近代科学を超える批判的な立場ー2の7

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『臨床の知とは何か』のなかで私がピックアップした近代科学の成果と限界です。
「近代科学によって捉えられた現実とは、基本的には機械論的、力学的に選び取られ、整えられたものにすぎないのではなかろうか。もしそうだとすれば、近代科学の〈普遍性〉と〈論理性〉と〈客観性〉という三つの原理はそれぞれ、何を軽視し、無視しているのだろうか。それらは、なにを排除することによって成立しえたのだろうか」(7ページ)。
占星術や錬金術の自然哲学を原因結果的な近代科学の方法に発展させる過程で、生命現象のような取り扱いにくいものは無関心になり、数式化できるものが優先されてきました。
物理学的な自然の発見者G.ガリレイは発見する天才であると同時に隠蔽する天才とされる。これはE.フッサールの言葉らしいですが、この隠された部分に近代科学が限界になる原因があるかもしれません。近代科学において生命科学も進んだことを否定するのではありませんが…。
どう明らかにするのか。ここでM.ポランニーが紹介されます。要点を抜き出すと…。
「(1)われわれは、自分たちのはっきり言えることよりも多くのことを知りうるし、事実している。(2)このような知識は、われわれの個人的な裏づけを持っている。(3)われわれの認識の枠組みの実在性と性格は、焦点的には捉えられず、われわれの行動のうちにただ副次的にあらわれる」(39ページ)。抽象的なのでわかりづらいのですが、ポランニーはピアノの習得と医学的診断を例にしたようです。
ポランニーの孫引きにあたるところ。「〈生きているものに関する事実は、無生物界の事実よりも高度に個人的である。それだけではない。生命(ライフ)のより高いあらわれに昇っていけばいくほど、生命を理解するためには、いっそう個人的な能力、いっそう立ち入った関与を含む能力、を行使せねばならなくなる。〉なぜなら、生命体の活動に関するわれわれの知識は、了解的な認識によらなければならないが、この場合それは非個人的な事実の用語では詳しく書けないからであり、そのギャップはより高等な生物になるに従っていっそう深まるからである」(42ページ)。
近代科学はこのような面倒なことを省いて進んできた、ということでしょう。このあと私にはわかりづらいページがつづき、なんとか読み進みました。ようやく終わりに近づいてある立場にたどり着きます。著者の中村雄二郎さんが打ち出しのが“臨床の知”です。
「狭い意味での医学的な臨床の知ではなく、近代科学の反省のもとに、それが見落とし排除してきた諸側面を活かした知のあり方であり、学問の方法である」(125-126ページ)。臨床の知は、「〈受動〉を大きく含んだもの、相互作用を含んだものであるため、それを生かした〈臨床の知〉は、もっぱら〈能動〉的な知、機械論を原型とする科学の知にくらべて定式化しがたく、モデル化しにくい」(132ページ)と断ったうえで構成原理を提示しています。
近代科学の普遍主義、論理主義、客観主義の3大特徴に対して、コスモロジー(宇宙論的な考え方)、シンボリズム(象徴表現の体場)、パフォーマンス(身体的行為の重視)がそれです。近代科学の批判はいろいろな方向からされていますが、これはその1つになるはずです。決して反科学ではありません。科学を踏まえ、その問題点を超えるのです。
このような立場からは数学式に並んで記述的な説明が多くなるように感じます。『内臓とこころ』は、この方法と相通じるものがあるかもしれません。

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