“対価を求めるのは当然”と一般化しないでおきたい

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甲斐由美子さんがFacebookに「プロにタダで教えてくれという平然と言ってしまう人たち」を紹介されました。私も経験していることに基づいてコメントを書きました。私のコメントは少数意見です。
私の意見について甲斐由美子さんからお返事もいただきましたし、別の方からのコメントが寄せられました。これらのコメントに私の考えを書きます。取り組みのスタンスを表わす機会になるからです。

Sho Yamamotoさんからのコメントは「プロ=仕事=金を貰う」で始まったものが、24時間365日、休日ぐらいは休む、という別テーマに変わってしまいました。別テーマに変わり「休日は休む、24時間365日全力はできない」は同感です。しかし、これらは対価の件とは別のテーマです。
若い方に希望するのは、こういう意見を読んで、わかったつもりで自分の意見にしないでほしいことです。可能ならば、ご自身で実際にやってみて体験による意見にしてください。私はもう少し若いころは休日なしのつもりで、枕元に携帯をおいて寝ました。真夜中にしょっちゅう電話があり、付き合ってきました。引きこもりの人には昼夜逆転生活の人が多く、夜中に不安が高まってしまうからです。
いまは携帯自体を持ちません。体力と日中の行動への支障が出るようになったのです。

Shintarou Kawakamiさんからのコメントはこうあります。
「人を「助ける」という見地からすれば、これは、言い過ぎる点が存在す、人を助けるには、見返りを、求めない。」
わかりづらいですが「言い過ぎる点が存在」というのは、対価を求めるのは当然として、それがないとダメなのかという意味に受け取れます。「人を助けるには、見返りを、求めない」につながります。私の考えにやや近いのかもしれません(読み違いならごめんなさい)。
私と違うのは「人を助けるには、見返りを、求めない」を一般化することです。私は見返りを求めることもあるし、求めないこともあるのです。
私は対価を求めないこともありますが、対価という収入がないと仕事として続けられません。収入は天から降ってきませんし、特別のスポンサーや篤志家はいないのです。
このあたりまで話せばコメントの多数者と大きな違いはないはずです。もっと柔軟であっていいと思うのです。
河之口眞宏さんのコメントはなごませてくれます。紹介してくれた「三浦千賀子さんも青少年に対する無償の援助続けています」も嬉しいです。

山本周五郎『赤ひげ診療譚』は江戸期の医師の物語ですが、“対価を求めるのは当然”とはしていません。実話に聞く無産者診療所もそうでした。医療だけでなく福祉や教育でも“対価を求めるのは当然”と一般化しなくてもいい、一般化したくはないです。
経済的に貧しいことが背景にあって困っている人にはこういうスタンスがないと、金のある人は助けるがそうでなければダメに終わってしまいます。
甲斐由美子さんのコメントにも私なりの思いを述べようと思いますが、長くなったので稿を変えます。

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