触覚の役割を際立たせています。
「解剖学的に、これは鰓(えら)です。鰓腸(さいちょう)と申しまして、腸の最初の部分が外に出ているところです(28ページ)。「鰓腸は、顎から下は、かなり退化して文字通り“くび”れ、そのうえ変形して“のどぼとけ”になっている。これに対して、顎の部分は本来の鰓のままで顔の下半分を占めている。俗にいうエラが張っている、というあれです。そして顔の上半分に、その鰓の神経と筋肉を送っている。…あれに耳たぶの部分を加えたものが、要するに内臓の前端露出部ということになる。…ここが古い鰓の感覚が残っているところです。そしてこの鰓の感覚は、そのまま口のなかに続き、そこからノド元を過ぎて、胃袋のへんまで及んでいます」(30ページ)。
「内臓感覚といった場合、…この感覚がもっとも高度に分化した場所として、この唇と舌を考えればいいわけです。…この入口こそ、食物を取り込む、つまり毒物と栄養物とを選択する“触覚”に相当する場所だからです」(32ページ)。
この次に舌の役割について説明が続くのです。
 

顔科のある病院はありませんー2の1

加賀乙彦さんに『頭医者』という本があります。書名は眼科や耳鼻咽喉科があるので頭科もよいのではと思い頭医者という言葉が出てきたとありました。ところで多くの人がより欲しいのは顔科かもしれません。じつは口科もないのです。このあたりは頭部を脳や目や耳などの要素に分ける西洋医学的発想の限界が表れているのかもしれません。その周辺事情から「メンタル相談施設を考えるエッセイ」の第2部を再開しましょう。『内臓とこころ』を詳細に読み込んでいくスタイルになります。

『内臓とこころ』における内臓感覚の説明のはじめは膀胱感覚、次に口腔感覚、そして胃袋感覚です。膀胱感覚についてはまだ何かを得ることができないので後回しにします。 口腔感覚の項目はこう書き始めています。 「顔は内臓の前端露出部だが、唇から舌にかけての感覚はとくに鋭敏で、これら尖端部の構造は食物を選別する精巧無比の内臓の触覚となる。この機能は正常な哺乳によって日々訓練されてゆくが、やがて赤ん坊はすべてをなめ廻し、将来の『知覚』の成立に備える」(27ページ)。この部分を少しずつみていくことにします。参考文献はそのつど明記しますが、出版社等は別にまとめます。まずは顔です。顔はいろいろな面から見なくてはならないし、見ることが可能です。

手元の本で詳しい説明は『人類生物学入門』にあります。広義の頭部は性質、役割の違う異なる2つの部分からなります。静的な脳頭蓋(狭義の頭)と動的な顔面頭蓋、顔はそのうちの顔面頭蓋です。 「顔面頭蓋は大部分が口、いいかえれば体外からの新陳代謝物資の導入孔となる。 系統発生的にみて、口はもっとも古いものである。はじめは単なる摂食器にすぎなかったが、やがて歯に成立とともに捕食器となり、唾液腺の発達した哺乳類では咀嚼器に変じ、そして人類では美味求真の快楽受容器と化した。 歯によって食物は小片に切断され、噛みくだかれ、胃で消化作用を受けやすくされる。それにともない、上下顎はかなりはげしい律動的運動をなすようになった」(59ページ)。

このあと鼻の説明が続きますがそれは後回しにします。少し先に進んだところに「顔と心」という見出しがあるのでそこから少し…。 「脊椎動物が進化するにつれて、個体性が確立していく。個体性がもっとも強調されるのが精神であり、…人体においてもっとも顕著に表現されるのが顔である。…人類においては顔は脳頭蓋と顔面頭蓋の合成部であるだけでなく、心を表現する部分なのである。そのことは、他の哺乳類と根本的にちがう。いいかえれば、人類において顔に個人差がいちじるしいのは、ひとえに人類が心の動物であり、その心の表現部位が顔である」(83ページ)。 さらに無毛性は「人類の重要な特徴」であり、「もし顔面部に毛が生えていたならば、無意識的な年齢推定はほとんど不可能」(87ページ)としています。

『進化のなかの人体』では内臓頭蓋部ということばが使われています。「あたまの役割という面からみると、だんだん発達して大きくなる脳を、安全に保護する容器の役割をする脳頭蓋部と、採食・捕食・咀しゃく用である消化器官の口、呼吸用の鼻などをまとめた内臓頭蓋部からあたまはでき上がっていることがわかる」(50ページ)。

もう1冊あげます。『顔面考』(春日武彦、河出文庫、2009年)で著者は、精神科医。 村上仁さんからの引用です。 「幻像が大して自分に似ていなくても、それを自分自身の像であることを確信して疑わないのがこの現象の特徴である…このような事実を説明するためにソリエという学者は、この場合外界へ移転されるのは自己の内臓感覚だ、といった」と記している。そして続けて書いている、「近来の学者は内臓感覚というフランス流の少し古風な概念の代わりに、身体図式という言葉を用いる」と」(131ページ)。孫引きの中の引用文なのでごちゃごちゃしているけれども、注目です。

村上仁さんからの引用がさらに続きます。 「身体図式を理解するには、外科手術で手や足を切断された患者の訴える、幻覚肢という現象を観察するのが最もよい。戦場などで一方の足を切断された患者は、その後一定期間は切断された足が実際に存在すると信じ、その戦傷部位に痛みを感じ、足指などの運動を幻覚的に体験することがある。この事実は自己の身体各部の形態、運動、感覚等に関するわれわれの意識は…、身体瑣末部とは独立に相当強固に大脳内に形成されているということを教える。自己像幻視においては、この身体意識あるいは身体図式が外界に移転されると考えると、この現象の種種の特性がよく説明できる」(132ページにある引用)。 村上仁さんは精神病理学医、ソリエはフランス人心理学者といいます。

最後の『顔面考』からの引用がおもしろく、内臓感覚というのはでてきました。しかし、その言いかえ表現の身体図式は大脳内の現象に終わっています。ただそれだけで終わっていないようです。それもまた後で…。