ヴェーダにおける身体と宇宙の交感-2の8-3

ところで釈迦は単独でその呼吸法にいたる発想や訓練法にたどり着いたわけではありません。それは仏教が古代インドの人たちの世界観・宇宙観の土壌に生まれたのとほぼ同様の事情ではないでしょうか。釈迦の修業には身体の理解はありますが、大地(地球)や宇宙との関係はでてきません。しかし、古代インドの世界観にはそういう部分が含まれます。
私は、そういう事情を個別に研究したものを見る機会に恵まれません。ここでは『アーユルヴェーダの知恵』から多少とも関係することを引き出してみようと思います。

宇宙との交感。「自分自身に関する純粋な知識の体系であるヴェーダ哲学では、人間の認識の過程は三つの要素によりなっていると教えている。つまり、認識する主体(リシ)と認識されるもの(チャンダス)、そしてその両者を結びつけている関係(デヴァダ)である。あらゆる認識にはこの三つの要素が含まれている。ヴェーダの教えでは認識とはすなわち存在であるから、あらゆる存在はこの三つの要素によって支えられている。リシから生まれるのはヴァータという力であり、デヴァダからはピッタが、チャンダスからはカパが導き出される」(59-60ページ)。
「アーユルヴェーダによれば、古代のリシ(賢者)たちが知ったドーシャは、彼らが深い瞑想のなかで直観した宇宙の究極的な構造と関係づけられて理解されている」(62ページ)。「ドーシャが東洋に伝わる壮大な作業仮説であるのか、あるいは古代のリシ(賢者)が直観した通り宇宙の構造と関連した力であるかは別にして、私は人間の生理機能の奥底にはドーシャが働いているはずだと思うのである」(64ページ)。
古代インドの人たちは、瞑想など身体によって自然の存在や人間との関係を感受しようとしていたのでしょう。釈迦もまたその文化的な環境にいたと推測できます。
ここにはドーシャなど聞きなれない言葉が出てきます。近代科学の構造の中にはなく、それが世界と物質を解釈する別のカテゴリとして了解されるかどうかはわかりません。近代科学を変革させるヒントかもしれませんし、さらに別ものかもしれません。
著者の高橋和巳さんは、重力を例にして見えない力が存在する可能性を示唆しています。物質の属性としての重力で説明できるかもしれません。これはハーブ療法における場の説明においても同じです。

ハーブ療法。「なぜハーブが心身に効果を及ぼすかというと、薬草やミネラルの持っているその固有の振動が人間の細胞に調和の振動を伝えるからだという。
量子物理学の教えるところでは物質は究極的には「場」の振動である。場がある一定の条件を満たして振動するときにそれは物質になり、条件を満たさなければ物質は場のなかに戻っていく。…細胞も「場」が複雑な振動を維持している結果として生命活動を続けている。…同じことは組織や臓器にもあてはまる。肝臓には肝臓の振動があり、胃には胃の振動があり、肝臓という「場」、胃という「場」を維持している」(150ページ)。
「アーユルヴェーダは自然界にある植物や鉱物のリズムを利用する。…胃が悪いときに胃と同じリズムをもった薬草を与える。すると、薬草の持っている振動に同調することで、胃は忘れていた自分の固有の振動を「思い出す」。そして胃の細胞の中には失われていた情報の流れが回復するのである。同調の現象を介して固有の振動を回復するもの、それがハーブである」(151ページ)。
アーユルヴェーダの治療法として、身体浄化法(パンチャカルマ)、ヨーガ、瞑想、食事療法、ライフスタイルの改善などがあり、いくぶんは触れていますがここでは省略します。高橋和巳さんはアーユルヴェーダを可能なかぎり近代科学の方法で説明しようとつとめられています。それは私が理解するのを助けてくれはしますが、近代科学の限界を超えていくものとして受けとめるのがよいのではないでしょうか。

修業による全身の訓練から呼吸法に至る-2の8-2

人体を感知しようと試した古代人はたいていの日本人なら知っている人です。お釈迦さま(ゴータマ・シッダッタ。生存時期は諸説あり、紀元前7世紀ー紀元前5世紀頃)といいます。
参考にしたのは『セロトニン欠乏脳』(有田秀穂、生活人新書、2003年)です。書名のように私はこの本を脳・神経系を学ぶために読み始めたはずです。そのなかに釈迦の呼吸法が、セロトニン神経を鍛える方法につながるものと紹介されています。
「意識的で、適当な負荷がかかった呼吸…それこそ、釈迦が世界に広めた座禅の呼吸法、ヨガの呼吸法ということなのです。この呼吸法では、意識しないと収縮させることができない腹筋を使い、リズム運動を行います。負荷をかける呼吸という点では、無意識の呼吸よりもはるかに深く、ゆっくりしたテンポのサイクル運動にセットされます。腹筋を使って意識的に深く長く吐く呼吸法が「意識的な」呼吸ということになります」(66ページ)。
*著者は腹筋呼吸(意識的呼吸)と横隔膜呼吸(無意識的呼吸)を明瞭に区別します。

こういう呼吸法にたどり着くまでの修業が紹介されています。「釈迦の時代には、現代のような最新の研究設備もなければ、サイエンスについての豊富な知識もありません。自らを被験者にして、自分の心と感覚に耳を澄まして、ひたすら実験を繰り返した、と私には想像されます。その負荷の程度は自己の耐えられる限界にまで達しています。6年の歳月をかけて、あらゆる種類のストレス実験をしています。断食、極寒、窒息、猛暑、さまざまな苦痛です。…心理的なストレスとして、猛獣や闇の恐怖、死の不安などを課しています。仏教聖典によると、茨のむしろの上で寝る、片足で立ち続ける、あるいは息をとめる、しかも、鼻と口だけではなくて耳までもふさいでしまう様子が記されています。こうすると、息が全身をかけめぐり、何とも言いがたい激痛をもたらすのです。そのため、頭痛の域を超え、はらわたがちぎれる思いを味わい、火で焼かれるほどの発熱を体験します。断食も4、5週間にわたることもあり、そのために身体はやせ細り、手で皮膚をさすると、毛根がくさってポロポロと地に落ちたと言われます。さらには、身に油を塗り、燃えさかる薪で炙る苦行、あるいは水に入って寒さに耐える苦行、あるいは害獣のいる恐ろしい森で過ごし、屍の散らばる墓場で夜を明かす苦行、羊飼いの子から唾を吐きかけられ、泥を投げられても、怒りを表さない、などの想像を絶する苦行を行ったと記録されています。ここまで苦行を重ねることによって、自己の脳と身体がどのようにできあがっているかを徹底的に調べつくしたのです」(100-101ページ)。
脳・神経というより周囲から受ける全身の反応を確かめ、耐える訓練を通して心身とは何かを理解しようとしたものに思えます。

釈迦の呼吸法はその周辺にさまざまな健康法や身体訓練法を派生させました。ただそれは釈迦一人のものではなく、古代インドのその地域の風習、世界観に根ざしていたものと考えられます。
日本に入ってきた方法が記載されています。著者が考えるセロトニン神経の強化に有効なリズム運動が中心です。姿勢、座禅、呼吸法、気功法、太極拳、散歩、ラジオ体操、丹田呼吸法、西野式呼吸法、α(アルファ)波法、リラックス法などと続きます。
今日のアーユルヴェーダおいても医療と健康法は分離されていません。運動やスポーツに属するものも含まれます。それぞれが実践者・施術者による型や手順などにより違い、ときには秘術とされます。そうであるからまた科学や西洋医学が全盛の時代に生き残ってきたわけです。すべてを無条件に肯定できるとは思えませんが、逆に非科学的とか、迷信・ガセネタなどと無視すべきものではないでしょう。むしろ近代科学や西洋医学が機械的にはじいてしまった要素が保存されているとも考えられるのです。
ここまで書き進めてきてようやくサイト「メンタル相談」施設に結びつくところに到達できました。

自然から生まれた人間が自然を加工するー2の8

『内臓とこころ』の第2章も「内臓とこころ」となり、内容の中心にあたります。内臓波動(食と性の宇宙リズム)、内臓系と心臓、心のめざめ(内臓波動と季節感)の3つの部分から構成され、3つの角度から問題をとらえようとしているようです。
はじめに1つの話題があります。プロローグとしてこれを取り上げましょう。
自然から生まれた人間が自然を加工し始めたときから、人間は純粋に自然な動物ではなくなった事情です。自然な動物であった時期の人間、「大昔の人々は、ごく素朴に宇宙を、自分の体内に感じ取っていた…それは“小宇宙”」(65ページ)。
それが変わりはじめたのです。「農耕文化が発生した時から、もう始まっている…「耕す」というのは、母なる大地の皮膚に手を加えること…。歴史の流れを振り返ってみますと、この自然に対する手の加え方に…加速度が付いてきたように思われます」(66ページ)。「人間が自然の移り変わりにたいして、しだいに盲目になってきた。この内臓の奥深くのリズムなぞ、ほとんど問題にならなくなった」(67ページ)。ここをはじめに取り上げ、根本的な捉え直しを提起しているのです。

貴重な本があります。『宇宙人としての生き方』(松井孝典、岩波新書、2003年)です。
「人類の誕生は…700万年前までさかのぼりますが、我々が人間圏をつくったのは1万年くらい前のことです…地球システムという考えに基づくと、人類が農耕・牧畜を始めたことによって人間圏という新しい構成要素が生まれたと考えられるのです。生命の惑星から文明の惑星への進化です」(57ー58ページ)。
「狩猟採集は(人間以外の)ほかの動物もしている生き方です。…地球システム論的には、生物圏に新しい生物種が生まれただけのことです…。それに対して農耕牧畜という生き方では、森林を伐採して畑に変えたりします。この結果、地球システムの物質・エネルギーの流れが変わります。…森林に降った雨は長い期間森林にとどまり、少しずつ大地にしみ込んで地下水となっていく。ところが農地となると、降った雨がそのまま表土と一緒に流れていく…。つまり、森林を伐採して農地に変えるという行為が、地球という星全体の物質やエネルギーの流れを変えているのです。地球全体の物質やエネルギーの流れを変えるということは、システムの構成要素を変え、その間の関係性を変えるということです。したがって、農耕牧畜という生き方は、概念的には地球に人間圏という新しい構成要素をつくり、地球システム全体の流れを利用する生き方ということになるのです。これまでも農耕牧畜の開始によって文明が生まれたと考えられてきたわけですから、文明が人間圏をつくって生きる生き方と定義し直しても、実質的には何の変化もありません」(61ー62ページ)。
この後、省略するには惜しいいくつかの事情説明が続きます。そのなかで次のことを紹介しておきます。「現在の人間圏でもっとも特徴的なことを1つ挙げれば、インターネット社会です。…未来の社会を語るとき未来の社会は個人を主体とした社会であるというような表現をします。…従来の人間圏は、国家や地域共同体などさまざまな階層の共同体を構成要素とする1つのシステムと考えることができます。しかし、インターネット社会の構成要素は、従来のような共同体ではなくて個人です。…人間圏というシステムの、これ以上わけることのできない究極の構成要素は人間です。我々は細胞からなっているからといって細胞に分割しても、あるいは臓器に分割しても意味はありません。人間圏にとっての究極の構成要素は一人一人の人間です」(193ページ)。

農業を始めた人間がつくりだしたのは、文明や地球における人間圏という説明です。『内臓とこころ』がプロローグというか理解の前提とした、人は自然から生まれながら自然を変える主体になった事情を地球惑星科学ないしはアストロバイオロジーの視点から説明し直したものです。次回は地球人が人体をどのように感知しようとしてきたのか、古代人の例に触れてみたいと思います。