40~50代のひきこもり経験者で、現在も通常の就業をしていない3人の男性の話になりました。以前の、20代から30代の中ごろまでの年代では、今後の生活について考えることもありましたが、最近はそうではなくなったといいます。
今日一日をどうする、せいぜい数日どうするのかを考えるので精一杯になっています。この状態は(個人差もある感覚ですが)無理だとわかった、諦めた、事態を受け入れている、ジタバタしても徒労になるのがわかる…という精神状態といえばいいでしょうか。私自身が80歳になっており、過大な将来計画を考えることがなくなっているので似たところがあるかもしれません。
3人とも日々の衣食住に困窮しているわけではありません。外見的には一般社会人として町中を歩いており、平穏な生活をつづけています。
「11月アンケート」の回答のなかで、「2 部分的社会参加している人の様子」と「3 ほとんど働いていない人の様子」の該当者を参考にしながら、私の考えたことを、対応方法をまとめました。
これまでの過程で、自分で生活費を得られる状態になかった。親の援助、社会福祉の援助を受ける状態で今の状態になっています。親が居なくなったら、社会福祉援助を受けられなくなったら…と頭を悩ます事態に疲れてしまったといえるでしょう。ともかく今はほぼ毎日の生活ができている。ほっと一休みしている。つもりですが、その一休みが延々と続く可能性もどこかで受け入れているのです。
ひきこもりの「8050問題」の一面には、このような状態にある人が少なからずいる…と私は想定しています。少なくとも「11月アンケート」の回答にはそれを思わせる人が一定の割合でいるのです(「アンケート集計の部分報告」を参照)。
私はこの人たちを社会参加だ、いや何らかの形で就労に結びつける必要がある、という気持にはなれません。そういうスタンスで向き合えば対応できる人もいるのも確かです。しかしその方法を優先するのは的外れの気がするのです。私はこの人たちの平穏を社会的に受け入れる状態を続けるのが基本になると考えます。
私はこの根拠を次のように考えます。
(1)この状態は当人の怠惰・怠慢によるものでないこと。
(2)それを反対面からみれば意志や努力では成し遂げられない高い壁によって妨げられていること。
(3)これは当人が高い潜在的可能性をなお保っており、それがいつどのような形で開花するのかは予測できないこと。
(4)それは医学、心理学、社会学等の人間にかかわる科学に新たな視点を持ち込むと期待できること。
(5)それは文明国の条件である人間の最も基本的な人権に属すること。
それは国民感情の中にある困っている人を追い込まない取り組みを、それぞれの人、集団グループ、地域の状況に応じて広げることです。例えば1万か所を超える子ども食堂の取り組みはそのようなものではないでしょうか。それぞれの人が自分にできることで関与する方法です。
貧困、障害、自然災害…に遭っている人を自然な感情にそって、出来ることをする、出来ることを広げる、いわば国民の下からの取り組みです。それをベースにして、公(おおやけ)が下支え援助をする。公共施設の利用、食料支援、エネルギー支援を住民と公共で手助けする——子ども食堂の取り組みは、一律の基準によるのではなく、それぞれに応じてすすめていますが、それと同様です。
固定的な制度として上から指令するものではなく、国民の自然な動きを受けて柔軟に対応する制度として確保しながら見本を更新しつづけるものです。それら多分野に及ぶ多様な取り組みを全体としてすすめる——それは結局、日本社会を日本国民の気質にあうように平穏に、つくっていくことになると思います。