救急車の粋な引きこもり対応策を聞きました

引きこもり生活のなかで、苦しくなると救急車に連絡をしているAくんがいます。何度も繰り返して救急隊員とは顔見知りになっています。
救急隊の仕事の範囲はどういうものかは知りませんが、Aくんから予想外のことを聞きました。救急隊の本来の仕事は、病気の人を医療機関に送る役割だと思います。引きこもり対応をしているわけではありません。
Aくんのところに来る救急隊は、医療機関に行くのではなく、様子を見て、話しかけ、落ち着いたら引き上げるようになりました。ただこのやり方を繰り返すのも策がないと感じたのでしょうか。隊長という人が「他にできることはないかな」的なことをつぶやいていたといいます。
それからどれくらいの期間が過ぎたのでしょうか。あるときAくんの様子を見てきょうは外出できると見えたらしく、Aくんに確かめたうえで外出し、救急車に乗せて周辺の“ドライブ”になりました。
救急隊が訓練する運動場のある訓練施設に連れて行ってもらったこともあります。「人眼がないところなら動けるかもしれない」と考えたようです。事実、そのときAくんはその訓練場でからだを動かすことができました。
救急隊の“この策”は、「他にできることはないかな」と考えた結果の策だと思います。もしかしたら各地の救急隊においてもその地域の状況に応じたそれぞれの策が生まれているのかもしれません。これらは表立って知られることはないのですが、外出困難な引きこもりへの対応策としては貴重な対応策だと思います。
救急隊の別の実例があれば教えてください。保健所の関係とか、生活保護担当者とか、不動産会社(賃貸住宅の管理人)の珍しい実例も紹介したいです。情報を待っています。

中学・高校時代の超貧乏経験が支えてくれた人生

法事のために兄弟が集まる機会がありました。
少しアルコールの入った弟68歳が、姉の息子(甥っ子40代)に話しています。超貧乏生活だった中学・高校時代のことです。
当時は母と私と弟が事実上の母子家庭生活をしていました。知人から借り受けた納屋(物置)の一部を借りて住んでいました。
夜寝るとき弟が母に「上を見たら空が見える」と言いました。天井に穴が開いていたのです。すぐに母はダンボールを集めてきて、天井や周囲に張りました。
朝の食事はこれも借り受けた畑でジャガイモを育て、それを掘ってきては湯がいてバターをつけて食べる生活です。弟はこの朝食が2年ぐらい続いたと言っていましたが、私の記憶ではそこまで長くはなく、でも1年以上はあったと思います。
この生活には悲壮感がなかったです。弟は母を称えました。できることを続けて(パートの看護師、土木作業、夜なべのミシン仕事など)、普通の生活のようにやっていたと思います。目の前で“疲れた”と言っては自分の腕に太いアリナミン注射をしていたのは、ちょっときびしかったですが…。
その時期の生活を「あの生活があったから人生やってこれた」と弟は言います。私もそう思います。貧乏を怖いと思ったことはありません。何とかなる、という根拠のない楽観というか自信みたいなものがあります。
離れて聞いていた姉が、「兄弟5人、全部がまともに生活してきた。それがよかった」と言いました。超貧乏生活でも道を外すことがなかったのは母のおかげだと思います。