12日の夕方、悠々ホルンさんに来ていただき、藤原宏美さんと一緒に“作戦会議”をしました。10日の朝日新聞夕刊に紹介された悠々ホルンさんの記事をどう生かすかの作戦会議です。
新聞記事にも取り上げられた「子どものSOS」という言葉を使い「子どものSOSの会」という形で小さな取り組みを進めていこうという方向です。悠々ホルンさんのチャッチフレーズを「子どものSOSソングライター」としていますから、この「子どものSOS」はまさに一致するわけです。
具体化した取り組み内容は決定力不足の感はあります。こちらから大きな企画は用意できません。できることを地道に続けながら周囲からの協力を待つ形です。
朝日新聞を見て1つの照会が入っていますので、それがかなうかどうかが最初にあります。
5月中旬に『不登校支援の東京都東部ガイドブック』の完成を待って作成委員会の企画集会があります。
6月21日には足立区の「子どもど真ん中プロジェクト」に参加することが決まっています。
これらの比較的小さな取り組みを着実に重ねていくなどのごく当たり前のことを話しあいました。
日別アーカイブ: 2015年4月13日
発達障害を受け入れるスクール側の気遣い
「発達障害生の学校」という分類(カテゴリ)を設定してみたい、また特別支援学校と一緒の分類(カテゴリ)にするのはどうか。そう考えてある方に問いかけをしました。
それには次のようなお返事をいただきました。参考になる意見です。
特別支援学校の他に、発達障害の子どもに適した学校情報を求めている親は、大勢いるようですが、よい具合に情報が届いていないようです。特別支援学校以外のフリースクールを探し求めている親は、「特別支援学校」のカテゴリをあまり見ないのかもしれません。
「うちの子は、発達障害とは少し違う」という感覚の親も大勢いるような…。そうすると、「発達障害」というカテゴリだと表現がきついかもしれません。「発達が気になる子ども」と表現を和らげるのがいいのか…。スクールの案内書を作成するとき、このようなことをずいぶん考え、時間を要しました。
障害にかぎらずいろいろなハンディを持つ子ども・若者を受け入れる学校や支援団体が直面するテーマです。丁寧に対処しようとするとこうなりますが、輪郭がぼやけることにもなります。「発達障害生の学校」という分類(カテゴリ)をどうするのかの結論はまだ出しかねます。
引きこもりからの自立と支援方法はどう関係するか
引きこもりから自立するためにある入所施設に入った。結果はかえって状態が悪くなったという話が出ました。あそこに行かなければこうはならなかったと悔んでいるのです。
今月の「大人の引きこもりを考える教室」でこの話を聞き、どう答えるかを考えるうちに、心の奥にある大事なことが明瞭になりました。
引きこもりから自立に向かう過程にはいくつかの状態があります。そのなかでも強いストレスや怒りを感じたとき、それを表現できる状態かどうかが重要です。表現できず自分の内側に仕舞い込むしかないと状態は悪くなります。このストレスを表せるか・表せないかの差が分かれ目になります。これはその人の気質や性格に関係し、状態を判断する重要なポイントです。
2006年から2007年にかけてその点を「引きこもりからの自立の過程」として考えたことがあります。それらを読み返してみるに、かなり近づいてはいるが明瞭さに欠けています。
ストレスや怒りを表現できる状態と、自分の内側に仕舞い込んでしまう状態は固定的ではなく生活経験や成長により変わるものです。人が成長する過程のいくつかの反抗期はこれに関係します。親や周囲の人が反抗を抑え込むような形で対処したとき、内向的とか優しいと言われる子どもは、自立の力を未成熟のまま摘み取られたかもしれません。
それは子ども時代に限りません。20代になってもそれ以上の年齢になっても同じことになります。ストレスや怒りを自分の内側に仕舞い込んでしまう状態のときに、支援の形として入所施設や集団生活に入ると、精神的な逃げ場、ストレスを発散する機会を持てません。
何らかの反発や口答えのできるか状態であればその施設にいても、そこから飛び出す形であっても次のステップに進んでいけます。引きこもったまま時間を過ごしてきた人は、意思表示をする経験がなく(周囲の人に言われるままに)過ごしてきたことが少なからずあります。反発しない、口応えは道義的にできない状態では、心身を犯す要素を溜めこんでいくかのようです。
親だけの例が参考ではありません。私が周囲の引きこもっていた人に何かを提案し、不同意の意思表示を受けたときの奇妙な感覚も参考になります。そういうのを待っていたよという私の“天然の感覚”、肯定的な気持ちも納得できます。それを奇妙な感覚というのは、確かに自分への攻撃的なものを含んでいることへの戸惑いが混じるからです。
私は、親や支援者などに引きこもっていた人の反抗的な態度をしたときの意味を書いたことがあります。反抗という姿にとらわれて、それが本人の意思表示であることに気づかないことがよくあると指摘しました。
これらを考えてみると、引きこもったままの30代の子どもを、あのときあの支援者に関わらなければよかったというのは十分ではありません。引きこもっていた自分の状態とその時点での支援団体の対応関係をみて考えなくてはなりません。引きこもり当事者のその時期の状態、自己認識と支援方法の両面を見ないと問題の所在がつかめないでしょう。
それがなければ、あそこはまずかった、あの支援団体に行ったのは失敗だったとしても、その理由を見極められません。次へのステップに必要なことがわからないままです。(つづく)