私はひきこもり経験者には、「感性が鋭い」という感覚をもっています。編集した『ひきこもり国語辞典』のはじめに、「人並み以上の感覚の鋭さと、人並みに近い社会性」としてひきこもりの特性を表示しました。もちろんこれは全体の様子を示したもので、個別的事情はいろいろなわけです。
それにしても、日本語を子ども時代から話している日本人は、全体として感性が強くなり、感覚的な把握が高くなるというのは一応の理屈として成り立つと思います。あえていえば、日本人はひきこもりに近づきやすい体質的・気質的特性をもった国民性があるといえるわけです。
実際にひきこもりを経験するには、その人の生きる時代環境や生育環境が関わるわけですから、「なりやすい」とはいっても数%の人たちがひきこもりを実際に経験するのです。
だから、心理的あるいは実質的・体質的な面から、要因をさぐるには、原因のいろいろな面に目を向けることになります。私はかなりの期間それをしてきたわけです。
しかしその後にもう半分、その人が生きてきた時代・社会的背景の関係から、ひきこもりの要因が説明できるのではないかと、取り組んできたことになります。
ここ数回、日本語に関することを書いてきました。私の関心の中心は「ひきこもり」にあります。日本語や言語学の世界に深く入っていくつもりはありません。言葉が、とくに日常的な言葉が、人間の感性や感覚に関わっており、それが感性・感覚に体質的から気質的に基づくこともそれを成長させている可能性を思うからです。そういう意味で、言葉とひきこもりは無関係ではありません。それを日本語の周辺にいる者としてノートしているわけです。
〔2025年11月13日〕