社会再生面からみる人口構成

私が今住む家に引っ越して間もなく8年になります。前のここよりも広いアパート時代に作業する居場所に来ていた数人が、働き場を見つけていき、居場所の役割はほぼなくなり、小さなスペースがあればよかったためです。

それから約8年、私はほぼ毎日、主に朝に“仕事”をしています。学校休日の校庭開放と始業前の早朝見守り、それに週3回地域内でのメール便を配達しています。配達はほぼ午前で終わります。何もせずじっとしているのが大の苦手な性分なので、これらの“仕事”があるのは生活リズムとしては好都合です。

前田信彦「高齢期における多様な働き方とアンペイド・ワークへの評価——男性定年退職者の分析」(国立女性会館研究紀要.2003年8月.7巻)を読みました。はじめの関心はアンペイド・ワーク(非支払い労働)としての家事労働・家族内ケアを考える材料として読み始めたのです。その論の中に「定年は高齢期の多様なライフコースへの『分岐点』と捉える」としている点が気になりました。

この見方は長期のひきこもりの人が、20代後半~40代にかけて「ひきこもり生活状態」から、非正規のアルバイトなどの社会的活動に入ること、女性が結婚して新しい生活をはじめることも、「ライフワークの『分岐点』ととらえられる」と考えたのです。高齢者の退職が「社会から半歩退く」とすれば長期ひきこもりの人は「社会への半歩進出」、人によっては「社会参加」の形といえるでしょう。

退職男性において「社会から半歩退いた状態」はいくつかに分かれます。欧米の社会学者の研究を引用して「ペイされる労働のほか、ボランティア労働、家族や親族への支援の労働(relatives time)、自助活動(self-help work)など、支払いのない労働(unpaid work)を取り上げ、引退期の仕事のキャリア・パスにジェンダー差のあること」を挙げています。

前田さんの論の中心部分はまた別にして、私はこれらの支払いのない労働を考えてみたいのです。GDPにカウントされる活動セクターでは、これらは「0(ゼロ)」評価です。しかしそれは社会的に有用であり、ときには不可欠な活動です。それはGDP基準による社会評価の限界を示すのですが、GDPに代わる(少なくとも補足する)何らかの評価基準を導入すべきではないかと思います。

それはGDP基準のセクター(企業社会の商業取引、政府系の予算支出など)とは別ものになります。いくつかの自治体・政府系の取り組みに、特に「子育て/少子化対策」——「家族や親族への支援の労働の1つ」として認められますし、種類(項目)も増えています。これらはGDPにも算入され、金額に換算されます。推測ですが「家族内ケア」に関することは、政府・自治体の施策として徐々に増えていき、GDPにカウントされそうです。では「家族内ケア」の全部がそうなっていくのか? それはかなりかけ離れています。この問題の今回はここまででとめます。

次に、長期ひきこもり状態にいる人に対しては、心身の状態で可能な範囲で、「社会への半歩前進」になるようにすすめます。その際、男女に関わらず、「家族内ケア」(=家族や親族への支援の労働)は注目すべき項目です。数か月前に「家族の介護をサポートする家族の働き」を、介護職に準じる評価をしてはという考えを紹介しました。それはその1つです。

主婦業(≒家事労働)はアンペイド・ワークの代表例でしょう。それをペイ労働とする方法はわかりませんが、社会的には必要不可欠なものです。社会を継続していく活動(社会の再生産)です。これを論拠に女性の結婚を強く勧めるものではありませんが、現状の働きの評価のしかたと考えてもいいでしょう。

少し将来が見えてきた気がしています。国民は①生産的場面(各種の広範なサービス産業を含む)で働く人。②社会を再生産するために働く人(自然環境を守る取り組みも入る)。③心身状態において①②に該当しない人も、一部は障害者として、一部は役割を終えた人として処遇を受ける。そして④未来の社会を形成する新しい世代=子どもたち。これが私に見える将来社会の人口構成の姿です。

平井のカワヅ桜

2月14日、土曜日。午後の予定がキャンセルになり、近くのカワヅ桜の様子を見に行きました。団地の向こうに隠れていますが、自転車で1分もかかりません。雲の多い空模様ですが雲の間からの日差しは強く、温かく感じます。

土手を上がるとすぐに聞こえてきたのが意外にも中国語。満開ではなく三分ぐらいでしょうか。カップルが日傘の下で和風の正装で記念写真を撮っています。同行の専属カメラマンが注文を付け、見ると桜の枝をカメラの手元まで引き寄せて二人が一緒に写るように工夫しています。被写体の二人は私が全く疎い芸能人かもしれません。

人出は多くありません。数百メートル続く両側にいる人数は合わせて百人以下でしょう。土手を降り川辺の平地にある木製の机と椅子を使い記録を書くことに。私の場合は映像ではなく文章、地味ですね。

自転車で行き来するのはほとんどが近場にいる人、日本人中心ですがそれなりに国際色もあります。川辺に並ぶ団地からはインド系と思える母と兄妹の子どもが飛び出してきました。ヨーロッパ系の白人も通ります。カメラをセットしている人に聞いたらフィリピンと答えます。女性の多くが着飾っていると見えるのは写真を撮り、インスタグラムに挙げるからでしょう。

すぐ横を総武線が走り、その向こうに東京スカイツリーが見えます。水面に遊ぶのはミヤコドリでしょうか? ボートの練習風景はまだのようですがやがてこれらが同時に重なる場面もできるでしょう。2月の平井のカワヅ桜もかなり有名になってきたようです。月末にかけての満開時にはこの一帯が人であふれるほどになる予感がします。

対人関係が苦手に免疫機能が関係?

Ntくん(40代)から数か月ぶりに電話があり、1時間ほど話しました。B型作業所でコースターを作成し、月額1.5万円ほどの収入になります。作業自体に問題はないのですが、そこの職員との人間(関係)が耐えられなくなり、A型作業所へ移りたいと考えています。
移りたい理由のもう1つは収入が低いので増やしたい(現在は生活保護受給)です。それでも問題の中心は職員を含む人間(関係)です。ここを詳しく話しました。職員にいろんな事情を話すと、聞いているはずなのにそれを受け留めて何かが進むわけではない。たぶん職員には裁量を超えたもので自分の一存ではどうなるものではない事情があるのでしょう。
これへの対応は、あきらめないで一歩進む糸口を探してはくり返し要請すること。似た状況にある人と話し合ってできれば2人以上で“交渉”をすること、を勧めました。多くのばあい一人で立ち合い、これという動きを得られず徒労感を味わう経験を重ねているのです。
Ntくんとの話はさらに進みました。対人関係における自分の状態です。多くの面を話したのでその一部の紹介です。話すとき「ある事態を予測して身構える」ところが対人関係の出発点になっています。受ける相手はこれを感じて防衛的に受けようとするか、反撃的に受けようとするかのどちらか、場合によっては両方になります。要するに自然な人間との関わり方のスタートにはなりにくい——これはNtくんにとって(おそらく対人関係を苦手とする多くの人にとっても)、さんざん経験していることではないでしょうか。
対人恐怖とか社会不安という状態です。医療を受診してその範囲の診断を受けている人もいるでしょう。Ntくんとの話ではこれに関係したいろいろな場面での多くのことを話しました。
ただ私はこれらを話す一方で、あるひらめきがありました。“対人関係における免疫が不足している”ということです。子ども時代から親・親族との関係、幼児期から始まる同世代の子どもとの関わりがあります。多くの人はこれらを通して、対人関係におけるある種の安定性を得ます。いわば対人関係の免疫を身に着けていくわけです。
しかし、ある程度成長しても対人関係に不安感、ときには恐怖感や防衛の必要性を予測して身構えます。それは対人関係の免疫不足ともいえるでしょう。実際にこれが免疫機能と関係するのか? 一般的にはそこまでは考えなくてもいいのでしょう。しかし、乳幼児期に虐待を受けた人の胸腺が異常に縮小していること、そして胸腺が免疫機能に直接に関わっていることと結びつけて考えると、案外の結論が出るのではないか——と思い至りました。
対人関係不安、対人恐怖の遠因、もしかしたら直接の原因に幼児期の虐待の経験が胸腺の働きを左右し続けているのではないか?
Ntくんの話は約1時間、その以前のMnくんは46分、さらにその前のZiさんとの話は57分(電話に自動表示される)。1か月以内の長い電話を記録したらこうなりました。思い返すとこれら広義の“ひきこもり経験者”との話は比較的短い電話やメール連絡も含めて私の考える材料であり、その源泉になっています。

ひきこもりには“静かな反乱”の面がある

S.フロイトは『精神分析入門』のなかで書いています。「親は子どもに対して、親自身ができなかった内容を要求する」と。世の親ばかりではありません。教師は自分がその子ども時代にはできなかったことを生徒に要求し、行政者や政治家は自分にはできないことを住民や国民に要求することもあります。

YouTube動画を見ると別の高い基準が語られます。日本の清潔さは成田飛行場にはチリ一つ落ちていなくて床はいつもピカピカである。日本人の勤勉さや律儀な様子は「一糸乱れぬ交通秩序とか、休息を怠慢や悪と考える思考が完璧だ」とかとんでもない誇張が語られています。これらも達成したことのない状態を基準にして人の行動にあり得ない基準にされています。

これらがまずは感受性豊かな世代に緩やかなストレスや無力感を呼び起こしました。私は以前に、ニートやひきこもりは「自分が納得していない社会に適応を迫られ」その現状に対する“静かな反乱”という側面があると言ったことがあります(「ニート(若者無業者)に向きあう」2004年11月2日しんぶん赤旗)。

今回の「11月アンケート」の回答を読みながら、この面を考えざるをえません。言いかえますと、ひきこもり経験により生活面に困難を抱えた人には、その社会的対応の大幅な改善を求める一方、社会的ストレスの結果、ひきこもりという対応をしたことを積極的肯定的に受けとめようとするものです

2021年に『ひきこもり国語辞典』を発行した後、ひきこもり発生の社会的歴史的背景を考え、とくに1960~70年代の高度経済成長期の社会の変化が影響していると主張してきました。それをいくつかの面から解明を試みてきました。それをさらに広げて——というよりもより通俗的に知られている事情から説明し直してみよう考えています。

主に高度経済成長期の後に生まれた子ども達には、旧来の習慣ともいえる、しかも当時のさし迫った社会事情による「よい学業成績、よい学校、よい会社」とか、人に迷惑をかけない、よく働き、正しい行動をする、女性に対する良妻賢母の教え…といった旧態然とした道徳律の包囲網がつくられました。これは極端な表現ではありますが、生真面目で感性ゆたかな子どもにはとりわけ効果があったと思われます。そのなかに不登校やひきこもりの人たちが一定の割合で生まれた、と推測できるのです。 そうすると不登校やひきこもりは、不当な包囲に対する抵抗、すなわち静かな反乱という姿が見えてくるのではないですか。「11月アンケート」の回答の中途まとめをしながら、一人ひとりの相談のなかでこの考えをどう返していくのかを考えています。とはいえ自身のひきこもりで悪戦苦闘していない人もいて、わりと静かにすごしているわけで、そういう人たちはたぶん“反乱”の気分は少ないでしょう(?) ここも考えどころです。

日本語表現の1つの特色の評価のしかた

YouTube動画に日本語表現法の1つに「AI(人工知能)でも困難といわれていること」ができると紹介されるものがありました。その感想です。

(1)「~ている」にの言い方の2種類。

「子どもが走っている」=動作の進行を示す。 「窓が開いている」=結果の状態を示す。同じ「~ている」で進行・結果・習慣を1つの形式で表現する文法です。英語では、「is running」と「is open」と区別しますが、日本語では同じ形式2つを表現します。

(2)方向・距離を感じる

「~てくる」と「~ていく」として、「赤い炎が大きくなる」を2つの言い方、「赤い炎が大きくなってくる」と「赤い炎が大きくなっていく」表わします。日本語を使う人は83%が「赤い炎が大きくなってきている」を「変化が自分に向かってくるもの」と認識しているといいます。英語(アメリカ)と中国語(中国人)は「大きくなっている」の認識ではあるが、方向性は認められないといいます。日本語では「時間を流れととるだけでなく、向きと距離感を感じとっている」としています。

(3)上の2つの能力の取得の時期は、日本人は3歳ぐらい(国立国語研究所)であるのに対し、英語圏の人が「ingを理解するのは5歳くらい」といいます。「日本の子どもは文法を学んでいるのではなく、世界の見方を学んでいる」=これはある日本人学者の評価です。

動画ではこれを総合して、日本語を自然に話すこととは「①時間を流れとして感じ、②変化を距離として測り、③感情を言葉に織り込む」とまとめています。③の個別の説明はありません。そしてこれら全体は「AIでも困難といわれること」とまとめています。

私の感想は、これは日本語の特徴・特質であると思いますが、日本語の優位性とは考えません。TPOによっては有利に働くこともあれば不利に働くこともあるという意味です。 レヴィ・ストロース(Levi-Strauss フランスの文化人類学者)は構造主義の代表者として知られ、日本文化の特質を高く評価しています。私も30代ぐらいから彼の、特に未開人や途上国に関する論を読み勇気づけられた記憶があります。先の日本語の特質はレヴィ・ストロースが述べたものではありません。文化のある一面の特色・特質をその文化を担う人の優位性を示すものではないと理解する大事さを彼の説明から感じてきました。物事の一面を知る手がかり、とくに低位に置かれた状態の人の文化面を評価する視点として受けとってきたように思います。今回の一説もこれに加わるものです。  

2月11日(水・祝)の臨時相談会

会報により2月11日(水・祝)に臨時相談会をお知らせしました。場所は新小岩地区センター、午後1時~3時です。3組の予約があります。相談時間帯が合わないので別に個別に相談する約束もしています。親との相談ですが28~34歳の比較的若い人に関することが特徴だと思います。平井・新小岩地域でのこのような相談会を続ける必要を改めて確認しています。3月にも相談会を予定したいと思いますので、電話・FAX・メールで連絡をください。
◎ 臨時相談会=2月11日(水・祝)13:00~15:00 場所:葛飾区新小岩地区センター(JR新小岩駅南口から5.6分)活動室、参加費500円。
◎ 連絡先:電話03-5875-3730、FAX03-5875-3731、メールopen@futoko.info

家事とは家族内ケアを含むもの

「11月アンケート」は、開始間もなく内容に不十分があると悟り改訂を行いました。改訂の中心は「家事」の項目を追加したことです。それは2つの分野あり、家事労働と家族内ケアです。しかし、対象とするひきこもり経験者には結婚している人が少なく、改訂して得た回答はあまり役に立ちませんでした。私は、家族関係の大きな変化が、ひきこもり発生の重要な背景にある事情という仮説をもっています。こういう視点から改訂に家事労働を持ち込み、そして空振りに終わったわけです。
問題に立ち戻るためいくつかの先行研究を読みました。その先行研究はひきこもりを視野に入れたものではありません。藤田朋子「無償労働のなかの「見えない」家事——夫婦の家事分担調査からの検証」、久保桂子「共働き夫婦の家事・育児分担の実態」(日本労働研究雑誌)の2つへの感想から始めましょう。「感想」となるのは、具体的な内容記述に入る以前のところで、より重要なことに気づいたためです。研究の具体的な内容は夫婦の間での家事分担になるのですが、「家族内ケア」に関する部分はほぼありません。
しかし、「家族内ケア」についてもひきこもり(不登校)になる人(子ども)の家族関係を通しても1つの要件を確認できます。私が不登校情報センターを始めのたのは不登校の子をもつ親の相談からでした。それにつづいて不登校やひきこもりの経験者が集まる居場所の運営です。
初めの親の相談とは何でしょうか? 間違いなく「子育て」の一部、少なくともその延長です。相談に来る9割方は母親です。父親単独は5%未満、夫妻一緒が1割ほど、子どもと母親が一緒という例も少しあります。これが肌感覚での相談者の分類割合です。この相談に来る人が費やす部分は「子育て」の一部になりませんか? 居場所の運営は家族から見れば外部施設の取り組みになります。
先の2つの論文で対象にしている「子育て」は基本的に小学校入学以前の子どもを対象にしています。しかし子育ては、子どものそれ以降の小学校も中学校も、高校時代も入るでしょう。
ここで問題を一区切りすれば、「子育て」とは学齢期以前の子どもの「子育て」に制約されないことです。それは子どものための学校との関わり、参観日や学校行事への参加なども含まれるのです。学校以外にも、保健所や自治体等との関わりも入れて考えるべきものです。時間に着目した言い方では、それに費やす時間も子育て時間なのです。
第二は「子育て」を含む「家族内ケア」という視点が必要です。子育ての延長には病気等への対応が1つ。それ以外に障害者であればそのケアも必要です。夫を含む家族全体へのケアも含まれます。家庭外にある医療・リハビリ機関からの支援があっても家族内ケアの部分は欠かせません。
そして最大の空白は高齢者家族への介護です。これは家族としては別世帯になっていても生まれますし、同世帯(三世代家族)であっては避けられません。この部分を家族内ケアとして含まなくては、問題を縮小してみることになります。介護は昔からあったものですが、人口の高齢化に伴ってその部分が大きくなってきました。家族の存在が人間社会の継続に欠かせないと認める限り、介護を家族内ケアとして認めなくてななりません。介護退職やヤングケアラーが社会問題化しているのはここに関係します。
先に挙げた2つの論文は夫婦間の家事分担の具体的な様子を分析しており、私には1960~70年代の日本の高度経済成長期により変化したことが、子どもの不登校やひきこもりの背景事情にあると仮説にしたものです。2つの論文はその夫と妻、すなわち男女の家事分担(家事労働・家族内ケア分担)の現実の不完全さ・不十分さを明らかにしたものです。この家事分担の途中経過(不十分さ)については別の説明になります。

2月の親の会に向けて

昨日の「ひきこもり後遺状態のある人への対応」は1月17日のセシオネット親の会で話されたことを感想として書いたものです。当日は親2名、当事者4名、それに松村さんと松田の8名が参加していました。この話を私式にとらえるのがいいかどうかは、必ずしも確証はありません。各方面からの異論が出たときどうなるのか頼りなさがあります。さらに意見の積み重ねが必要でしょう。

親の会に当事者が参加する意味・役割とは何でしょうか? 当事者が体験を通して感じたことを話す、それを否定されずに聞いてもらえる場ではないでしょうか。それは肯定とは同じでないかもしれません。それでも否定や攻撃を受けるものではないでしょう。ある当事者と24日に話しているときに言われたことです。すると親の会は当事者にとっては居場所(体験を昇華する場)になるかもしれません。この数か月続いている親の会に当事者が参加している状態は、これが1つの結論、1つの可能性とも言えます。

参加している親にとってはどうでしょうか。ここで私の意見提示は控えたいと思います。出席する親から実感ある意味を話してもらいたいからです。現在のセシオネット親の会に参加する親の子どもの多くは“不登校・ひきこもりから卒業”しています。それでもこの会を続ける意味はあると思います。1つは、「ひきこもり経験者が安心して生活できる社会」を考えることになるからです。しかし今回これ以上は言わないでおきましょう。参加する親からの実感ある話を聞きたいと思うからです。参加を待っています。

☆2月のセシオネット親の会

セシオネット親の会の定例会は毎月第3土曜日、午後2時~4時です。2月21日(土)14:00~16:00 ★曜日・時間に注意。場所は助走の場・雲:新宿区下落合2-2-2 高田馬場住宅220号室。高田馬場駅から5,6分のところです。参加等の連絡は、松村淳子さん(090-9802-9328)までお願いします。

ひきこもり後遺状態のある人への対応

40~50代のひきこもり経験者で、現在も通常の就業をしていない3人の男性の話になりました。以前の、20代から30代の中ごろまでの年代では、今後の生活について考えることもありましたが、最近はそうではなくなったといいます。
今日一日をどうする、せいぜい数日どうするのかを考えるので精一杯になっています。この状態は(個人差もある感覚ですが)無理だとわかった、諦めた、事態を受け入れている、ジタバタしても徒労になるのがわかる…という精神状態といえばいいでしょうか。私自身が80歳になっており、過大な将来計画を考えることがなくなっているので似たところがあるかもしれません。
3人とも日々の衣食住に困窮しているわけではありません。外見的には一般社会人として町中を歩いており、平穏な生活をつづけています。
「11月アンケート」の回答のなかで、「2 部分的社会参加している人の様子」と「3 ほとんど働いていない人の様子」の該当者を参考にしながら、私の考えたことを、対応方法をまとめました。
これまでの過程で、自分で生活費を得られる状態になかった。親の援助、社会福祉の援助を受ける状態で今の状態になっています。親が居なくなったら、社会福祉援助を受けられなくなったら…と頭を悩ます事態に疲れてしまったといえるでしょう。ともかく今はほぼ毎日の生活ができている。ほっと一休みしている。つもりですが、その一休みが延々と続く可能性もどこかで受け入れているのです。
ひきこもりの「8050問題」の一面には、このような状態にある人が少なからずいる…と私は想定しています。少なくとも「11月アンケート」の回答にはそれを思わせる人が一定の割合でいるのです(「アンケート集計の部分報告」を参照)。
私はこの人たちを社会参加だ、いや何らかの形で就労に結びつける必要がある、という気持にはなれません。そういうスタンスで向き合えば対応できる人もいるのも確かです。しかしその方法を優先するのは的外れの気がするのです。私はこの人たちの平穏を社会的に受け入れる状態を続けるのが基本になると考えます。
私はこの根拠を次のように考えます。
(1)この状態は当人の怠惰・怠慢によるものでないこと。
(2)それを反対面からみれば意志や努力では成し遂げられない高い壁によって妨げられていること。
(3)これは当人が高い潜在的可能性をなお保っており、それがいつどのような形で開花するのかは予測できないこと。
(4)それは医学、心理学、社会学等の人間にかかわる科学に新たな視点を持ち込むと期待できること。
(5)それは文明国の条件である人間の最も基本的な人権に属すること。
それは国民感情の中にある困っている人を追い込まない取り組みを、それぞれの人、集団グループ、地域の状況に応じて広げることです。例えば1万か所を超える子ども食堂の取り組みはそのようなものではないでしょうか。それぞれの人が自分にできることで関与する方法です。
貧困、障害、自然災害…に遭っている人を自然な感情にそって、出来ることをする、出来ることを広げる、いわば国民の下からの取り組みです。それをベースにして、公(おおやけ)が下支え援助をする。公共施設の利用、食料支援、エネルギー支援を住民と公共で手助けする——子ども食堂の取り組みは、一律の基準によるのではなく、それぞれに応じてすすめていますが、それと同様です。
固定的な制度として上から指令するものではなく、国民の自然な動きを受けて柔軟に対応する制度として確保しながら見本を更新しつづけるものです。それら多分野に及ぶ多様な取り組みを全体としてすすめる——それは結局、日本社会を日本国民の気質にあうように平穏に、つくっていくことになると思います。