中学3年生のPくんのお母さんが様子を話しました。それをめぐってしばらくあれこれ話し合います。ちょっと一段落した感じになったところで、私はこう話しました。
日別アーカイブ: 2016年10月16日
出自の後の子ども時代の周囲との記憶が少ないと不安になる
ある記者Nさんから「中学時代から不登校になり、その後もひきこもり生活が長くなっている人」の話を聞いてみたいと言われました。問題意識を確かめてもわかりにくいのですが、私なりに解釈すると記者Nさんの言葉の中にある「帰属」になるかもしれないと考えました。
<学校という帰属がなくなることがどのような意味を持つのか、社会のありようまで考えるきっかけにしたい。まだ漠然としており、不登校の歴史とか現状とか、着眼点なども聞きたい…>と。
中学時代の不登校から始まり長期のひきこもり体験のあるTuくんに聞いてみました。訥々した話を思い切り要約するとこうなります。<余りにもわからないことだらけで何がわからないのかわからない。自分が世の中のどこにいるのかがわからない。何ができるのか、何をしたいのか、何をしなくてはならないのか、それらをどう表現すればいいのか、それらがわからない。>
これは何でしょうか。その日の夜、布団に入ってTuくんの話をぼんやりと思い返していました。最初に浮かんできたのは「ルーツ」というアメリカに奴隷として送られた黒人の子孫クンタ・キンテが自分の先祖を探す物語でした。次に戦時中に中国に残された“残留孤児”が連想されました。そして記憶喪失になって自分の名前もわからなくなった人の場合です。
人は今の自分(の帰属・所属)がわかるには周囲の人を見ても十分とは言えないようです。自分の出発点はどこなのか、来歴の記憶も必要としているのではないか。生まれた時点はわからないけれども、物心のついたときには、母がいて家族がいた。そこから自分の来歴が始まります。その来歴がさっぱりわからないと今いる自分の存在の根が見つからない、それが自分の帰属・所属の不安になり、確かめたくなるのではないか。「ルーツ」も残留孤児も記憶喪失もそうでしょう。
Tuくんの話は、その後に積み重なる子ども時代のことです。生まれた後の子ども時代の家族や子ども世界での経験です。ここに帰属感覚の次の源泉があると思います。生まれてからの帰属感覚の源泉につながる順序や内容はそれぞれでしょうが、積み重なって人間の現在をつくるのではないか。これが人になること、人格の形成ではないかと思いました。
Tuくんの場合は中学時代の不登校以来の経験不足が、対人関係、社会関係、社会生活に必要な知識や技術の少なさになっています。子ども時代に学校やそれに代わる子ども世界の経験が少ないことは、この蓄積の乏しさであり帰属意識をつくりづらくしているのではないか。その不安感やつかみどころのなさが、Tuくんの話の「わからない」に示されていると思いました。
映画監督の山田洋二さんがどこかで話していたことです。
子ども時代の風景は強い記憶として残るもので、この記憶が残っていることは人として大事ではないか。正確ではないけれどもこんな趣旨です。
私も子ども時代に住んだ町や海辺の風景が鮮明に残っています。その意味で山田監督のいうとおりですが、それがだれにも通用することなのかは確信できないできました。
子ども時代の風景さえも人が自分の存在と帰属意識(感覚)を形づくる、それに影響していると考えてもいいのでしょう。