居場所(フリースペース)または当事者の会(下)

——不登校情報センターのあゆみの一 面

居場所(フリースペース)ではいろいろなことが生まれました。私は不登校やひきこもり経験者が互いに顔を合わせ、話ができ、人間関係をつくり、知人・友人となるよう期待したのです。特別のプログラム/訓練計画はありません。そのためか「支援者」扱いされると、どうも違和感が先立ちます。

編集者経験者として様子を記録するのが主な役割のつもりでしたが、話し相手にされ、また相談を受ける機会が増えるのは避けられません。私の方からの提案はほぼしていませんが、提案が寄せられれば実現しようと試みました。参加者の動向を見て、こうしたらいいと思うことを具体化しました。

今からふり返ると実に教訓に富んでいます。最近私が深く考えるようになった対人関係づくりや対人ケアを考える内容が、自然発生のように生まれていたのです。現在、私は家族制度の中でケア労働の役割に思いめぐらすことが多く、その一般状況の参考になるかもしれません。ケア労働は社会のいろいろな方面に広がっています。そこを考える私の経験には不登校情報センターの居場所がある。その経験を深く見直すヒントになると思えます。

(1) 外出先——ひきこもりにとって家を出たあとどこに行くのか? 商店などでは長くいると不審者です。商店街にあるベンチや公園もいいのですが、手もちぶさたになります。図書館は好みの本が見つかれば時間をつぶせますが、もの足りなさが出ます。結局、人間は人間を必要としているのです。人のいる感じがあって、可能性として自分と話しができる、少なくとも何らかの接点が持てそうに思える。居場所の最初の役割はそのような「外出先」です。

(2) 人との接点——が続きます。場なれしない所では、何をどうすればいいのかわかりません。そこにスタッフとか通い慣れた人が近づいてきて、何となくそこに居る経験ができた。人と場所が結びつくのがこのように実現します。当事者の会の会場をあちこち移動していた時期は、この「いつでも行ける」場所がありませんでした。場所が定まっていることは重要な要素です。その上で「人」であり、常連や親しい人ができると居場所と自分の関係は変わります。

(3) 居場所の中心状況——場所が定まり、人が集まると多方面に発展します。「~教室」というテーマがあるのはその目的のためにはいいのですが、幸か不幸か私にはその特別の方法はありません。それに代わって、関心を持って来たカウンセラーを始め通所した当事者同士での試みが生まれました。通所者が求め・発意したことを試してみる、情報センターに求められたことや通所する人が聞いた情報を基に動いてみた結果でしょう。思い出したものを列記してみました。存在した時期や関わった人数はいろいろです。

(3-1) 自分の経験を語り、他の人の経験を聞く。不登校やひきこもりの体験者が集まる中でこれは自然に始まりました。そのなかで人生模索の会はTKくんが中心に始めた社会参加をめざすグループです。小林剛『[[人生模索の会]]』という体験記のなかで経過がまとめられています。

(3-2) 体験発表―自己紹介を超えてところの、不登校やひきこもりの体験発表の場を何回か企画しました。体験記にまとめた人もいます。LGBT系の数人が集まり話し合う機会もありました。友達をテーマに体験交流もしましたが「友達はいません」という発言があって驚いたのですが、そういう人が多数だったのです。

(3-3) 書店と喫茶(場づくりと担当者)―複数の教室など多くのスペースのある場に初めは戸惑いました。1階の最大スペースに本を置き書店にしました。本が多くあったので並べたのです。希望者を曜日により書店員に決め、場の担当者がいる居場所になりました。本が売れるのは特別の機会に限られ、当日の居場所担当が中心です。やがて喫茶を開く人が生まれ、手作りの洋菓子を置きました。さらに協力関係にある学校等の案内書パンフレットを置きました。

(3-4) 『ひきコミ』誌が市販であったころには、松田の他に3~4人がやや固定的な編集メンバーになっていました。⇒「[[文通誌『ひきコミ』の誕生から廃刊までの事情]]」。編集見習いと文章の扱いを学びました。

(3-5) カウンセリングの機会―新聞報道などで知ったカウンセラーやその志望者が協力してくれるようになりました。希望する通所者にカウンセリングも始まりました。カウンセラーと話す機会が生まれ、「心理学の勉強会」もありました。

(3-6) 勉強会—特定の本をテキストにした勉強会がいくつか開かれました。保険業の人が保険の勉強会を、化粧品業界の人がメイク教室を開きました。当事者によるパソコン教室もこれに入るでしょう。

(3-7) 学習塾―ある人が1年間程度でしたが「シャイン」という名の学習塾を開きました。生徒は高校生年齢の10代後半の数名です。

(3-8) クラブ活動(?)—インラインスケートを数人がやっていました。マッサージなど身体療法を習っている数人が話し、互いに練習台になっていました。親の会の参加者が定例会の後で太極拳のエクササイズをしており、これに参加した当事者もいました。⇒[[不登校情報センター・親の会の歴史]]。

(3-9) 創作・表現活動—自作のイラスト作品を持ち寄って話している人たちがいました。これは2005年に創作展になりました。私(松田)も関心がありましたので太田勝己の作品展示を機会に創作展を何回か開いたのです。これは現在も作品集づくりとして細々と続いています。出版関係の人が来て、諸星ノア『ひきこもりセキラララ』という体験を元に本を出版しました。

(3-10) ホームページ制作—不登校情報センターの公式ホームページを制作することになり、多いときは20人近くがこれに参加していました。⇒[[不登校情報センターのサイト制作の経過と現在]]、[[パソコン導入とホームページ制作の変遷]]。

(3-11) 「進路相談会」を開いたとき当事者に応援をしてもらいました。相談会の参加者の中心は母親たちであり、不登校体験者として母親たちの相談をしたのです。移転後の2001年秋に5日間通して行った進路相談会は参加者合計500人になる最大のイベントでした。進路相談会はセンター内だけではなく学校などの協力により首都圏のいくつかの場で行い、そういう機会にも参加してもらったのです。

(3-12) 小遣い稼ぎ(アルバイト)—2003年ごろに「不登校情報センターを働ける場にしてください」という要望があり、それに応えて実現したものです。「30歳前後の会」という当時としては年長のグループが定期的に会合をくり返しておりそこから出た意見でした。発送作業として学校案内書のDM発送や地域情報誌『ぱど』の配布は、作業時間と部数により小遣い程度の収入になりました。ホームページ制作もある時期から広告収入が入るようになり、支払いを行いました。

⇒[[Center:ワークスペース・あゆみ仕事企画]]+[[収入になる取り組み等記録(1)]]~[[収入になる取り組み等記録(3)]]に詳しい表を掲載。

(3-13) 食事会―料理のできる人が来て食事会を開いたことが何回かあります。その食事会が居場所の中心と思える時期もありました。食事会はコミュニケーションをしやすい場になったのです。

(3-14) 器材提供要請や職場見学―メーカーの(株)リコーに印刷機の提供をお願いしたことがあります。学校に中古パソコンをもらうよう働きかけました。誰かが発意して障害者施設の見学、パソコン技術を使う会社への見学もしました。これらは社会経験の機会であり、それぞれ数人が参加しました。

(3-15) 他にもいろいろな動きがありました。女性の会もあったのですが詳しくは知りません。

(4)居場所の外側——居場所を終えた後の、ファストフードや居酒屋での二次会も、居場所の役割を考えるうえでは欠かせない要素です。この状況は私には半分も伝わってこなかったと思います。対立やけんか、恋愛感情の発生や葛藤なども生まれています。ある人がその状況を「ウラ居場所」と表現して話してくれました。社会の縮図、ひきこもり経験者間の直接の人間関係が生まれ、そこで傷つきもすれば、快体験もする場だったと思えます。

居場所の中心の役割は、ここでいうと(3)と(2)でしょうが、その前後にある(1)や(4)もまた居場所には欠かせない要素です。普通扱われる居場所、例えば学校や会社のような公式な場とは違いますが、人として社会生活で出会う経験をする、社会体験の予備機会になります。不登校情報センターの居場所の特色は、当事者自身によるものと協力する専門職の発意によって生まれたことです。私は場の設定者でしたが、そこで展開されるプログラムの主導者ではありません。

この経験により世にある多くの各種の居場所を論じるには飛躍があります。ただ自然に生まれた居場所からは学ぶに値することもあれこれあるでしょう。居場所に関してはこれまで数回、ある程度まとまったことを書いてきました。⇒[[不登校情報センターの居場所の経過]]、[[不登校情報センターの居場所の内容]]。

理髪店で出会ったバングラ人

理髪屋さんに行ったとき、待合室の隣に座ったのがバングラデシュの人で、少し話しました。在日8年目で日本語はかなりスムーズに思えたのですが「日本語は難しい」といいます。

「バングラを知っていますか?」と問われました。20代のころ、深夜のダッカ空港にトランジットで寄り、カラチに向かったのです。パキスタンから分離独立した直後でした。彼は「それでもバングラに行ったことにはなります」と妙にうなずいています。

1971年、パキスタンから分離独立し、バングラデシュができました。その運動の主役アワミ連盟の総裁、ムジブル・ラーマン首班の政権ができました。独立後は政権交代もありクーデターもあったと記憶にありますが、ムジブル・ラーマンの娘のハシナ首相が、国内の反政府運動の中で辞めてインドに亡命しました。昨年のことです。私は「これをrevolutionでしたね」というと、彼は納得して、「よくわかってくれています」と返してきました。

40歳前後と思われるので「バングラに戻る予定はありますか?」と聞いてみました。「わからない」と答えます。「今は秋葉原でパソコンなどのIT関連の販売をしている」そうです。バングラは農業中心から繊維工業による発展途上にいます。人口は多く(日本以上の1億6千万人?)、面積は北海道の2倍、人口密度は高く、しかしサービス産業はまだです。これらが私の頭にあるバングラです。IT技術者ではない彼には、国に戻る積極的な理由がみつからないのでしょう。…そんな話をしようとしたところで、散髪の順番が回ってきました。

居場所(フリースペース)または当事者の会(上)

——不登校情報センターのあゆみの一面

記憶では、1996年8月4日、横浜駅近くの神奈川県民センターの一室で通信生・大検生の会を開いたのが最初の当事者の集まりです。当時リクルート社から個人情報誌『じゃマール』が発行されており、そこに掲載されている通信制高校生や大検生、あるいは不登校の人たちの声を見て思いついたのです。横浜を選んだのは神奈川県在住の人から積極的な反応があったからです。

通信生・大検生の会は私の中では一般呼称であり、それを固有名詞にするつもりではありません。当日集まったのは5人ほどの少数であり、会の設立をきめるほどとは思えません。ところが参加人数はその後も似た状態であり、この通信生・大検生の会は、固有名詞になりました。

そのころは事務所はなく、親からの相談も通信生・大検生の会の会場もそのつど借りていました。公共機関の会議室が多く、集まるメンバーのいた立正大学や明治大学の一室で開いたこともあります。参加者はだいたい10名未満です。

1998年の夏ごろ、協力関係にあったWSOセンターの平井さんが、固定した事務所を設けてはという提案をしてきました。自宅から近い大塚駅近くに8畳ほどのワンルームを借りたのが1998年8月末のことです。それ以降はここが定例会の場に固定され、当初は水曜日午後1時から開かれました。

多くの人が集まりました。毎週水曜日には部屋からあふれました。30名以上が入り、履き物が多くて玄関のドアが閉められません。そのような場所が求められていた時代だったのです。

2001年3月ごろこの様子を朝日新聞に投稿しました。その記事を見た当時の第一高等学院の田中さん(経営母体の学育舎副社長)から連絡があり、新小岩校を閉鎖したので活用しないかというのです。それで5月にその校舎を借りて講演会を開きました。参加者は70名くらい(?)だったと思います。不登校の親が多く、このグループの会合が後の親の会になりました。参加した当事者が大塚から新小岩への事務所の引っ越しを手伝ってくれました。不登校生への訪問サポートをしていたトカネットも独自の発表をしました。

2001年6月移転し、(旧)第一高等学院新小岩校が不登校情報センターの事務所です。1階スペースはあゆみ書店(後に喫茶いいなが加わる)と事務室、コピー機などがある作業室と図書室代わりの教室、2階には3教室ありました。いつ誰が来てもスペースがある状態になりました。

当時の私は、この当事者の集まる状態に特別の名称があるとは知りませんでした。当事者の会という名を知り、いや当事者という呼び方自体もここにきて知ったのです。参加した人のなかにフリースペースと呼んだり、居場所と呼んだり、あるいはグループカウンセリングと呼ぶ人がいて、「ああそういう名前で呼ばれているのか」と知ったのです。ここを会場として親の会は毎月開かれました。カウンセラーやカウンセラー志望の人が関心を寄せ、協力してくれるようになりました。

(旧)第一高等学院新小岩校には2005年8月までの4年2か月いました。その後、近くのマンションに移動し(2013年8月まで)、さらに平井のマンションに移動しました。当事者の参加数の減少に沿ってスペースは狭い所に移動したのです。

パソコン導入とホームページ制作の変遷(下)

——不登校情報センターのあゆみの一面
2004年春、不登校情報センターの公式ホームページをつくる必要が出ました。高校留学を事業とし親しくしていたWSOセンターの平井さんからは、公式ホームページ制作の依頼がきました。
SNくんをはじめ数人に集まってもらい相談しました。出版準備中の『不登校・中退生のためのスクールガイド〔2005年版〕』(東京学参、2004年12月)に集めた学校・フリースクール、親の会、相談室の紹介データの一部を収録するのです。私は技術的なことは全くわかりませんから、これらの団体の内容を種類別、地域(都道府県)に探しやすくするホームページづくりを提案しました。実際にはMSくんやMIくんがつくり始めました。URLは(http://www.futoko.info)、サーバーはNiftyです。技術的にはHtml型であり、私は技術的には何のタッチもしていません。その一通りの完成をみたのが2004年11月21日です。
ここからコピー・印刷の状態を書きます。パソコン内文書を印刷できるプリンターが置かれたのは第一高等学院に移ってからです。いつ・だれが・どこからそれを持ってきたのかは分かりません。2階教室に数台のパソコンがあり、SNくんらがパソコンのバージョンアップを含む作業をしていました。その時期に中古プリンターが置かれていたのです。
別に印刷機がありました。これは(株)リコー社に手紙で依頼したところ、本社に来るように返事をいただき、TMさん、KOくんと3人一緒に行き、社会貢献室の人に必要性を話しました。リコーは既に寄贈を決めていたようで、2002年12月18日にデジタル印刷機と設置のための担当者が来られました。
デジタル印刷機はパソコンとはつながっていません。DM発行作業に使う宛先名簿は近所のコンビニのコピー機に頼るという使いわけをした時もありました。2002年11月で発行が18号で休刊の『ひきコミ』を、この印刷機で19号を再発行したのは2003年8月です。振り返ると『ひきコミ』発行ストップの時期は混乱期(?)だったのかもしれませんが、奇跡的な復活であったともいえるでしょう。復刊した『ひきコミ』は97号・2012年12月まで続きました。
2005年8月に事務所を近くのマンションに移転しました。この移転は第一高等学院の意向もありましたが、通所者も減っていたので、場所は狭くても大きな支障にはなりません。使っていないパソコンはかなり処分しました。印刷機は新事務所に運びました。数台のパソコンとプリンターも移動しました。2006・7年になりムラテック社の代理店から提案がありました。コピー複合機(プリンター・FAX・スキャナー付)の導入です。この複合機の導入後も印刷機は使っていました。2011年3月11日の東日本大震災の時、印刷機が勝手に動かないように印刷機の前に座っていたENくんが押さえていた話をしていました。印刷機とコピー複合機の両方があった時期です。コピー複合機の基本契約は6年、そのあと1年契約の延長をしています。
2013年8月に平井に移転しました。活動費用を賄えなくなり事務所の負担を減らすためです。このとき印刷機はある福祉団体に譲りました。パソコン6台とコピー複合機の時期です。
平井で2回目の事務所を移転したのは2018年5月です。通所者はさらに少なくなり、作業費の未支払いがたまり、それに対応するためです。パソコン3台とコピー複合機の時期です。コピー複合機のドラムに支障があれば取り換えざるを得ず、すぐに10万円を要する状態です。これを避けようとした気持ちがあったのです。
このコピー機のリース契約が満了していたころ、(株)リコーの人に来てもらい、パソコンは3台とコピー複合機のメンテナンスを含めて全体を頼むことにしました。そのコピー複合機は2025年9月がリース契約の満期(1年延長契約)、パソコンは2025年12月がリース契約の満期になります。パソコンは基本OSが10(テン)であり、リース契約をやり直すことにします。
以上がプリンターと印刷機能に関する変遷です。ホームページ制作とパソコン利用にテーマを戻しましょう。私が直接にホームページ制作に入ったのは公式ホームページができた2004年11月からかなり過ぎてからです。文章はよく書いていたので、ブログを書くように勧める人がいて、それで書いてみようと考えたのです。
時期は2009年5月ごろで、SMさんが自分もやっているYaplogに不登校情報センターのブログを設定してくれました。当時の私はワードだけを使えるようになっていました。Yaplogにつづいて、諸団体のイベントを紹介するページをつくり(TeaCupブログ)、「ひきコミWeb版」はHatenaブログ、他にもライブドアブログを使っていました。
これら私の様子を見て、MSくんがホームページ本体を、ワードで製作ができるWikiシステムのサーバー=さくらインターネットに変えるように提案してきました。2010年の秋のことです。Wikiシステムを2、3か月練習して、2011年1月から不登校情報センターのホームページはWikiシステムに全て移動しました。この中にブログ「ひきこもり居場所たより」などのブログページもつくり、他社のブログは閉じました。Htmlで作成したものを、新しいホームページに移行する作業と並行して新しい情報ページを作成していきました。この移行する前後の時期がパソコン作業も活発になった時期です。情報紹介は学校・相談室・親の会・自治体の動きだけが中心です。不登校情報センターの取り組みや私(松田武己)のエッセイ記事なども掲載してきました。
Wikiシステムに代えてから15年がすぎました。記事数17438、総ページ数は2万6891ページ、総閲覧回数78270787(2025年9月11日)になっています。ブログ記事も数万件あります。正確なデータは不明ですが、最近の状況は毎日推計3000人以上がアクセスし、2万ページ以上が閲覧される状態です。
しかし、事務所の場所は移転し、狭いところになりました。通所者(ひきこもり経験者)も減っています。これからの持続性を考えると「終わり」を考えなくてはなりません。申し出のある学校等の情報の新規、更新などの作業は続いていますが、2025年3月に積極的な拡充を止めることに決めました。
パソコン、ホームページ制作の社会的な有用性は続いていますが、スマートフォンや動画中心に、さらにAIを利用することに移っています。この点も考えて、今後を考えている最近です。
それぞれの時期に具体的なことは書いてきました。今回は全体を通して記憶によりまとめました。思い出せないこともあるし記憶時期は手帳などで確認すれば違いがあるかもしれません。改めて思うことは、私が主導して始めたものは限られ、提案されたこと、要望されていると感じて動いたのがきっかけになっています。まとめの作業をしながら、不思議な感覚にとらわれることもありますが、これを肯定的に受け入れられるのです。

パソコン導入とホームページ制作の変遷(上)

——不登校情報センターのあゆみの一面

1995年9月に不登校情報センターを設立。どう伝わったのかよくわかりませんが不登校の相談が相次ぎました。翌年6月に大塚の自宅近い社会教育会館で講演会を開いたところ、母親を中心に数十人が参加しました。

これを参考に以降、講演相談会を続け、やがて中心テーマを「不登校生の進路」にウェイトをおくようになりました。フリースクールや受入高校を中心に教育機関の紹介を主にするつもりでした。他方では仕事(アルバイト等)への関心を寄せる人たちもいました。こちらには対応するところがありません。アルバイト可能なところを探そうとしたのですが、まとまったものになりません。それまでの希望者向けに「人材養成バンク」と名打って参加を募ったところかなりの申し込みがありました。あるハローワークの職員が関心をもって協力してくれました。

人材育成バンクの名称で、農業、清掃、福祉関係の団体に連絡し、協力を呼びかけました。少数の人が参加をしましたが、ほとんどは実らないままです。そのなかにパソコン講座を開き、技術者を養成する会社がありました。参加者は7、8人で、2週間ほどの研修でした。結果はそれだけで終わった人もいましたし、パソコン教室に通い始めた人もいました。情報センターに来るようになった人もいます。

その後でこの会社から1台のパソコン(Windows94のブラウン画面の大きなもの)が寄贈されました。今回のテーマであるパソコンとホームページ制作はここから始まります。当時の私にはパソコンは全くの異物でした。UHくんがそれを使い何かをしていました。やがてパソコン教室を開きたいと話してきました。経過は全くわかりませんが、2人の教師が週2回の夕方このパソコン教室に通うことになりました。1人は自前のノートパソコンを持参していました。

もう1つ——これもどういう経過か記憶はありませんが、中国人の陳(チン)さんが、不登校情報センターに関心を寄せてくれました。ある日大塚にあった事務所を訪ねてきて、不登校情報センターのホームページをつくると申し出てきました。

私は、それまでに数点の出版物を編集し、本を出していました。それでこの本(十点はなかったと思いますが)を紹介するだけのホームページを不登校情報センターのホームページとして制作するようにお願いしました。1998年のことです。記憶では日本サイエンスという会社(?)の一部が、不登校情報センターのホームページであった——これは後日、独自のホームページを立ち上げたときにNTくんが教えてくれたことです。当時の私がいかにインターネットやパソコンについて何も知らなかったのかを物語るものです。当時は全く何も知らなくて、実はURLというのも知りません。この時期にホームページができたことはかなり早い方になるはずです。

2001年6月、事務所が大塚のワンルームから新小岩の(旧)第一高等学院の校舎への移転になりました。このとき第一高等学院からは、4つの教室、机やイス、本棚、コピー機など半ば居抜きで無料提供してくれました。使用料はなく、電気・水道料金が場所代として必要になっただけです。中古のパソコン(ブラウン画面)も6、7台があり、これも自由に使える状態でした。

テーマをパソコンとホームページに絞って、経過をふり返っていきます。事務所移転後もUHくんのパソコン教室はつづいていますが、受講者は通所していた人に代わり、数人いました。別にSPくんもパソコン教室(?)をしました。これは、仲よくしていたある人と、その知人となった2人が受講者でした。パソコンの技術を教え合う関係の延長であり、このような通所者同士の関係の媒介物になって、使われ始めたのです。

いろいろな学校と協力関係ができていたのですが、武蔵国際総合学園(現在の日々輝高校の前身)で、パソコンを買い換えるので、使わなくなったパソコンを譲る話がありました。合計16台、これを神奈川県綾瀬校にもらいに行きました。知人に運送をお願いしてMIくんと3人で出かけました。

16台のパソコン全部を使うわけではなく、1台の機能を高めるために、メモリーなどを付け替え集積し、バージョンアップしました。その中心になったのがSNくんとYTくんでした。先日SNくんの話をTNくんと話しているなかで、今回のエッセイのテーマが浮かんだのです。このパソコンとホームページ制作の経過も、きわめて独特のものであり、不登校情報センターの歴史の特色を示していると考えたのです。

パソコンの使用についてはもう1つの出来事があります。まずUHくんが、独自のホームページを作りました。それは2ちゃんねる式の書き込み自由のものです。次にMAくんもこれとは別の2ちゃんねる式ホームページをつくり、さらにTHくんもつくりました。それぞれが互いに関係なく自分の好みのものをつくり、ある人のは炎上したこともあります。

9月のセシオネット親の会

先月の親会は、当事者4名、親3名、それに松村さんと松田の合計9名の参加になりました。「どうにかなる」と想定し、確かに「どうにかなった」のですが、うまく融合はしていなかったと思います。
“松田80歳誕生会”というのがあって(みなさん、いろいろありがとうございました!)、時間は長くなってしまったのですが、話はうまくかみ合っていなかったかもしれません。当事者には親がどう考えどんなことをしてきたのか、親には当事者がどういう気持ちで、どういう状態になっているのかを直接に聞く機会になったところまではできたかもしれません。
それでもいろいろな親がいますし、いろいろな当事者がいます。それらを知ると逆に全体をどう受け取ればいいのかが分からなくなるかもしれません。続けて話を聞くなかで自ずと姿かたちが見えてくるかもしれません(これは正解というのとは違うように思います)。
助走の場雲はそれほど広い部屋ではないですが、それでも20人以上は入れます。違った人の話を聞けば、別の気付き、別の発想も出てくるでしょう。そういう機会にできればいいと思いますので、これまで親の会に参加してくれた方、ひきこもり経験者として不登校情報センターに来ていた人に参加していただくように呼びかけます。もちろん初参加も大いに歓迎いたします。
9月の会では特定なことですが嬉しいことが予定されました。自分の行為で相手を怒らせてしまったと思っていた人と、それをあまり気にはしていなかったけれども疎遠な状態が続いて互いの連絡が途絶えていて人が、久しぶりに会って話せる機会になります。隣の部屋で数人が囲んで話せばいいのかちょっと迷っています。なりゆきに任せるしかないのですが。
9月のセシオネット親の会
セシオネット親の会の定例会は毎月第3土曜日、午後2時~4時です。9月20日(土)14:00~16:00 ★曜日・時間に注意
場所は助走の場・雲:新宿区下落合2-2-2 高田馬場住宅220号室
参加等の連絡は、松村淳子さん(090-9802-9328)または松田(03-5875-3730)までお願いします。