「好きなことを続けて仕事にできる社会的な背景」に次のコメントをいただきました。こうあります。
「何のために生きるか」という問題を抜きにして「生きるために何をするか」しか考えないのは貧しい人生だと思います。
ひきこもりの当事者の一部も、生活費以上に切実と言えるかも知れない目的のために、真剣な態度で趣味に打ち込んでいるのではないでしょうか。
先人の創作活動も、作品に込められた愛着、こだわり、自信、責任感が伝わるからこそ評価されるのであり、たとえアマチュアの作品であっても、それらを尊重する態度がわれわれに要求されることに変わりはないのだろうと思います。
このなかに大量生産方式の工業では実現できない、手づくりとか創作的な活動の根拠があると考えられます。個人的な「愛着、こだわり、自信、責任感」が、一つひとつの生産物にこめられます。だからそれは「生産物」というよりは作品といったほうがぴったりするのです。
もっとも私は社会関係として問題を扱うときはこれを生産物とか小生産と書き表わすことがよくあります。どなたかは明確ではありませんが「小商い」(こあきない)という人がいた記憶があります。芸術のレベルで(あるいは控えめな表現の創作活動では)状況をとらえると、生存のもう一方の基盤をなす生活やそれを支える経済状況を忘れて展開することもあるので注意しているのです。
コメントは「生活費以上に切実と言えるかも知れない目的のために、真剣な態度で趣味に打ち込んでいる」と言われるのはこの点でしょう。そうであるからこそ特別の価値を持つのです。情報社会ではそのことが評価される社会的な基盤ができるのです。
生産物が商品になるときの商品の価値は「それを生産するのに費やした社会的平均的な労働時間である」という労働価値説があります。しかし、芸術作品の価値はこのような尺度では測ることはできません。K.マルクスの『資本論』においてもそのようにされています。
それでは芸術作品や個人的な「愛着、こだわり、自信、責任感」を持つ作品の価値判断の基準が何になるのか。じつは私にはわかりませんが、人間の未来社会の発展的な可能性が潜んでいるように思えるのです。