親の会などが重なり、不登校や引きこもりの子を持つ親たちと話し合う機会が重なりました。不登校情報センターができた後、正式の親の会になる以前の1996年ぐらいから、私はそういう集まりを経験しています。
親の会は、家族内での共通のテーマをもつ親たちの集まりです。ここに集まっていれば子どもが学校に行くわけでもなければ、引きこもっていた子どもが外出し、働き始めるわけではありません。では何なのか、何をしているのか?
家族内の問題を自然に、負担なく話せる場です(背負っている荷物を降ろす感じ)。互いの経験(うまくいったこともあればまずかったこともある)を交流する場です。それらを通して共感しあえる場です。心のうちに力がよみがえり目標が見えてくる場です。それらの中には何らかの規則性や法則性もありますから、系統化すれば教育学、心理学やその技法や方法論を学ぶことにもなります。
これらを教育学や心理学から学ぶところから始める人もいます。親の会には教育学や心理学を学ぶ学生が参加することもあります。大学で学ぶ理論や知識が役立つこと、理解を助けることはあります。けれどもそれを逆から見るのは間違っています。学生たちは学んだ理論がどういう現実から生まれたかを知る機会になるのだと思います(親の会の活動からカウンセラーになる人もいます)。
子育てに関していえば、教育学も心理学もぜんぜん学んだことのない多くの母親たちがスムーズに子育てをしています。子どもへの自然で強い愛情が基本にあるからだと思います。
そして愛情は(たぶん)知識や学問として教えられるものではないのでしょう。子育ては愛情+経験則で可能だと思います。しかし、何かうまくいかないと感じるとき(子どもの不登校や非行など)、原点に戻って親が考え直す機会になります。
これを教えてくれたのはジェームス三木さんが「ジャズを学問にしてしまったらジャズがおもしろくなくなった」と書いているのを見たときです。そうです、いろいろなことを学問(知識)としてみることはできます。それは理解を助けます。けれどもそれは対象の事柄の理解とは違います。学問レベルに解消すると生きたものがなくなります。ジェームス三木さんはそこをとらえたのです。
絵画やスポーツについてもいろいろな解説により関心を高めることはできます。私の理解では対象が生物ではない機械とか気象のようなもの以外はすべてにこれが通じます。人間に関係する対象は知識(学問)の基盤に人の感情や感覚が働いていると納得しています。政治とか宗教などについてもそうです。社会心理学はそれをカバーしようとする試みですが、事柄はそれではカバーしきれない、それを超えたものがあるのです。