家族にとって重大事案の意見をどうまとめるのか

ある家族の話し合いがありました。父と母は60代、その子どもが30代の兄弟2人。
兄は父との折り合いが悪く10年前に家族が住む借家を出て一人暮らしをしています。その後、徐々に兄と家族3人の関係は途切れがちになりました。
6年前に、母親の希望で新しく家を買いました。元の借家もそのままにして、新しい持ち家からときどき母親が戻り生活できる状態にしています。新しい持ち家には父と母と弟の3人が住んでいます。3つの家は都内の同じ区内にありますが、さほど近隣とは言えない距離です。元の借家は駅に近く生活上は便利なようです。
新しい持ち家ができた時点では、父はそのうち兄が戻ってくるかもしれないと、元の借家もそのままにしました。母はそこまで深く考えられずにいたのですが手放してもいいと考えていたようです。弟は元の借家は手放してもいいと考えていました。
最近、ときどき兄が元の借家に戻ってきます。母と一人住まいをする兄の間にある程度の会話ができる関係が回復しました。家族はいつもは元の借家に戻らないので、誰もいない間に戻れるのです。では兄は一人暮らしをやめようとしているのか。そうは考えていないようです。

こういう状況において、改めて元の借家をどうするのか考える事態が生まれました。
同居する3人がそれぞれの意思を確認しました。父は引き払ってもいいといいます(以前より気持ちは変わりつつあります)。母の気持ちも変わり持ち続けてもいいといいます。父母が年老いて駅に近い方がいいと思い始めたのです。父と母で気持ちが交差しています。弟は引き払う意見で変わりません。

ですが弟はこうも言いました。「(3人だけで話し合って決めるのではなく)兄の意見を聞いて話し、それで決めるのがいい」と付け加えたのです。私はこの弟の意見に感心しました。4人が同席して話し合うのは難しいけれども、兄の意向を聞かないのはよくないというのです。
意見が違うとき当事者がそれぞれ本音で意見を言うことは大事です。この例のような問題は、どういうスタンスでその問題を見るかによって意見や思いが違いうるからです。これが正しいという意見は立場や何を優先するかによって違いうるからです。太陽は地球よりも大きい、と論じるのとは違います。どれが正しくどれが間違いとは言えないからです。
家計の支出という面からの考えか、家族の協力面からの意見か、親の介護を考えてのことか、子どもの生活か、家族で何かの仕事を始めるつもりか、…これらの重要性や優先順位によって、しかも各メンバーの重視する点の相違や負担を含めて考えることが大事になります。
弟のこの意見は最も適した意見集約の方法になります。4人メンバーすべてが十分に満足できる保証はありません。しかし折り合う点を見極める方法はここにあると思います。
この家族の場合は全員が成人です。
子どもがいる場合は少し複雑になりますが「子どもの最善の利益を図る」方向で話し合うのがベストであろうと考えます。今回の紹介例は細かく内容を話せませんのでかなり抽象的です。意見の違いを、大事にすることの違い、気持ちの違いを認めつつ進む方向を決めるのに必要なことと思うのですが、どうでしょうか。
母からこの3人の意見を聞いた兄の意見は「またオレをお前らのペースに載せようとするのか」というものだったようです。しかし、長く関係が途切れていた家族の間で考える余地はできそうに思えました。

6人目の斜視の人から連絡がありました

斜視のメンバー(?)がまた一人増えました。私の頭の中では6人目です。
Facebookに次の投稿がありました。この人が重度の斜視かどうか、本人はそう思うかもしれませんが…。こう言っています。

「俺はやるぞ。重度の斜視は発達障害の疑いがあると俺の知人が言っている。俺にも斜視はあるから、集いのメンバーを増やす為に、俺は動く。斜視はあるだけで、偏見を受けやすい。俺も苦労したから」

身体上の斜視、特に重度の斜視が発達障害であることと、制度として斜視が発達障害と認められるのは同じではありません。そのあたりもお互いに学んでいく機会になりそうです。

上の投稿に私の書いたコメントです。「あまり力まないで行きましょう。ゆっくり、落ち着いて、着実に進むのが早道です」
すぐに返事がきました。「松田さん、ありがとうございます。俺の悪い癖ですね。挨拶の手紙を送りましたので、よろしくお願いいたします」。

あいさつの手紙を待つことにします。

ひきこもり大学をかつしか区民大学講座に提案

かつしか子ども・若者応援ネットワークが担当する「かつしか区民大学」の講座にひきこもり大学を提案しました。「かつしか区民大学」とは葛飾区生涯学習課が数年前から行っているもので、年間数十の講座を開く“学習運動”です。
来年度の企画のことで目の前のことではありません。近日ひらく全体会に図るため、このネットワークの世話人に企画趣旨を提出しました。企画の中心は5月に「引きこもり大学in下町」を開いたSくんです。企画趣旨を紹介します。

<来年度予定の「区民大学講座のひきこもり大学」について>
ここ数年の間に、ひきこもり経験者と支援者が共同する「フューチャーセッション」という方式が広がっています。この方式は分科会のファシリテーター役がいて、いくつかのテーマに分かれて話し合う方式です(分科会?)。出席の当事者は分科会移動してもよく、自分が関心の持てる分科会を探します。
始めたのは「庵(いおり)」というグループで都内では「フューチャーセッション庵」の名前で2か月に1度開かれています。都外では現地の団体グループが主催しています。
「ひきこもり大学」というのは、ひきこもり経験者が得意分野の講師を担当する方法です。数年前にあるひきこもり経験者が提唱したものです。
「フューチャーセッション」と「ひきこもり大学」が一緒になり、この方法が全国各地に広がってきました。
5月7日に「ひきこもり大学in下町」を開いたのは、不登校情報センターにきているSくんです。Sくんは事実上「フューチャーセッション庵」の企画メンバーですし、ほかにもいろいろな団体グループに出入りしていて、単独で広いネットワークをつくっています。このネッタワークの力で(講師・ファシリテーター・受付・参加者の組織)「ひきこもり大学in下町」を大成功させました。これまでの「ひきこもり大学」を踏襲するだけでなく独自色も追及しています。

「ひきこもり大学in下町」をこれからどうするのか。同じやり方では続かないと考えていくつかの構想を思い浮かべています。それがまだ固まらないところに、区民大学の話をしたことになります。Sくんは意欲的にチャレンジするスタンスです。しかし、そうしたからといって自動的に次の構想が具体的になるわけではありません。
区民大学での「ひきこもり大学」では、大きく2つの方式を考えています
A型:前半に講演会をし、そのあとテーマを設けて分科会にするもの。これは多くの「ひきこもり大学」が行っています。A型は講師料が必要になるかもしれません。
B型:初めに引きこもりの経験者数名が出て、パネル方式か体験発表を行い、そのあと分科会方式にするもの。

区民大学のなかで「ひきこもり大学」を開くことの意味付けからA型・B型いずれにするか、さらに別の方法にするかを考えたいです。
背景事情には東京都の東部地域はひきこもりに関する取り組みが比較的薄いと評される地域です。その空白をなくすために「かつしか区民大学」の「ひきこもり大学」を有効に生かしたいところです。
より多くの方に参加していただく、ひきこもりをより深く理解していただくというのはもちろんです。それに加えて「かつしか区民大学in下町」を継続する条件づくり、不登校情報センターのひきこもり家族会・居場所づくり、ファシリテーター役との協力関係づくり、かつしか応援ネットの係わりなど、今後につながる場にしたいです。特に「in下町」の継続。
そのためには区民大学のなかで「ひきこもり大学」をどうすればいいのかを考えたいと思います。時間は十分にありますが、さて名案はどうでしょうか?

地域にいる中国人をゲーム交流会に誘います

夕食にとんかつ屋さんに行くと交代アルバイトをしている中国人のTさんがいました。食券を取りに来たとき「土曜日は仕事で行けなくてすみません」と言います。9日・土曜日にゲーム交流会があり、その案内チラシを渡していたからです。
“ああ覚えていてくれたんだ”と確認がとれました。「またやりますから」と伝え、8月のチラシを用意しようと思いました。
今年1月4日に「新年の抱負に地域の外国人との交流を追加」と書きました。オーストラリアの青年Grahamくんとはいい関係になったのですが先月帰国したところです。でも外国人との交流する抱負は失くしたわけではありません。Tさんが友人と一緒に来るようになれば新しい展開になりそうです。

一つ思いつくことがありました。この建物は1階角部屋です。狭いベランダがありそこに柵があります。柵に掲示板を置こうと考えました。ゲーム交流会やパステルアート教室の案内をするのです。……以前に開いた作品展で使った展示用ボードがあります。それを使うことにしました。
この付近はいろいろな人が通ります。中国人の学生が数人のグループで、小学生も登下校の途中で、通りがかりの人が植え込みの脇に腰かけて休んでいることもあります。誰かが関心を持ってくるかもしれません。

以前の通所者が13年ぶりにやってきました

Muくんが突然連絡をくれて平井にやってきました。『ひきコミ』という文通誌を発行し始めた大塚時代からの通所者で、最後に会ってから13、4年ぶりの再開です。
Muくんには同居の連れ合いがいまして、ときどき電話で相談や様子を知らせてくれます。そんなわけでまったく音信不通の人ではないのですが、懐かしいものです。
彼とはその当時に一緒に過ごした人の動向も話題になりました。私の方から連絡してみようと思う人もいます。
終わりの方では、不登校情報センターのこれからの取り組みの方向を話し、同居の彼女も含めて協力してもらえることはないかと頼みました。何かの返事が来るかもしれません。

引きこもり団体から市民団体色を持つかも

10日の「大人の引きこもりを考える教室」終了後、1人のお父さんと兄弟がひきこもりの青年に個別に話しました。新しいスタイルの家族会では定例会以外にも参加していただくよう要請しました。
まだ輪郭のはっきりしない新しい家族会の世話人にお願いするのは早すぎます。聞いた方は戸惑うしかないでしょう。それでまずは勉強会などの会合や役所への相談に一緒に行く人を募ろうと考えたのです。
家族の方にも関心を向けやすいテーマとそうでないものの違いがあるでしょう。時間の都合もあります。それによりどこに誰が一緒に行けるのかは自然と制約されます。そういう意味でいろいろな人に個別に協力を依頼しておきたいのです。
家族以外にも参加を呼びかけたいと思います。トカネットの訪問サポーターの希望者には引きこもりを通して社会問題に関心を持つ人がよく来ます。不登校や引きこもった経験のある人には、その経験を生かす活動の場ができるかもしれません。
親の会の参加者全体にKHJに加わることの意味や必要性を説明していくとともに、個別にも参加を呼びかければ関心テーマを明瞭にしていける気がしたのです。じょじょに市民団体の性格を持つようになるのかもしれません。
会報『ポラリス通信』には、親の会に関係するスケジュールだけではなく、関係する情報も載せるように心がけます。

「大人の引きこもりを考える会」=第184回目の親の会

今日は午後から「大人の引きこもりを考える会」です。2001年に親の会を始めて184回目(?)になります。どうやら運営・内容・組織面でまた曲がり角にさしかかったようです。
それを考える材料として昨日までに2つの文書を用意しました。
1つは「KHJに参加する条件を検討(案)」、もう1つは「不登校情報センター―親の会の歴史(下書き)」です。今日の親の会では「KHJに参加する条件を検討(案)」を説明し、多少に意見交換をします。そのあとはいつものグループ相談的な内容に入ります。
この文書は意見を参考にさらに検討します。だから(案)であり、(下書き)なのです。8月初めに会報『ポラリス通信』と一緒に送る予定です。

(下書き)としてひきこもりとはどういうことか、考え深めていた時期にNaoさんが書いた詩を思い出しました。情報センター内のクリスマス会の席で(2003年か2004年かは思い出せませんが)発表したものです。見てください。
「I suppose so」
http://www.futoko.info/tokanet/poem_i_suppose_so.htm

舌にも変わったところがあります

自分が斜視である理由で斜視の集まりを呼びかけ、集まって話してみると思った以上にいろいろな状態があると感じました。
こういう身体のことは別にもあります。目についていえば色弱があります。私の場合は程度が軽い(?)のですが、同じ色覚異常といっても色盲(全色盲)の人は、日常生活を始めいろいろな支障があるのではないかと想像します。
私には舌に関係する特殊なこともあります。日常生活には全く関係がありません(たぶん)。
1つは舌足らずというもので、これは22、3歳ころまではそうだったと思います。当時、カセットテープで自分の話しているのを録音することがあり、言葉の輪郭がはっきりしない発音があると思いました。
それをネットの情報で調べてみました。
「舌足らずというのは、舌の動きが滑らかでなく、はっきりと発音できない状態のことです。舌の力が弱いと「サ・タ・ラ・ナ行」などの舌を持ち上げて発音する音の滑舌が悪くなり、聞き取りづらい状態になることがあります」。
とあります。そうなんでしょう。
もう一つは舌をいろいろに曲げられることです。
①、O字型に固められます(筒状にするというみたいです)。
②、U字型に左右の両端をあげることができます。
③、∩型(U字型の逆)にもできたのですが、さっきやってみたらうまくできなくなっていました。以前は普通にできていたのですが…。
④、横から見たら⊃型に、舌の先端を下にくるむ形にできます。
⑤、斜めにする(?)こともできます。これは右斜めと左斜めの両方あります。口の中で舌をくるくる動かしている様子です。
皮膚もちょっとどうかと思うことがありますが、今回は省略します。目・舌・皮膚といずれも感覚に関係する器官です。内臓とか神経系とか骨格系とかも同じことがあるのでしょう。人にはいろいろな状態があると想像できます。

認可制のサポート校では不登校への対応は縮小します

クラーク記念国際高校と四谷インターナショナルスクールをめぐって不正な編入学が行われているという報道がされました(毎日新聞2016年7月7日電子版)。
報道内容からすれば、これは制度利用に不正であることに間違いはないでしょう。四谷からクラークに「編入した生徒の中には、推薦で都内の有名大学に進学した例もある」といいますから、必ずしも生徒に高校程度の学力のないまま高校生として編入させたとか、卒業させたわけでもないのです。そういう操作が紛れ込みかねない状態であった点がまずいのです。
ところで制度をどう改善するかについて、こう話す方を紹介しています。
「通信制高校側にサポート校の実態を把握する義務を負わせるか、
認可校しかサポート校として認めないなどの制度変更が求められる」。
初めの方はいいと思いますが、「義務」という言葉がいいかどうか…。
二番目の認可校とは、サポート校が高校同等の教育機関と認められることです。現在のサポート校は、通信制高校生が在籍する学習施設(学習塾など)がかなり多数をしめます。これを認可校とする条件とは何でしょうか。座学的な教科中心の方向をイメージさせるのです。
サポート校に在籍する生徒には、不登校の経験者、引きこもりや半ひきこもり状態の生徒がいます。そういう生徒にとって入学でき、対人関係をつくりながら学べる場がサポート校です。
これまで社会はこのような生徒に公式の教育的な成長機会をつくれないまま、かなりの部分をサポート校に投げ出したままきました。こういう事態が発生したのを機会に「認可制」の名によりサポート校を生徒にとって行きたくない場にしてしまうのですか。不登校や引きこもりへの無策を広げかねないと感じました。
サポート校は、不登校の経験者が高校教育を得られるように生まれてきました。いろいろな不備があります。それが昨年のウィッツ青山高校の例に続いて出てきました。そのたびにサポート校を消滅させる方向で何かが語られます。それは不登校への対応策を縮小させる方向になっています。
生徒を育てる方向、生徒の状態に即したものに学校と教育内容を改善する方向では語られません。そこが残念なところです。必要な改善方向は、高校教育の内容を社会の状況や必要性に沿ってつくりなおすことです。生活できるための力、社会が求める表現力(文章・画像・音響・身体・コミュニケーションなど)を加えた教育内容に変えなくてはなりません。
そこに手をふれず相変わらず大学受験用の教科中心の教育内容です。それができるのを待っていては、これらの生徒は救われません。

斜視の集まり(4)ー対人関係や社会生活の面を重視したい

今回の集まりで、私が推測したことが成り立たないとわかりました。程度の重い斜視の場合は、発達障害に当たるのではないかという推測です。
これはとりあえず二重の意味で否定されました。
発達障害は先天的・遺伝的な要素によるものですが、先天的な斜視は成長期までの矯正手術で治ることによって否定されます。
重度の斜視で障害レベルと考えられるときは、後天的な理由によることでも否定されます。
これらもより多くの斜視の人の事実によって確証を得たいと思います。というのは先天的な斜視であり、幼児期に矯正手術をしないで成人になり、社会的・職業的な制約を受けている人の状態を知らなくてはならないからです。
そういう人がどの程度いるのか、どういう状態でいるのかによってこの判断はすべきだろうと考えるからです。
●自閉などの発達障害も、子ども時代の生育環境によって、かなり改 善できます。これは斜視の幼児期の矯正手術の効果と重なる事情かもしれません。
視覚障害の一部として、眼科医などから斜視に関する報告があります。視力・視覚の解剖学的な説明、矯正手術のしかたや医療機関情報など…それらは有益ですが、必要なことの全体ではありません。内斜視と外斜視の違いもあります。影響がより大きいのは外斜視かもしれません。
斜視であることによる対人関係、日常生活、社会生活、職業上の制約、影響の男女差は、(眼科医に頼るよりも)当事者から発していかなくては本当のところは伝わらないと思います。それは個人差が大きく、本当に困難な状態におかれた人の問題を置き去りにしては対応にならないからです。
斜視の集まりを続ける意味はこのあたりにあるように思いました。ネット上にある斜視情報はこういう対人関係、社会生活の部分が薄いように思います。