「家事育児 分担よりも一緒の意識で」は18歳の女子高校生が朝日新聞「声」欄に投書したものです。家事や育児に夫(男性)が参加すると「イクメン」などと称賛されるが妻(女性)はそうではない、おかしいではないかという内容です。男性は家事や育児を「手伝う」や「分担」という感覚ではなく「家族全員が主体的に関わっていく」「よりよい生活を一緒に目指す」そういう当事者意識が当たり前ではないかというわけです。
男女ジェンダーの平等に関して世の中かなり進んできた、その表われがあるというのが私の感想の第一です。私の高校時代や20代のころ、つまり半世紀前までは見かけなかった意見でもあります。
その上で私の感想を2点追加します。1つは「男性だけが家事や育児をすると称賛される状況」は、この移行する時代に見られる現象になるという見方です。人間がものごとを理解するには、移行期というものがあります。多くの人にが一挙に変わるというのではなく、先端部分と中心部分と遅れる部分があり、時代の流れの中で変わっていくということを認めていいと思うからです。
もう1つ私が重要だと思う点があります。家事育児が、経済的・社会的生産活動とは異なった分野として、等位に考えられなくてはならない点です。経済社会的生産は、人間の生活を支える不可欠な部分であり、それは説明の必要がないとしましょう。その社会的生産の労働は20世紀に入って金額という定量的表示を用いる価値基準が生まれ20世紀の終わりにはGDP(国内総生産)に定式化されました。
しかしGDPは国によって、あるいは国内地域や産業分野によっては測るメジャーが異なる不完全、不公平なものです。しかし金額により定量的に表わされるので、便利に安易に比較材料に用いられています。同じように家事育児も人間の生活、というよりも人間が生存する、社会が続くのに欠かせないものです。両者を並べて片側が上、もう片側が下とは言えません。
この理屈はわかっているはずですが、家事育児は社会的生産活動に比べると低位におかれて考えられています。両者は並べて対比すべきものではなく、異なる二つの分野として不可欠であることを認める——現状はそれとは違いますので、その方向に理解をすすめる必要がある。これが私の意見です。
そのためには、家事育児——私はこれを家事と家族内ケアの二つの構成部分の全体と理解していますが——この部分を表わす基準を設けられないかとあれこれ思いをめぐらしています。この基準がなくては男女ジェンダー平等の根拠において、総体として女性の得意分野をおぼろな状態にされたまま判断される事態が続きます。
家事育児はもともと労働ではなく生理活動の中心部分でした。類人猿の時期に道具を用いて労働を始めた後に類人猿は人類に進化しました。人類は労働を発展させる過程で家事育児も労働の一種にまで高めました。それでもなお家事育児の全体は労働とは言えない部分があります。それは労働とは異なる価値基準、その生理的・生活的・社会的な基準で考えられるべきものではないでしょうか。「声」欄の投書を転載します。
《家事育児 分担より一緒の意識で | 高校生 中川美悠(広島県 18) 昔と比べて、夫婦2人で家事や育児をする家庭が増えてきたようです。しかしSNSなどを見ると、男性が家事育児をするとなると、まだまだ「イクメン」などと周囲から称賛されている気がします。女性が家事育児をやっても、当たり前のことだとして、称賛されることはなかなかありません。
家事や育児は本来、夫婦2人のことだと思っています。それにもかかわらず、男性だけが家事や育児をすると称賛される状況に違和感を感じました。私は、「手伝う」や「分担」という言葉が、男性の家事や育児を特別視することにつながっていると感じます。男性も女性も、家事や育児を「手伝う」「分担」するという感覚ではなく、家族全員で「家のことに主体的に関わっていく」「よりよい生活を一緒に目指す」。そんな当事者意識がもっと広まってほしいと思います。(2025年12月18日 朝日新聞「声」欄)