「働くこと・働かないこと」をテーマとするひきこもり経験者の集まりに出席しました。この日は20名が参加ですが、どうやらテーマにひかれるものがあったのか、これでも参加者は多い方とのことでした。
ひきこもり経験者とはいえ、働いている人もいます。そこでの体験というか苦心というか、苦しいながらも粘っている様子が話されました。
「絶望的に能力が低い」と“自白した”一人の言葉が、何か新鮮でいさぎよくて、これは捨てたもんじゃないとの思いに至りました。
不登校情報センターの場合も、この集まりと似たような時期があり、多数の人が集まった時期がありました。それがあるときを境に急激に減り、不登校情報センターはその時期から本当の居場所づくりが始まりました。その結果、パソコン作業による「ワークのある居場所」にたどり着きました。この日の集まりとはかなり様相の違う居場所になったわけです。
参加してこの手の話し合う居場所もいいなと思いました。1~2か月の間隔があって、場所は借りている公共施設という前提条件に背景の違いがあります。そのうえで何がいいのか考えたのですが、たぶん「生きづらさ」ではなく「働きづらさ」がテーマになったことです。
ひきこもりにたいしては働くこと、就労やアルバイトを勧められています。ひきこもりにとって、それは肯定的な前進ではなく、苦界への参入の面があると示してくれたわけです。苦界に入って生き続けられる力をつけるのがいいのではなく、苦界になっている社会状況を変えなくてはならないと言外に語ったと思います。
ひきこもりがこの社会条件のなかで生まれたのは偶然ではありません。以前にある人を継続的に訪ねていた時期に感じたことです。静かに世の中を観察する人でした。まるで嵐の荒海をさけて港に停泊している船のようです。
彼のひきこもり生活はこの苦界を深く見通しているから選ばれたのです。ひきこもりは苦界参入をさける予防措置のように見えました。
行動的でなければ社会は変わらないと言います。けれどもこれだけ大きな動かないグループが社会に存在する異常は、社会はスムーズに立ち行かない様相を呈しています。動かないことの強さもなかなか侮れないものです。
11月13日の「大人の引きこもりを考える教室」の後、3時半
ごろから、当事者による「働きづらさを語る会」をします。