3月のセシオネット親の会に向けて

2月21日のセシオネット親の会は、母親2名、ひきこもり経験者3名、それに松村さんと彼女の“学友”1名、そして松田の合計8名でした。初めて参加のお母さんの話が大きなテーマになりました。30代の娘さんの自立への課題や娘さんの生活状況です。参加者の近況や社会状況、自分の体験からの意見などを出してもらいました。

親の会にひきこもり経験者が混じる状態が数か月続いています。1月の会報では「両者それぞれに得るところはあると思いますが、継続するには何かが足りません」として、特に心身の状態に課題を持つ人への公の制度づくりが必要になるとしてきました。以前に「ひきこもり経験者が安心して生活できる社会」と書いたことがあります。これがその続きになります。

「11月アンケート」はそれを具体的につかみ、まとめようとした意味もあります。アンケートの回答は順調に(?)返ってきたと思ったのですが、残念ながらこの1か月、40通を前に止まっています。ひきつづき回答を待っています。アンケート用紙を失くした、必要な方は連絡ください。お送りします。まとめるにしてもデータが不足しています。既にいただいた回答の中にあるもの(2月号=106号)に現在の状態や要望などを紹介しています。

◎アンケートに関連して、直接にあって話を聞く機会ができました。ひきこもり経験者と家族(親)と話す機会です。「8050問題」という言い方につられているのか40代以上の経験者の話がこの1~2年間多かったと思います。それだけではなく20代~30年代の比較的若い人の情報を聞く必要性を感じていたのですが、それが少し進みました。依然として「ひきこもり」であることのつらさ、困難、深刻性はあるからです。

この点は特に親側から聞く必要があると思います。当事者の“危機感”が長期的には以前とは下がって安定を感じる(?)―したがってその状態や意味をつかみづらくなっています。親の方は「8050問題」のところで「このままでいいか。心配や不安もあるけれども、どうするのか捉えづらい」―私が30歳前後のひきこもり状態の人との接触が減り、その様子を以前ほど聞く機会がなくなっています。「何か不安感が薄まっている、社会的状況がよくなっているのか、そんなことはないのか、あくまでも個人的な差ととらえられる範囲なのか」―ともかくこのようによく掴めなくなっています。
☆3月のセシオネット親の会
セシオネット親の会は3月21日(土)14:00~16:00
場所は助走の場・雲:新宿区下落合2-2-2 高田馬場住宅220号室。参加等の連絡は、松村淳子さん(090-9802-9328)までお願いします。

杉並区の介護職員補助支給について

東京都杉並区は区内の介護事業所で働く介護職員を対象に月額1万円の補助をすると発表しました。対象者は約4600人で、予算額は5億円といいます。
2000年代初めに介護保険制度がつくられ、介護施設が多くなりました。これは人口の高齢化とともに介護対象者が急増した状態に国・社会として対応するための制度です。それで20年余が経過したのですが、介護職員の給与が低いなども関係して人手不足が続いています。介護施設の運営は利用者(介護対象者と家族)の負担、介護保護制度による支給により支えられ、それでも職員の給与等は低い。その結果、施設の倒産や廃止が全国的に進み、公的制度としての介護福祉が制約されています。
杉並区の介護職員への給与補足はそこに充てられるものになります。予算案発表に当たり、「国の対策として全国的に行うべきものと考えるが、早急的な事態に区として主体的に取り組む」の主旨が述べられています。
介護は、私が考える「家族内ケア」の一部です。家族内ケアの対象である子育て(保育)などにつづいて介護も家族外の施設として広がったのがいろいろな種類の介護施設です。経済活動としてみれば広義のサービス業の一種でもあります。
ここに介護労働の価値を計る一つの尺度を当てられる可能性が高まってきました。公的サービス業として介護の価値基準が導入されれば、対比して家族内ケアとして介護にも準用される可能性があります。すでにそのような比較と測定は行なわれているでしょう。同時にそれは、介護の基本が市場経済の内に全体として収まっているために推量、推測部分、あるいは非公式セクターの部分が残されます。それを含めて介護と介護サービスを評価する動きも出てくるでしょう。
今回の杉並区の介護職員への補助はもう1つの面も気づかせてくれます。それは区(自治体)の政策執行の意志だけではなく財政事情にも左右されてくる点です。自治体予算の使い方は、区民の生活条件の向上(または困っている事態の改善)を目的とするものでしょうが、それは予算全体がどの程度の金額になるのか、どのように配分するのか、という面にも関わっています。
予算の全部を区民生活に直接に関わる所に向けるわけにはいかないでしょう。全体的な経済状況の発展、自然災害の防災や防犯という面も関係します。より大きな部分に目を向けると国の予算の使い方も関係します。国民生活の向上を第一とした、政治・経済全般を考えることになります。今回の選挙では、(福祉面へ“目を向ける”政治勢力の後退を感じます。勇ましい軍事的側面よりも国民への福祉の充実を願います。それが、最終的には各個人の個別の問題の改善につながるからです。そのつながりを細かく具体的に説明するのはそうたやすいことではありませんが、それが前提条件になっている面は見失わないでおきたいものです。

会報『ひきこもり周辺だより』発行の変更

不登校情報センターの会報の発行ペースを減らします。これまでの月刊(年12回)定期発行に代わり、年8回の不定期(3カ月に2回程度の発行)に減らします。誌代は8回分(約1年間)1000円とします。
基本的には郵便口座への振り込みでお願いします〔ゆうちょ銀行(個人口座)=10150-3 番号79391431 名義:マツダタケミ〕。
読者のみなさまからの投稿をまっています。自身の近況や、ひきこもりに関するニュースなどへの感想などです。支障がなければ、不登校情報センターのサイトのどこかに転載します(転載を避けたい方はその旨連絡してください)。

3月10日(火)夜に臨時相談会

2月の臨時相談会と個別の相談により30歳前後の人の様子が少しわかってきました。それで3月もまた同じようにします。
臨時相談体は3月10日(火/ウィークデイ)夜6時~9時に臨時相談会を行います。会場は平井駅から近い江戸川区平井コミュニテイ会館です。なるべく予約をしてください。参加費500円。
相談会の時間に都合のつかない方とは個別にお会いして話を聞きたいと思います。松田の都合は火木土曜日の午後から夕方の時間を取りやすいですし、場所は私の方から出向き、喫茶店やカラオケルームなどを考えています。基本は親側との話ですが、親子一緒にできる場合もあっていいでしょう。

対人不安感は免疫力不足ではないが…

免疫が外から入る異物ではなく、自分の体内にある臓器等を外から入る異物と間違えて反応してしまうこと——それが膠原病などの自己免疫疾患です。その種類は多様であると知られていますが、省略します。関節リウマチなどかなり難しい病気が知られています。

ちょっと横道にそれます。医学が進み臓器移植が発展しました。例えば肝臓の機能が働かなくなった人が、他の人の肝臓(の一部)をもらい、自分の体内に肝臓を移植するのも臓器移植の1つです。他の人の肝臓はその人には異物であり、免疫が働くことにより、拒絶反応をひき起こしやすくなります。拒絶反応を緩和して、肝臓移植をした人の副作用を抑えるようにするのも免疫機能のコントロールとなります。直系の家族への臓器移植が比較的適合しやすいのは、この「外から入る異物」がある程度抑止されやすいためです。

これらの免疫の働きをする細胞を成長させるのが胸腺です。胸腺でつくられるT細胞の働きが免疫です。自己免疫疾患を防ぐ働きをするT細胞の1つ制御性T細胞も胸腺でつくられます。制御性T細胞は他のT細胞よりも補助刺激分子と結びつきやすく、T細胞の活性化のブレーキをかけるなどバランスをとる機能をします。この働きには未解明の部分もあるようです。

私はここで大きな疑問にぶつかります。胸腺は乳幼児期に働きますが、成長とともに脂肪になり成人後にはほぼなくなります。胸腺が乳幼児期にもっていたT細胞の役割——外部の異物を取り除く働きとともに、自分の一部である臓器を外部からの異物として攻撃するのを防ぐ――胸腺は乳幼児期に成長するとともに、成長期を通して人体の他の個所にその機能を移し替えると推測できます。

その移し替えが上手くいかない人にいろいろな免疫疾患が発症しやすいのでしょう。そうでなければ胸腺は成人後にも人体で働きつづけてもらわなくてはいかないからです。ところが、胸腺は成人後には消失しているのです! 免疫の働きのなかの一つ、外から入る異物に対処しようとするときに「待った!」と働くT細胞は、どこあるのか、あるいはどこにその代役を置いているのか。なぜその代役がないのか。代役がないことや免疫力が弱いことが、その人の免疫力に支障を与えているのです。ここは私にとっては謎のままです。

さて私は「成人後のひきこもり状態」の人には、かなり多くの割合で乳幼児期にマルトリートメント(不適切な養育)を受け、継続的なストレス体験、虐待経験を受けていると想定しています。少なくとも私の関わった成人後に長期のひきこもり経験者には、このような人が少なからずいます。彼ら彼女らの幼児期の話をきいて確信できます。それが全部とはいわないまでも、ひきこもりに至る中心的な背景理由であると思います。

多くの当事者がその虐待の実相を表現できるのではありません。乳児期の記憶自体がないためかもしれません。自分の両親に関するので、あからさまな非難を向ける言葉ではありません。少数の人が自分の受けた・体験したこととして話します。女性の方がより細かく具体的に話します。男性は外形的な言い方が多いと思います。「ひどい目にあった」とか「あいつ(父)とは20年話したことがない」という形の話し方です。

成人後のひきこもり(顕在化した時期は人によりますが、多くは思春期以降)の人たちを免疫力という視点からみるとどうでしょうか。私は彼ら彼女らが示す対人関係の不安、社会不安の原因になっていると推測します。人と接するときに「自分はここにいていいのか」「ここにいることは誰かの迷惑になるのではないか」…という自然にわき出す感情や感覚、人に対するときにごく当たり前に身構える心身の働きです。これらは自分が人に対面する場に置かれたときに表面化するもので、それらは免疫の働きの弱さによるものではないか…と考えてしまうのです。

この過程には親子間の親密な関係の不足、愛着体験の欠如も関係するでしょう。これらは幼児期にうまく成長し働くようになるのを阻まれた胸腺の働きの弱さに要因が重なっているのではないか。ひきこもりという対人関係の不安、社会不安のベースには免疫が成長後も身体のどこにも移されていない、あるいは幼児期にその機能の成長を阻止されたまま成人後に表面化している姿ではないか。どれかを確定的にいうことはできませんがそのいずれか、またはそれらの複合によるのではないかと推測します。

「根拠のない楽観性」とは、ひきこもり経験者の集まる居場所で聞かれる言葉です。この「根拠のない楽観性」は成人後に胸腺で成長した免疫機能を身につけた人が持つ感覚ではないか? この世に生まれてきたことを温かく迎えられている経験の蓄積が、「根拠のない楽観性」を生み出している根拠であり、それは免疫の働きによって説明できるのではないか。一言で言えば、免疫力の不足が成人期以降のひきこもりの要因という仮説になります。

ここまで書いてきて、はたと戸惑います。免疫とは「自身の外から入る異物」に対する防衛反応です。私が考えてきたことは胸腺の働き、それがうまく働かなくなっているので免疫の働きが十分ではないという話です。成人の胸腺は縮小しています。言い換えるなら幼児期に働く胸腺が上手く機能しなかった人の成人後の胸腺に置き換わる免疫機能の問題、あるいは幼児期に胸腺機能が働かなくて成人になった人の問題なのでしょうか? 免疫の働きというよりも胸腺のもつ機能として考えるテーマかもしれません。引きつづき課題になります。

児童精神科医の友田明美さん(福井大学)は、乳幼児へのマルトリートメントに対して乳幼児は脳を変形させて対応しようとしたことを実証し説明しました。私は乳幼児へのマルトリートメントは乳幼児の胸腺の働きを抑制して免疫機能を妨げているのではないかと提起したことになります。

社会再生面からみる人口構成

私が今住む家に引っ越して間もなく8年になります。前のここよりも広いアパート時代に作業する居場所に来ていた数人が、働き場を見つけていき、居場所の役割はほぼなくなり、小さなスペースがあればよかったためです。

それから約8年、私はほぼ毎日、主に朝に“仕事”をしています。学校休日の校庭開放と始業前の早朝見守り、それに週3回地域内でのメール便を配達しています。配達はほぼ午前で終わります。何もせずじっとしているのが大の苦手な性分なので、これらの“仕事”があるのは生活リズムとしては好都合です。

前田信彦「高齢期における多様な働き方とアンペイド・ワークへの評価——男性定年退職者の分析」(国立女性会館研究紀要.2003年8月.7巻)を読みました。はじめの関心はアンペイド・ワーク(非支払い労働)としての家事労働・家族内ケアを考える材料として読み始めたのです。その論の中に「定年は高齢期の多様なライフコースへの『分岐点』と捉える」としている点が気になりました。

この見方は長期のひきこもりの人が、20代後半~40代にかけて「ひきこもり生活状態」から、非正規のアルバイトなどの社会的活動に入ること、女性が結婚して新しい生活をはじめることも、「ライフワークの『分岐点』ととらえられる」と考えたのです。高齢者の退職が「社会から半歩退く」とすれば長期ひきこもりの人は「社会への半歩進出」、人によっては「社会参加」の形といえるでしょう。

退職男性において「社会から半歩退いた状態」はいくつかに分かれます。欧米の社会学者の研究を引用して「ペイされる労働のほか、ボランティア労働、家族や親族への支援の労働(relatives time)、自助活動(self-help work)など、支払いのない労働(unpaid work)を取り上げ、引退期の仕事のキャリア・パスにジェンダー差のあること」を挙げています。

前田さんの論の中心部分はまた別にして、私はこれらの支払いのない労働を考えてみたいのです。GDPにカウントされる活動セクターでは、これらは「0(ゼロ)」評価です。しかしそれは社会的に有用であり、ときには不可欠な活動です。それはGDP基準による社会評価の限界を示すのですが、GDPに代わる(少なくとも補足する)何らかの評価基準を導入すべきではないかと思います。

それはGDP基準のセクター(企業社会の商業取引、政府系の予算支出など)とは別ものになります。いくつかの自治体・政府系の取り組みに、特に「子育て/少子化対策」——「家族や親族への支援の労働の1つ」として認められますし、種類(項目)も増えています。これらはGDPにも算入され、金額に換算されます。推測ですが「家族内ケア」に関することは、政府・自治体の施策として徐々に増えていき、GDPにカウントされそうです。では「家族内ケア」の全部がそうなっていくのか? それはかなりかけ離れています。この問題の今回はここまででとめます。

次に、長期ひきこもり状態にいる人に対しては、心身の状態で可能な範囲で、「社会への半歩前進」になるようにすすめます。その際、男女に関わらず、「家族内ケア」(=家族や親族への支援の労働)は注目すべき項目です。数か月前に「家族の介護をサポートする家族の働き」を、介護職に準じる評価をしてはという考えを紹介しました。それはその1つです。

主婦業(≒家事労働)はアンペイド・ワークの代表例でしょう。それをペイ労働とする方法はわかりませんが、社会的には必要不可欠なものです。社会を継続していく活動(社会の再生産)です。これを論拠に女性の結婚を強く勧めるものではありませんが、現状の働きの評価のしかたと考えてもいいでしょう。

少し将来が見えてきた気がしています。国民は①生産的場面(各種の広範なサービス産業を含む)で働く人。②社会を再生産するために働く人(自然環境を守る取り組みも入る)。③心身状態において①②に該当しない人も、一部は障害者として、一部は役割を終えた人として処遇を受ける。そして④未来の社会を形成する新しい世代=子どもたち。これが私に見える将来社会の人口構成の姿です。

平井のカワヅ桜

2月14日、土曜日。午後の予定がキャンセルになり、近くのカワヅ桜の様子を見に行きました。団地の向こうに隠れていますが、自転車で1分もかかりません。雲の多い空模様ですが雲の間からの日差しは強く、温かく感じます。

土手を上がるとすぐに聞こえてきたのが意外にも中国語。満開ではなく三分ぐらいでしょうか。カップルが日傘の下で和風の正装で記念写真を撮っています。同行の専属カメラマンが注文を付け、見ると桜の枝をカメラの手元まで引き寄せて二人が一緒に写るように工夫しています。被写体の二人は私が全く疎い芸能人かもしれません。

人出は多くありません。数百メートル続く両側にいる人数は合わせて百人以下でしょう。土手を降り川辺の平地にある木製の机と椅子を使い記録を書くことに。私の場合は映像ではなく文章、地味ですね。

自転車で行き来するのはほとんどが近場にいる人、日本人中心ですがそれなりに国際色もあります。川辺に並ぶ団地からはインド系と思える母と兄妹の子どもが飛び出してきました。ヨーロッパ系の白人も通ります。カメラをセットしている人に聞いたらフィリピンと答えます。女性の多くが着飾っていると見えるのは写真を撮り、インスタグラムに挙げるからでしょう。

すぐ横を総武線が走り、その向こうに東京スカイツリーが見えます。水面に遊ぶのはミヤコドリでしょうか? ボートの練習風景はまだのようですがやがてこれらが同時に重なる場面もできるでしょう。2月の平井のカワヅ桜もかなり有名になってきたようです。月末にかけての満開時にはこの一帯が人であふれるほどになる予感がします。

対人関係が苦手に免疫機能が関係?

Ntくん(40代)から数か月ぶりに電話があり、1時間ほど話しました。B型作業所でコースターを作成し、月額1.5万円ほどの収入になります。作業自体に問題はないのですが、そこの職員との人間(関係)が耐えられなくなり、A型作業所へ移りたいと考えています。
移りたい理由のもう1つは収入が低いので増やしたい(現在は生活保護受給)です。それでも問題の中心は職員を含む人間(関係)です。ここを詳しく話しました。職員にいろんな事情を話すと、聞いているはずなのにそれを受け留めて何かが進むわけではない。たぶん職員には裁量を超えたもので自分の一存ではどうなるものではない事情があるのでしょう。
これへの対応は、あきらめないで一歩進む糸口を探してはくり返し要請すること。似た状況にある人と話し合ってできれば2人以上で“交渉”をすること、を勧めました。多くのばあい一人で立ち合い、これという動きを得られず徒労感を味わう経験を重ねているのです。
Ntくんとの話はさらに進みました。対人関係における自分の状態です。多くの面を話したのでその一部の紹介です。話すとき「ある事態を予測して身構える」ところが対人関係の出発点になっています。受ける相手はこれを感じて防衛的に受けようとするか、反撃的に受けようとするかのどちらか、場合によっては両方になります。要するに自然な人間との関わり方のスタートにはなりにくい——これはNtくんにとって(おそらく対人関係を苦手とする多くの人にとっても)、さんざん経験していることではないでしょうか。
対人恐怖とか社会不安という状態です。医療を受診してその範囲の診断を受けている人もいるでしょう。Ntくんとの話ではこれに関係したいろいろな場面での多くのことを話しました。
ただ私はこれらを話す一方で、あるひらめきがありました。“対人関係における免疫が不足している”ということです。子ども時代から親・親族との関係、幼児期から始まる同世代の子どもとの関わりがあります。多くの人はこれらを通して、対人関係におけるある種の安定性を得ます。いわば対人関係の免疫を身に着けていくわけです。
しかし、ある程度成長しても対人関係に不安感、ときには恐怖感や防衛の必要性を予測して身構えます。それは対人関係の免疫不足ともいえるでしょう。実際にこれが免疫機能と関係するのか? 一般的にはそこまでは考えなくてもいいのでしょう。しかし、乳幼児期に虐待を受けた人の胸腺が異常に縮小していること、そして胸腺が免疫機能に直接に関わっていることと結びつけて考えると、案外の結論が出るのではないか——と思い至りました。
対人関係不安、対人恐怖の遠因、もしかしたら直接の原因に幼児期の虐待の経験が胸腺の働きを左右し続けているのではないか?
Ntくんの話は約1時間、その以前のMnくんは46分、さらにその前のZiさんとの話は57分(電話に自動表示される)。1か月以内の長い電話を記録したらこうなりました。思い返すとこれら広義の“ひきこもり経験者”との話は比較的短い電話やメール連絡も含めて私の考える材料であり、その源泉になっています。

ひきこもりには“静かな反乱”の面がある

S.フロイトは『精神分析入門』のなかで書いています。「親は子どもに対して、親自身ができなかった内容を要求する」と。世の親ばかりではありません。教師は自分がその子ども時代にはできなかったことを生徒に要求し、行政者や政治家は自分にはできないことを住民や国民に要求することもあります。

YouTube動画を見ると別の高い基準が語られます。日本の清潔さは成田飛行場にはチリ一つ落ちていなくて床はいつもピカピカである。日本人の勤勉さや律儀な様子は「一糸乱れぬ交通秩序とか、休息を怠慢や悪と考える思考が完璧だ」とかとんでもない誇張が語られています。これらも達成したことのない状態を基準にして人の行動にあり得ない基準にされています。

これらがまずは感受性豊かな世代に緩やかなストレスや無力感を呼び起こしました。私は以前に、ニートやひきこもりは「自分が納得していない社会に適応を迫られ」その現状に対する“静かな反乱”という側面があると言ったことがあります(「ニート(若者無業者)に向きあう」2004年11月2日しんぶん赤旗)。

今回の「11月アンケート」の回答を読みながら、この面を考えざるをえません。言いかえますと、ひきこもり経験により生活面に困難を抱えた人には、その社会的対応の大幅な改善を求める一方、社会的ストレスの結果、ひきこもりという対応をしたことを積極的肯定的に受けとめようとするものです

2021年に『ひきこもり国語辞典』を発行した後、ひきこもり発生の社会的歴史的背景を考え、とくに1960~70年代の高度経済成長期の社会の変化が影響していると主張してきました。それをいくつかの面から解明を試みてきました。それをさらに広げて——というよりもより通俗的に知られている事情から説明し直してみよう考えています。

主に高度経済成長期の後に生まれた子ども達には、旧来の習慣ともいえる、しかも当時のさし迫った社会事情による「よい学業成績、よい学校、よい会社」とか、人に迷惑をかけない、よく働き、正しい行動をする、女性に対する良妻賢母の教え…といった旧態然とした道徳律の包囲網がつくられました。これは極端な表現ではありますが、生真面目で感性ゆたかな子どもにはとりわけ効果があったと思われます。そのなかに不登校やひきこもりの人たちが一定の割合で生まれた、と推測できるのです。 そうすると不登校やひきこもりは、不当な包囲に対する抵抗、すなわち静かな反乱という姿が見えてくるのではないですか。「11月アンケート」の回答の中途まとめをしながら、一人ひとりの相談のなかでこの考えをどう返していくのかを考えています。とはいえ自身のひきこもりで悪戦苦闘していない人もいて、わりと静かにすごしているわけで、そういう人たちはたぶん“反乱”の気分は少ないでしょう(?) ここも考えどころです。

日本語表現の1つの特色の評価のしかた

YouTube動画に日本語表現法の1つに「AI(人工知能)でも困難といわれていること」ができると紹介されるものがありました。その感想です。

(1)「~ている」にの言い方の2種類。

「子どもが走っている」=動作の進行を示す。 「窓が開いている」=結果の状態を示す。同じ「~ている」で進行・結果・習慣を1つの形式で表現する文法です。英語では、「is running」と「is open」と区別しますが、日本語では同じ形式2つを表現します。

(2)方向・距離を感じる

「~てくる」と「~ていく」として、「赤い炎が大きくなる」を2つの言い方、「赤い炎が大きくなってくる」と「赤い炎が大きくなっていく」表わします。日本語を使う人は83%が「赤い炎が大きくなってきている」を「変化が自分に向かってくるもの」と認識しているといいます。英語(アメリカ)と中国語(中国人)は「大きくなっている」の認識ではあるが、方向性は認められないといいます。日本語では「時間を流れととるだけでなく、向きと距離感を感じとっている」としています。

(3)上の2つの能力の取得の時期は、日本人は3歳ぐらい(国立国語研究所)であるのに対し、英語圏の人が「ingを理解するのは5歳くらい」といいます。「日本の子どもは文法を学んでいるのではなく、世界の見方を学んでいる」=これはある日本人学者の評価です。

動画ではこれを総合して、日本語を自然に話すこととは「①時間を流れとして感じ、②変化を距離として測り、③感情を言葉に織り込む」とまとめています。③の個別の説明はありません。そしてこれら全体は「AIでも困難といわれること」とまとめています。

私の感想は、これは日本語の特徴・特質であると思いますが、日本語の優位性とは考えません。TPOによっては有利に働くこともあれば不利に働くこともあるという意味です。 レヴィ・ストロース(Levi-Strauss フランスの文化人類学者)は構造主義の代表者として知られ、日本文化の特質を高く評価しています。私も30代ぐらいから彼の、特に未開人や途上国に関する論を読み勇気づけられた記憶があります。先の日本語の特質はレヴィ・ストロースが述べたものではありません。文化のある一面の特色・特質をその文化を担う人の優位性を示すものではないと理解する大事さを彼の説明から感じてきました。物事の一面を知る手がかり、とくに低位に置かれた状態の人の文化面を評価する視点として受けとってきたように思います。今回の一説もこれに加わるものです。