当事者の動き出した“きっかけ”をとらえなおす

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引きこもり経験者が集まる場に参加をしました。そこで経験者のいくつかの言葉を聞いて思い直したことです。
親の会などで当事者が体験を語ると、「引きこもりから抜け出したきっかけはどんなことでしたか?」という質問がよく出されます。回答はその人の個人的な事情にかかわることが多いように思います。
以前の私はその“きっかけ”という言葉に、一時的な軽い雰囲気を感じてあまり使う気にはなりません。その後“きっかけ”という言葉が頻繁に使われるうちに、自分でもちょっとしたエピソードに注目するようになりました。
そのなかで「引きこもっている子どもが反発したとき」は肯定的な面があると発見したのです。他にも親が病気になった、中学時代の友達と会った、就職情報誌を見てこれならできそうだと感じた、ネットゲームの相手に誘われて外出したなど、“きっかけ”レベルになる個人的な事情を考え直してみたのです。全体としてこれらの“きっかけ”は有効だと思います。しかし、一時的なことで終わるものも少なからずあります。その違いのヒントがあったのです。
今回はこれまでと違う言葉がありました。私がこれまで聞き逃していたのかもしれません。中学時代に不登校であった自分には高校への進学が“きっかけ”になったという人がいました。これは多数の不登校生が経験する一般的なことです。これまで私がしてきた企画にもそういうものは多いのです。もしかしたら「働きたい」という一般的なことも“きっかけ”になるかもしれません。
これら高校進学や就労は引きこもりを含む多くの人が感じるもので、脱出願望にもなります。それがストレートに引きこもりの多数に当てはまるとは思えません。本人にある種の条件が生まれたとき作用するのです。
ある種の条件とは「人の役に立ちたい」「自分を生かして社会につながりたい」「金を稼いで自立したい」「働けるものなら働きたい」という比較的共通する基盤が隠れていた状態から顔を見せるときです。それが一時的かもしれない現実の“きっかけ”に重なるとき、動きとして浮上するのではないか。
一時的かもしれない現実とは個人の事情にかなり左右されることです。興味・関心と一致する場合です。基盤と一時的な偶然が重なるときに動きやすい、そうとらえてみたのです。偶然なことを通して法則的な必然が貫徹するのです。

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