なぜ長く活動を続けられたのですか(質問1)

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2つの質問を受けました。「これだけ長く活動を続けてきた原点は何なのか」と「居場所をどうするのか」です。居場所関係は3つの質問がありますが、はじめの質問「これだけ長く活動を続けてきた原点は何なのか」は、単独に切り離して考えることができます。それへの答えです。

私は不登校やひきこもりに関して、はじめから長く関わっていくことは想定していませんでした。関わり続けていくなかで少なくとも不登校情報センターとしては30年を、それ以前を含めるとさらに長くなったという意味になります。

ここからやや雰囲気を変えて回答することになります。私は十代のころから地理学への関心が強くありました。地理学とは、「人間の歴史を現代という時間で切りとり、世界の、ある国の、ある地域の様子を体系的に見る学問」と理解しています。高校時代までの地理学の関心は地形(島、山、湖、川、都市そして人口)中心でした。社会人になってからはそこにいる人間と社会、あるいは社会生活の面に関心の比重を移動します。

ものの見方として20代前半のころ意識したのは「目線を低くする」ことです。大事なこと、本質的なことは困難が集まる部分に集中しているから、そこに目を向けなくてはならない、それが「目線を低くする」の意味です。

20代から30代までは医療機関で事務仕事に就きました。医療機関はいうなれば各種の専門職の集まりです。そのなかで事務はそれほどの専門性はありませんが、医療保健制度に関わるために社会と医療現場の接点にいます。これは1つの経験です。

それにつづいて、教育系出版社で編集職に就きました。ここもまた教育の専門性としては深くはありませんが、教育を外側から深く見る位置にいました。教師の職業的関わり方の幅は幅広いものであると知りました。ほとんどシステマチックに「教える」タイプの教員もいますし、人間への洞察力を発揮して教育活動をする教員もいました。「目線を低くする」という私の関心はこの後者の側の教師の考え方や実践に関心を寄せることになりました。ただ教育は両面を含むいろいろの組み合わせによります。

そういうなかで、不登校という問題につき当たりました。システマチックに不登校に対応するのは、その子どもをこの教育の枠外におくことにより対応できたと思います。それは「教室に来ない子どもには教育活動をすることは難しい」、あるいは「不登校の子どもが適応指導教室に移されれば、自分の担当するクラスでは一件落着」となります。もちろんこの他にもいろいろなバリエーションがありますが、それらは省きます。

人間に対する教育活動というスタンスで、不登校の子どもに対応するとシステマチックよりも個別対応に向かいます。どこに居ようと、家の中から出ない状態であっても、適応指導教室に属することになっても、さらに別の形であっても、関心を持てるテーマであるのに変わりはありません。実際にどのような関わりを持てるのかはそれぞれの事情によるのです。

私が不登校に特別に意識した1つはこうです。一般に暴力とか非行とか問題行動をくり返す生徒には、その子どもの直接的な背景理由があります。家庭・家族の困難な事情、生活の困難、貧しさ、学業成績がふるわない……などがよりわかりやすく出ます。

不登校は、はじめのうちはこの「問題行動」の1つとされていました。しかし、家庭的にはめぐまれている、学業成績も悪くはない(むしろ良好)の人が少なからずいます。私が(たぶん)初めて不登校(当時は登校拒否といっていた)に特別の関心をもったのは、ここです。

不登校に関する多くの取り組みのなかで、“成果”といわれるものもありました。学校復帰・再登校の実現という報告です。教師の側の取り組みとして、このような形の教育活動をすれば、不登校は防げる、不登校の子どもは学校復帰できる…そういう報告をいくつか目にしました。その内容には肯定的に見られるものも多いと思います。

しかし、不登校状態はいろいろであって、いわば軽度の(?)不登校の子どもの学校復帰した報告によるものが多いと感じるようになりました。他方では不登校生は徐々に増えました。中学生から小学生の高学年に、中学年に、低学年にも広がりました。高校では中退生の中心が不登校でした。そしてやがて「ひきこもり」が社会的にも現われる状態になっていきました。

問題の根は、より困難な状態におかれた不登校の子ども、さらにはひきこもりの人たちのところを見なくてはわからないと——これはかなり早い時期から考えていたことでした。「目線を低くして」問題を見ていくスタンスです。

その後の経過のなかで私は不登校の子ども(中学生や高校生)に直接に関わる生活環境にはいませんでした。それに代わり十代後半から20代に入ったひきこもり経験者の集まる場で、実際の経験者に囲まれる生活ができました。それが居場所であり、場の設定者になりました。

居場所ではいろいろな人がきました。比較的“軽度”(?)と思える人もいましたし、“重度”(?)と思える人もいました。実際私はその両方のタイプに助けられて不登校やとくにひきこもりの理解を深めていったと思います。重度の人だけでは理解できなかったと思います。なぜなら人間はある順序性をもって、状態や症状を表わすものであって、中途の様子をある程度知らないと重度の人だけでは突飛な事態と思うにすぎず、連続した整合的な説明がしづらいからです。

もう一つは男性と女性の表現のしかたの違いです。男性は行動で表現しやすいのですが、その行動の意味を言葉でうまく説明しません。女性は行動面ではさほどではない(?)のですが、事情をことばにして説明しようとします。この両方の表現方法を理解しなくてはならなかったのですが、女性側の表現方法により男性の行動も説明しやすくなったのは確かです。

私への「質問は、これだけ長く続けてきた原動力は何なのか」でした。私はそれに対する答えを書いたつもりです。これが答えであると思えないかも知れません。不登校やひきこもりを理解しようとして、そのより重い状態にある人に目を向けて、関わってきたら、いつの間にか30年以上が経っていた」ということです。

初めから意図して長い間かかわろうとしたわけではありません。もっとも短期間だけ関わろうという意識があったことはありません。「深みにはまった」ともいえますが、世の多くの問題との関わり方はこのようなものではないでしょうか? 「深みにはまらなくてよかった」というのは、犯罪みたいなことに限定されるのではないでしょうか。長くつづいたのは、私が人生の目的ができたということでもあります。(2025年10月9日)

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