KHJ家族会の支部になるか検討中です

不登校情報センターの組織面で、いろいろな検討と対応を考えています。
(1)NPO法人(特定非営利活動法人)はやめます。既に手続きを開始しています。東京都所轄ですが、法務省所轄の登記所で行います。いったん登記所に出向き、そこでもらった書類を東京都に提出し、もういちど登記所で手続きをするというものです。かなりの時間を要します。
(2)親の会は存続しますし、居場所(当事者の会)も存続します。親の会はトカネット親の会から続く十代・二十代の親の会と二十代後半以上の「大人の引きこもりを考える教室」の2系列あります。これらが別の会になっています。重なるところもあり、組織としては1つにします。そのうえで運営を別にする方向です。
(3)親の会はKHJ家族会(全国KHJ家族会連合会)に入る(=支部になる)可能性から考えています。予備的な話はしていますが、近くKHJに出向いて話す予定です。家族会ですから、ひきこもりの家族が代表者になるのが条件のようです。
不登校情報センターの情報提供活動、訪問サポート部門、相談活動、居場所での仕事づくりは、KHJの枠組みにはなさそうで、支部の独自活動になるはずです。KHJには全国大会や関東圏ブロックのような地域的な枠を大きく広げる活動面もあります。
(4)さらに賛助会員制度もあるのですが、これという役割はないので廃止します。
(5)会報『ポラリス通信』の扱いも組織面を考える一つです。訪問サポート部門トカネットの会報を不登校情報センターの会報にしています。それは支障ないのですが、会費がなく送付していますので、購読制にしたいと思っています。しかし、事情を考えると一律にはいきません。不定期読者(会員外で購読料の支払いがない人対象)もありとする予定です。
不登校情報センターの会計年度は7月1日から、翌年6月30日にしています。ちょうどその時期でこれらをまとめて考えることになりました。

斜視の集まり(3)ー成人後の斜視のばあい

先天的な斜視よりも後天的な斜視、特に成人した後に斜視になった場合が、生活面でも社会面でもハンディは大きいと思います。個別の事例は聞いていましたが、ここが斜視の中心問題になりそうです。
成長期の前の斜視は矯正手術により治せるし、予後もいいという点は初めて確認できました。これに関して矯正手術の医療機関の情報がありました。
問題は成人になってから斜視になった人です。こうなるのは左右に視力差が大きいことが関係しています。視力差が大きいとよく見える方だけで見るようになります。
左右の視力差をメガネで補正すると脳内が苦しくなります。「脳内が苦しい」を表現する適切な言葉は見当たりませんが、経験者には言葉が不十分でも伝わります。同じ感覚が理解できるからです。
「脳内が苦しい」ために視力差が大きいと単眼視(右目だけ、左目だけで見る)になりやすいのです。それが斜視に向かい、斜視が固定化する理由です。これにもいろいろな場合があるかもしれません。
斜視のまま両眼視できる人もいます。その場合、見える像が1つにならず二重になることがあります。これは以前にも聞いていましたが、今回も聞きましたので、さらに詳しく聞きたいところです。本人にとっては大変だと思うのですが、どういう苦しさが発生し、どういう表現になるのか…。
このように聞いていくと、視覚障害の一部とみていいように思います。失明や弱視の人が持つ困難に近く、社会的・身体的・生活的な制約が大きいからです。

斜視の集まり(2)ー特に子ども時代について

子どもの場合、斜視を理由とするいじめや嫌な思いをした経験があるのは、私にはよくわからないことでした。私も子どものころから斜視ですが、それらしい経験が思い出せません。
参加した2人からは同級生との関係、教師からのもの、仕事についてからのいじめなどがいくつか話されました。一人はそれがきっかけで不登校になっています。
「右の眼はいいが、左の眼は嫌い」と言われていたことがある。「目が変」「目が怖い」と斜視であることが対人関係に影響したのです。それがいじめや嫌がらせや不登校につながるのです。
とんでもないことですが、斜視をまったく理解していない教師もいるようです。確かに教師になるための予備知識にはそういう項目はないでしょう。子どもの顔をみれば、わかりそうなものですがそうではない教師がいるとは驚きでした。
対応策もあります。例えば右目外斜視の場合、右隣には同級生が座らない教室の右端の席にするという対応があってもいいのではないか。そういう話も出ました。子ども時代、学校での具体的な対応のしかたは、考えて行けばもっといろいろと出てくるでしょう。
斜視であることによる不利益は聞いていけば、まだ出てきそうですが、利益になることは何も出てきませんでした。親から“カタワ”と言われたこともあるとか。このあたりもいろいろな経験を聞いていきたいところです。

「斜視の集まり」の始まり・継続・独自サイト設定

錦糸町に斜視の3名が集まりました(2016年7月3日)。
予定の2時間は、目いっぱい話が飛び交いました。体験と情報交換が中心です。
自分の斜視をこれまでは特に話したことがないので、集中して話せたことは大収穫でした。3人ともそんな感じがします。カラオケルームという個室にしておいてよかったです。
斜視と言っても個人差はあります。それぞれが思うことを話してみただけで、互いに知らないことも多かったです。斜視をテーマに話したのに範囲が広くて、それぞれの部分がよく詰められない感じがします。参加者3名の経験や実情の範囲だけで細部を構成するのはまずいという思いもあります。もっといろいろな人の様子を知り、全体像を知りたいです。
そのなかで私が気づいた最大のことは、先天的な斜視よりも後天的な斜視、特に成人した後に斜視になった場合が、生活面でも社会面でもハンディは大きい点です。
もう一つの確認できたことは、子どもの場合、いじめや嫌な経験をしていることが多いです。
他にもいろいろ記述すべきこともありますので「斜視の集まり」としてサイトに独自ページをつくります。まずは上の2点をから書き始めますが、波及して書きたいこともいろいろあります。
斜視の集まりをこれからも2~3か月ごとに続けることにしました。参加予定は4名でしたが、1人から参加できない連絡がありました。きょうの参加者以外からも様子をぜひ聞きたいところです。連絡を待っています。

ひきこもり協同実践交流・第2回実行委の非公式・断片報告

全国若者・ひきこもり協同実践交流会の第2回実行委員会(7月2日)の非公式報告です。
参加者は40名あまりで、4月の第1回と同じくらいの参加ですが、3分の1は交代しており、初参加も多かったようです。
本番は1000人規模の大集会、それもテーマ別に分かれて各7時間ほど話し合う場を運営するのですから、準備メンバーが40名では不足するはずです。誰かが講演するのであればそれほどの準備態勢はなくてもできます。20分科会を同時に開き、それぞれ50名前後が参加して2日間7時間通しの意見交流する場を組織するとなるとたいへんなことだとわかります。
ですが私は1実行委員として、この日は目標を絞って参加しました。
1つは一緒に行った藤原宏美さんが要望する「訪問活動」をテーマとする分科会を取り入れ、ある程度の内容・方向性に関われるようにすることです。これは事務局から配布された資料の生活ジャンルに「訪問活動」分科会が予定されていました。後はそれを準備する会合に藤原さんが参加して、現場からの実情発言の形で参加できる条件をつくることです。
もう1つは、私が参加する仕事ジャンルの分科会に取り組みから実感する状況を話して内容の方向性を現実的・発展的にすることでした。このジャンルは「仕事体験・企業連携」「中間的就労」「仕事づくり」の3つのテーマが予定されています。他のジャンルの居場所などとも切れない関係がありますが、それぞれのテーマから接近していく方法になります。
大会本番は来年3月です。次回の実行委員会は9月、少しずつ形をつくっていく作業がこれからも続きます。

「小説家になろう」サイトに投稿する葉月桜子さん

小説を書いている葉月桜子さんから連絡がありました。
ネット上の「小説家になろう」サイトに新たに投稿をしたようです。『これが死後世界!?』というタイトル名です。これまで3作品を投稿しており、これが4作品目です。
サイトのURLは[http://mypage.syosetu.com/318119/]

θ『遺物』(異物)(2014年10月6日・投稿)
θ『若の葉浪漫譚  第一章 ブルーチーズの恋は、突然に・・・・・!!?』(2014年10月21日)
θ『霊能者クリフのドタバタ放浪記ーボーイズ・ラブ国家の真実ー』(2015年4月16日)
θ『これが死後世界!?』(2016年7月3日)
「小説家になろう」サイトにはレビュー欄などもあります。応援のつもりで率直な意見や感想を書いてみてください。
最初に投稿した『異物』はあゆみ書店のパンフとして発行しています。

斜視の会はカラオケルームになります

7月3日の斜視の集まりの追加。錦糸町の駅に集まった後、どこに行こうか。4人が初対面ですから、ゆっくり座れるところでないとまずいでしょう。日曜日午後1時過ぎの錦糸町駅周辺。考えた結果、カラオケルームにすることに。個室ですし歌わなくてもいいわけです。
それであるお店に予約を入れました。錦糸町駅の南側。集合場所の北側とは反対ですがやむをえません。

ダイソーで82cm、162円の杖を買いました

食べ物屋さんを出たあたりで、道路に段差のあるのがわからず、右足がカクッ、としました。脚の左右の力の差が大きく、右は効き足です。痛くはないのですが、右足に違和感があるので長歩きはやめようと思いました。
しかし、日常的に歩かないわけにも行かず、ここは杖で右足をカバーする歩行にすることに。午前10時、近くのダイソーが開店するのを待ちます。以前にここで杖を買ったことがあります。その杖は、自然歩行が回復するとともにどこかに忘れてしまいました。おととしの秋に腰痛になったとき、Mくんが買ってきたのが最初で、今回で3本目です。
長さ82cm、150円+消費税で162円の杖を買いました。
口さがないHさんが、「杖をもって電車に乗ると座れるから…」と申しますが、その通りです。いやいや、そういうつもりはありません。副産物としてそういうことが発生するだけです。
席を譲られたとき座るのを断ると、譲った人が落ち着いて座っていられませんから、「ありがとう」といってすぐに座るだけです、ハイ。少し込んですぐに座れなくてもだいたい6割ぐらいは席を譲られます。
正直なところお断りするのも悪いのです。だから座るというとひんしゅくを買いそうですが、これは本当です。少し厚かましいと思われても譲られたらその席に座る、これも礼儀です。そう考えています。

私の相談活動の基本スタイル

不登校・引きこもりのカウンセラーになりたい人から助言を求められました。私は助言者として不適任ですが、それを伝えたうえで回答しました。相談者としての私のスタンスの説明です。
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質問のポイントは「不登校・引きこもり対象カウンセラーの現状について、小中高校生や保護者からの要望、把握している評価カウンセラーの高評価と低評価について情報」を得たいところでしょう。この部分に答えたつもりですが、的外れかもしれません。
この質問の回答者としては、私は適任ではありません。私はカウンセラーではなく相談員として相談を受け、理論ではなく対面経験により語るからです。
質問を見て感じるのは、質問者はカウンセラーになる勉強はしたけれども、生身の人間の様子をあまり見聞きしていないのではないかという印象を受けます。カウンセリングや心理学が成り立つには、カウンセラーとクライエントの両者がお互いに(意識するしないにかかわらず)人として認められることが前提です。質問者のスタンスはここまで意識が回らず、相手を操作対象にしやすいのではないかと感じます。これが質問を見たときの第一印象です。
こういう印象になった背景を、理屈ではなく私の体験に基づいて話すのがいいと思います。私の体験がよかったとか悪かったというのとは違います。私の経験したことは、偏りもありますし、一般基準にはなりません。経験から見た第一印象です。
回答者としては「私は適任ではありません」と自覚しています。それでも答えようと考えるのは私にとっても意味があるし、質問者にも参考になると思えるからです。

私は非常に多くの不登校や引きこもりの相談を受けました。親からの相談が多いですが、当事者からも多くの経験談を聞いています。当事者は不登校や引きこもりの途中の人もいますが、10年前の中学・高校時代を振り返って、その時点では話せなかったこと、気づかなかったこと、今になってそうだったのかとわかった話を聞くことができます。
親と当事者の意見や評価はしばしば違います。ズレがあるのは当然かもしれません。親の話を聞きながら不登校や引きこもりの子どもの状態や思いを推測する姿勢でいるというのが当たっているでしょう。親の話は子どもの状態を乱反射する鏡です。乱反射しているけれども親の価値観で整理されているのでわかりやすいです。しかし、わかりやすいことと子どもにとっての真実は同じではありません。
子ども側の話はしばしば混乱し、しかも断片的でとらえどころがないこともあります。ですが子ども・当事者の方に真実がある点を見逃さないことです。言葉だけではなく、当事者の行動も嘘爲的な言行さえも真実の一部です。
カウンセリングとは対人サービスの一種です。対人関係に専門性を働かせたのが対人サービスであると考えます。心理学やカウンセリングの知識により全体的な状態把握と特定個人の相対的な位置がわかります。それが役に立ち必要なこともあります。それにもかかわらずカウンセリング対象の個人をよく見ることが決定的に重要です。
その個人が体系的な分類のどこにいるのか。医療ではこれを診断といいます。相談ではそこから入るのはベストとは言えません。診断や一般的な判断基準を参考にしてもそれにとらわれないことが大事です。一般の友人関係を思い出してください。診断みたいに相手を1つのイメージに当てはめて対人関係づくりを始めてもいい結果にはなりません。
しかし、判断が一般基準と相反する方向のときは要注意です。わかりやすい極端な例をあげますと、人格攻撃的な方法がいいと思ってもそれは採用しないことです。もし自分の結論にそうした方がいいとなったとしても自制を勧めます。普通はそこまで極端に自分の感覚と一般基準が相反する方向はありません。その場合は自分の感覚を信じることです。
自分の経験によるものは、関与するクライエントの特質に左右されます。特に対応方法は自分にできる範囲ですから個性的・独特な方法になります。それでいいと思います。
そういう自分の独特性を意識し、それを一般化しないことです。独特であっても他のことに波及しなければ問題はありません。私のこの回答自体もそういう独特性を持ちます。そういうもの以外の、多数事例に基づく偏りが少ない基本的なものは、カウンセリングの現場では直接の役に立たないと思います。
逆に言いますと、カウンセリングも個性的であっていいのです。個性的でなくてはならないほどです。私は長年そういうスタンスでやってきました。そのときどきで最善を尽くすだけです。そうすると「高評価と低評価」というのは意識にのぼりません。経験の薄さは不手際や未熟なものを生み出す可能性があります。それは避けられません。
一般の対人関係のばあいを考えてください。どのような人でも自分の対人関係には失敗もあり、成功もあるでしょう。ですがそれらはあまり意識せずに過ぎていきます。しかし経験として身体には蓄積されます。大筋での合格状態をベースにして、自分自身の方法で効果をめざすものです。相談でもカウンセリングでも同じではないでしょうか。
成功・失敗よりも肝心なことは信頼関係です。失敗しても信頼関係は強まることもありますし、成功してもダメなこともあります。相手を尊重しながら自分にできることを最大限努力すれば、信頼は重ねることができます。対人関係と対人サービスの違いは、対人関係が普通状態とすれば対人サービスはそれに専門性を働かせていることです。
どこかで学んだ正当な方法を実施しても相手との間にこの信頼関係の積み重ねがなければ、対人サービスとしてのカウンセリングはナンセンスではないでしょうか。
もちろん私の経験には失敗もあります。信頼関係を損ねたこともあります。だから完全ではありません。しかし、失敗しない方法だけを求めるのは間違いだと思います。失敗しない方法の行きつく先は何もしないことだからです。それは無策につながります。
あなたが求める回答とは大きく離れていることを承知していますが、これが私の実感に基づくお返事になります。 〔わかりにくい文章になりました〕

〔受け取った返事をいただきました=6月30日=わかりづらい回答でしたが少しは伝えられたのかもしれません〕
丁寧なご回答を頂戴し,恐縮です。
とても示唆に富んだ内容で,何度も読み返しています。安易に理解したと思いたくないほど,重要な内容であると認識します。反面,自分の読解力の無さを熟知しているからこそ,理解できたと判断するには早いと思っております。また最近では,己の認知に早とちりと誤りがあることを痛感する出来事が多発しており,頂いた回答もさらに読み返す必要があると考えております。
この中で,人とお付き合いするときに真っ直ぐでない,人として認めていない,診断や判断ありきの類型化された見方,受け取り方や捉え方のようなご指摘がありました。感情的には否定したい,違うと思いたい気持ちがあります。しかし,他の方がそう言うのは理由や原因が少なからずあると思うので,改めて自分を見つめ直し,振り返ってみようと思います。
これから,カウンセラーとして出発していきますが,個別の事例でまたご相談することも出てくるかと思いますが,その節は改めて宜しくお願い致します。
今回は本当に感謝しております。ありがとうございました。