かなり以前に不登校情報センターでホームページづくりに参加している人がいます。
昨年、その人がある会社の就職試験を受けました。
履歴書の職務経歴に不登校情報センターでホームページ制作をしていたと書きました。
いくつかのアルバイト経験の中の1つとして書いたものです。
書類選考を経て、面接になりました。
不登校情報センターとはどんなところか、ホームページづくりにどうかかわったのか。
そのあたりをかなり突っ込んで聞かれたというのです。
面接担当者は、事前に不登校情報センターのホームページを見ていたと思えます。
そのためにいろいろと聞かれたようなのです。
気になることはありますが、このホームページなら恥ずかしくはないと思います。ですが面接担当者の関心を引き起こしたとも言えるわけです。どう影響するのでしょうか?
日別アーカイブ: 2015年1月14日
孤立しなければ最低限の生存条件は確保できる
引きこもりの人の高年齢化が予測され、私の周辺だけでも40代の引きこもり状態の人はすくなからずいます。30代後半以上となると当たり前みたいになっています。全国的にもそうなっていると思います。
私の推測では、かなりの長期的な引きこもり状態にありながら、医療機関を含めて支援団体に関わっている人は少ないです。ざっと20%未満とみます。
この20%の外側に精神疾患や貧困などのために、引きこもり状態に似た人たちがいます。
推測する20%にはこういう人は含んでいませんが、虐待やいじめの後遺症の人は含めてもいいでしょう。
想定している中心は対人関係が苦手、対人恐怖的、神経症的な症状をふくむ引きこもり状態の人をさします。虐待やいじめの後遺症は、これらの状況に近い感じがします。
これらの人は対人接触をもたない、あるいは個人的なつながりのある対人関係を避ける人たちと言えます。
家族とはある程度接触ができますが、それさえも極力避けるタイプもいます。
他方では、外出をする人はいます。
しかし、外出先で個人的な知り合い関係になるのを避けようとする傾向が多くなります。
これら全体が訪問活動、いわゆるアウトリーチによる接触が困難な人たちになります。
私は訪問活動の形でこれらの人たちへの接触を試みてきました。
かなり接触できた人もいますし、少しも顔を会わせなかった人もいます。
これまで50名以上の方に訪問を重ね、10名近くは一度も顔を見ていないか、一時的な接触にとどまっています。
こういう人たちの将来を心配してきたのですが、そしてその心配が完全になくなったとはいえませんが、このところ見方をかえました。
安心感といえばいいすぎですが、違ったアプローチもありうると感じています。
背景の一つは社会の変化です。
インターネットの普及と情報社会の到来が、これらの人の一部に道を開きそうに感じます。
彼ら彼女らがその情報社会に積極的に関わって何かをするというわけではありません。そうできるのはごく少数でしょう。
多くはこの波に巻き込まれ、そのなかで浮上する感じがしています。
もう一つの背景は、家族を含む周辺の人、社会状況の動きです。
引きこもりだけではなく、状況変化の背景には家族が崩壊し変化していることが関係します。
社会的な格差が大きくなり、貧困が広がり、しかも貧困自体が多様化しています。
身体的な障害や社会的なハンディをもつ人がそれぞれマイノリテイーとして動き始めています。
さまざまな形での居場所の喪失者が激増しています。こういう理由によるいろいろな意味での当事者が増えたことが社会的なある種の状況をつくっているのです。
言うのは早とちりになりかねませんが、社会全体がうす暗くなってきたので、逆にあちこちで光を求める動きがでています。
この部分をもう少し具体的に言いたいのですが、十分整合的な説明はまだできません。
大事なことを1点だけ挙げろと言われたら、孤立をしないことになります。
弱さでつながること、各人が背負っている困難を“材料”に、個別の弱さを基に困難や弱さを共有し、つながることです。
もしかしたらそういう客観条件は過去(歴史上)最高になっていると言えるのではないでしょうか。
家族を含めて、引きこもり当事者が何らかの社会的なネットワークにつながれば最低限の生存条件はできると思えてきました。
根拠はそこまで薄情な社会にはならないという程度ですから、根拠は不十分です。
そうであっても、つながりの弱い強いの違いは意味をもち、状態に差を生みだすかもしれません。だから可能な限り孤立した状態にならず、つながりに多面性をもつようにお勧めします。
凶暴とも思える“大きなうねり”が近づいているので、身の周りにネットワークを築き乗り切ろうとする気分です。
引きこもり“支援”の方法、ねらいをここにおいてもよかろうと感じています。
そういう要素をもっている団体やグループを見直していくつもりです。
言い換えますと生活場面での保守的なもの(懐かしく感じるもの)を再評価しようと考える最近です。それらは見た目や言葉ではうかがい知れない役割や意味があると思えてきました。