日本語話者はひきこもり的心情に近づく⁽⁉)(感覚を伸ばす日本語⑥)

私はひきこもり経験者には、「感性が鋭い」という感覚をもっています。編集した『ひきこもり国語辞典』のはじめに、「人並み以上の感覚の鋭さと、人並みに近い社会性」としてひきこもりの特性を表示しました。もちろんこれは全体の様子を示したもので、個別的事情はいろいろなわけです。

それにしても、日本語を子ども時代から話している日本人は、全体として感性が強くなり、感覚的な把握が高くなるというのは一応の理屈として成り立つと思います。あえていえば、日本人はひきこもりに近づきやすい体質的・気質的特性をもった国民性があるといえるわけです。

実際にひきこもりを経験するには、その人の生きる時代環境や生育環境が関わるわけですから、「なりやすい」とはいっても数%の人たちがひきこもりを実際に経験するのです。

だから、心理的あるいは実質的・体質的な面から、要因をさぐるには、原因のいろいろな面に目を向けることになります。私はかなりの期間それをしてきたわけです。

しかしその後にもう半分、その人が生きてきた時代・社会的背景の関係から、ひきこもりの要因が説明できるのではないかと、取り組んできたことになります。

ここ数回、日本語に関することを書いてきました。私の関心の中心は「ひきこもり」にあります。日本語や言語学の世界に深く入っていくつもりはありません。言葉が、とくに日常的な言葉が、人間の感性や感覚に関わっており、それが感性・感覚に体質的から気質的に基づくこともそれを成長させている可能性を思うからです。そういう意味で、言葉とひきこもりは無関係ではありません。それを日本語の周辺にいる者としてノートしているわけです。

〔2025年11月13日〕

日本語は脳を活性化し情報量が大きい(感覚を伸ばす日本語⑤)

マルテン・シュミットというドイツの計算言語学者の日本語分析がYouTubeチャンネルにあります。私はこのチャンネル全体を正確に知るわけではありませんし、このYouTubeプログラムを全面信用しているわけでもありません。いくつかの論点に注目しましたので、その論旨を列挙してみます。

(1)日本語は、母音と子音が基本的に1対1で絡み合わさっている。

カ行(k+母音)、サ行(s+母音)…で「五十音」が成立。

実際には濁音のガ行(g+母音)、ザ行(z+母音)…、半濁音のパ行(p+母音)が加わります。

『この組み合わせは、それ以外の組み合わせ言語(子音が連続する言語)と比べると、「脳の言語活動分野が均等分散される」と研究されます。

音節分析では日本語は0.15秒で平均的で均一。

英語、ドイツ語、フランス語、中国語、韓国語、アラビア語など合計30言語では0.08秒~0.25秒の範囲で分散し、バラつきが大きい』といいます。

これは言語の脳の処理負担が少ないことに結びつくようです。

(2)日本語は漢字、カタカナ、ひらがなの文字体系

このような言語持つのは唯一の文字体系のようです。漢字は意味の核心を示し、カタカナは外来語や強調する言葉を示し、ひらがなは文法的要素を表わしています。漢字は表意文字(意味をもつ記号)でなり、3つの情報(絵であり、音であり、意味である)を含んでいます。

ひらがなのうち助詞(は、が、を、に、と)は単語と単語の関係を表わし、文の方向性を示し、語順が違っても意味は変わらない役割を持ちます。

「私は学校がおもしろくなく、友達もおらず、先生は好きではないので、不登校を続けています」

「私が不登校を続けているのは、学校がおもしろくなく、友達もおらず、先生を好きではないからです」

「私は、不登校を続け、友達もおらず、先生は好きではなく、学校はおもしろい所ではありません」

これらは、言語の文字表現における情報の階層化を実現しており、視覚的な情報圧縮ができる。“文章の斜め読み”ができるのはこれによります。

シュミットさんの分析では、日本語の特長として、主語の省略、敬語使用などが語られています。

主語の省略は、その前提として、会話の相手の表情、声の調子、文脈の総合的な処理する傾向によるもので、その状態把握には右脳と左脳を同時に活用させているといいます。

敬語は、尊敬語、謙譲語、丁寧語の3種があり、これは日本語が高度に対人関係を中心に発展させた体系と紹介しています。

何らかの異論もあるのではないかと感じられるのですが、追加して紹介しておきます。

MIT(マサッチュセッツ工科大学)のある研究では、「日本語は情報理論的に最も効率的な言語の1つ)といいます。単位時間当たり伝達できる情報量がきわめて高い理由とされています。

〔2025年11月12日〕

漢字とかなを混合する文字表記(感覚を伸ばす日本語④)

日本語の文字表記、すなわち漢字とカタカナ、ひらがなで構成される文字表記と、とくに漢字の読み方(発音)は複雑で、日本語を学ぶ人の難関として知られていています

文字表記にはこのほかにアラビア数字(1、2、3…)とローマ字(a、b、c)も加わるのですが、この説明は省きます。

鬼塚ちひろさんの曲にインソムニア(insomnia)というのがあります。日本語では不眠症、睡眠障害になるでしょうが、英語などで使われるインソムニア(insomnia)は元来は古典ギリシア語です。

インソムニアと聞いても何のことかわかりませんが(たぶん医学に通じない欧米系の人の多くもそうでしょう)、日本人には漢字を見ると不眠だけである程度の意味はわかります。これは漢字が表意文字によるからです。四字熟語——わかりづらいのもありますが、それでも何となく文字を見てわかるものも多くあります。

カタカナとひらがなは漢字の一部または草書体から生まれた表音文字です。日本人には当然のことなので説明は省きましょう。

“斜め読み”という読み方があります。一定の長さの日本文をたて書きなら右上から左下に、横書きなら左上から右下にかけて、一つの文章ではなくざっと見る方法です。これが可能(?)であるのは、文章内の漢字の並びを見れば、これはおおかた何について書かれたものであるかを知ることができるからです。

これは漢字が脳内では画像認識されるからと言われています。カタカナ・ひらがなは表音文字であり、文字列によって大意をつかみとることは困難ですが、漢字は表意文字であるが故に、ある程度可能なのです。

言いかえますと、日本語を読むとき、脳は右脳と左脳を同時に働かせているということになります。

どれだけ正確なのかの実証はよく知りませんが、日本語使用者のIQ(知的指数)が高いのは、この脳の働きが関係しているといわれます。

表意文字という漢字はまた、情報圧縮性をもつ、といってもいいでしょう。学術的論文でも、手紙でも、SNSに投稿される文章でも、この利便性は「文章が短い」ことに表れています。これを情報の圧縮性とみれば、AIの将来を与える意味は少なくないのではないでしょうか。

日本語表記は、

⑴、右脳と左脳の両方を使う——すなわち日本語活用者は日常から脳の活用を広く行っている。

⑵、AI(人工知能)の発展の将来をみるとき、情報圧縮力は有効な役割をもつ可能性があります。

オノマトペによる状態・動きの表現について(感覚を伸ばす日本語③)

オノマトペとは、擬態語、擬音語というもので、古典ギリシアの演劇に使われ始めたとされています。日本語にはその語がきわめて多く(一説では数千に達する!)、ものごとの様子を表わす形容詞的・副詞的役割をするものです。

「雨が降る」というのと「しとしとと降る」、「ザァーザァーと降る」、「ポツリポツリと降る」…英語で「Its rains」の降り方を具体的に仕分けして表わします。多くは「しとしと」「ザァーザァー」「ポツリポツリ」と2回くり返すことが多いのですが、そうではないものもあります。「桃が川をどんぶらこと流れてきた」という「どんぶらこ」もその様子を表わすオノマトペと考えられますが、2回くり返さなくても意味は通ります。川の流れにそって浮き沈みする様子を描いています。

日本語におけるオノマトペ表現の多さは、ものごとの様子を細かく具体的に直観的に表現します。これはものごとを感覚的に察知し細かく表わす日本語の特徴の1つとなっています。

すなわち日本語話者がものごとを繊細に感知する結果であり、また細かく表現しようとする原因になっているのです。「周囲の様子を感覚的・感受性ゆたかにものごとを細分化して表現する」日本語の特色はこうして生まれたものと思います。

その数はとても多くて、オノマトペ表現だけでものの形容およびそれを感知する日本語話者の感覚の鋭さを示しています。

さて次は私の仮説です。私の仮説の論拠となるものを見たことはなく、思いつきです。日本語の起源にあたる言語系統は、「不明」「謎」あるいは「特定できない」という論をいくつか読みました。確かにこれという決め手になるものは(少なくとも現在は)なさそうです。

私の仮説は、日本語の発生の起源にものごとの様子をその(聴覚による)音や動き(視覚による)を表わす日本列島に住み始めた人たちの音声が重要な役割をもっているのではないかと思います。多くの言語は、ものの名前(名詞)や動き(動詞)が重要な役割をもったと推測されているようです。それを否定する理由はありませんが、日本語においては、オノマトペ的なものの様子を表現する言葉が言語発生の始めから比較的大きな役割をもっていたのではないか。これが私の推測する仮説です。

たぶんオノマトペ的なものの表現は、とくに日本語においては現在も新たに発生しているのではないでしょうか?

オノマトペ表現によるものごとの様子の表現は、日本語話者による感覚的感性の鋭さを反映しているとみるのです

味覚表現にみる日本人の感覚の発達(感覚を伸ばす日本語②)

味覚を表現する日本語の言葉も多様です。YouTubeで紹介の1つは日本語では1000の味覚表現があると言います。
方言や無理やり感のある単語が加えられていると予想できます。
対する英語の味覚表現は4種、甘い(sweet)、辛い(salty)、すっぱい(sour)、苦い(bitter)ですが、これに旨味(うまみ、umami)が加わっています。
現在では味覚の基本はこの5種とされています。
最後の旨味を加えたのは、1908年ことで日本人化学者、池田菊苗さんがコンブ出汁からグルタミン酸ナトリウムを抽出し、これにより旨味が根拠づけられました。
これには後にカツオ節などでも確認されたようです。
味覚は特別の感覚かもしれません。
トンプソン博士(?)が味を感じる言葉の脳のMRI検査をしたところ日本語話者42種、英語話者9種、フランス語話者15種が区別されるといいます。
言語が人の感覚器官を変化させているのでしょうか。
日本人はで微妙な味覚の違いを、コク、まろやかさ、キレ、深み、ふくよかさ、えぐみ、舌ざわり、のどごし……などがそれです。
食に関するオノマトペで1000種に近いとされます。
「人間の脳は、言葉を獲得することでより細かな違いを認識できるようになる」といいます。
日本語は味覚に関する言葉を細かく多様化させることにより、味の違いを認識させてきたともいえるわけです。
どこまで信用できるのか根拠はわかりませんが、フランスの料理学校などでは調理師養成において、日本語の味覚表現を導入して、調理技術の向上を図っていると報じています。
前に、化粧品会社のフランス人が、日本人を雇用することで化粧品 の使用感の感覚表現を生かすことを述べました。
人間の五感(六感とも?)である、視覚、聴覚、味覚、触覚、嗅覚、(そして内臓感覚も)の繊細な発達は、日本人をして感覚に敏感な体質および気質を発展させたのではないか——推量の範囲としますが、状況証拠はいろいろあると思います。

親の変化とは考え方の幅を広げること

11月号の会報「寄り添って、話を聞いて、尊重する」の投稿文を読みながら、感じたことを2点書いてみました。

その2:親の変化とは考え方の幅が広がることです。

私が関わった範囲のことですが、親が変わるよりもひきこもり当事者が変わる方がはるかに大きく思えます。これには「寄り添って、話を聞いて、尊重する」で言うように親がその条件設定をすると上手くいくからです。だから親には可能なことをやってほしいわけです。そうしていくと子ども側はその想定する範囲を超えて進んでいきます。

そこを考えた私の結論は、親は経験がある分全体を変えるというよりは、考え方の幅を広げているのではないか。これまで身に着けた部分が完全になくなるのではなく、それの上書きするような型、新しさを示しつつもその人らしさが残っているではないかと思います。

他方では子ども側にはそういう既存の部分が少ないので全体が新しい姿に見えるのではないでしょうか。これを「親が変わるよりもひきこもり当事者が変わる方がはるかに大きい」と思えることの本質部分ではないか、と思っています。

親の話しを息子がよく聞くようになる秘訣

11月号の会報「寄り添って、話を聞いて、尊重する」の投稿文を読みながら、感じたことを2点書いてみました。
その1:
成人した息子はひきこもり生活を続けているがちっとも親である私の話をきこうとしない。そこで「どうすれば息子が話をきくようになりますか?」という率直な相談電話を寄せてくれた母親がいました。
家族会に参加するなどして親としてどうすればいいのか学んでいる。カウンセラーさんの話も聞いている。特に外出するようになった人の親の話は役にたちそうだ。その話を息子が聞けば何かの糸口になるのに違いない。それなのに息子はちっとも私の話をきこうとしない。それで「どうすればいいんでしょうか? どうして息子は私の役に立つはずの話を聞こうとしないんでしょうか?」と聞いてこられたのです。
私はこのお母さんの話が一段落したところで、答えました。「お母さんは息子さんの話をよく聞いてきたのですか?」。一瞬間が空きました。お母さんは何を言われたのかがわからなかったのではないかと思います。
自分は「息子が話をきくようにするにはどうすればいいのか」と聞いているのに「お母さんは息子さんの話をよく聞いてきたのですか」と問いかけられたのです。私の答えの意味がつかめず、一瞬の間は戸惑ったかもしれません。
この原則はきわめてシンプルです。「自分の話をよく聞いてくれる人に対して
その人の話も聞こうとする気になる」のです。とくに親子の間で子ども時代からそのような関係があれば、「どうすれば子どもは親の話を聞くのか」という問いは(例外はあるとしても)発生しないのです。
そうは言いながら私が常にそうできているわけではありません。次の予定がある、電話の場合は何かの作業途中である場合もあるのでやむを得ません。それでも条件があるときは2時間ぐらいの話になることはよくあります。
同じ家に住む親子の間では(いつもというわけにはいかないでしょうが)、こういう子ども側の話をよく聞くスタンスを続けていけば、いい話し合いになると思います。親の話も聞いてもらえますし、子どもの話もよく聞いてくれると思います。
短時間で「親が持ってきたいい話を息子がよく聞いてくれる」と思うところに無理があるのではないでしょうか。

フリースクール「虹の学園」のこと  

「親と子と教職員の相談室」発行の『教育相談室だより』が年3回発行されていて、その最近号を読んでいます。岩手県一関市に公立小学校の跡地に「虹の学園」が2024年4月に設立されその報告がありました。小中学の不登校の子どもたちの居場所ともいえるフリースクールです。

小中学生を対象としたものですが、居場所として私が暗中模索でとりくんできた不登校情報センターの居場所と重なる状況をいろんな局面で感じ取ることができました。

1つの例を挙げます。「子どもは生まれてからその行為行動は主体的なもので、それを肯定的に受けとめるか、否定的に受けとめるは周囲の大人たちの問題」、すなわち子どもの問題ではない。そこから子どもの意思の受けとめ方の基本に違いが出てきます。

しかし成人はそれなりのものを求められます。ひきこもり経験者がいきなり成人社会に入り厚い壁を感じるのはこのためです。私は当事者が「~したい」というのを聞たとき、優先したのはそれです。こちらで用意しているものを身に着けさせるのを優先しなかったのです。

時代背景の変化を示す部分にも納得できるものがありました。「昭和の時代は多くの子ども集団の中で集うに余白があり、評価も相対的だったため、得手不得手で収められていたことが、昨今の水平的画一化が進んでいる公教育の現場では、みんなと同じ内容を同じ方法で同じ結果を出すことを絶対評価で求められる傾向が以前よりも強まっています」=最近の事情はともかく昭和の時代評価の仕方が表れていると思いました。

さらに気になることがありました。「他者から評価されることを怖がります。(子どもたちが自分で作った)料理を作った後はその場から立ち去り、できあがった作品についての感想も聞きたくはないそぶりをみせます」=これはどうでしょうか? 批判をされるのを怖れているように思うのですが、嫌がるではなく、〈怖れる〉のも気になります。この理由を上手く説明できません。

最後にもう1つ。不登校の子どもは増え続けています。文科省も各地の教育委員会も気にしているはずです。その一方で、生徒数は減少する中で学校の統廃合が進んでいます。そういうなかで廃校になった学校がフリースクールになるというのは珍しいことではなくなりそうです。校内フリークールも名称はいろいろですが増えてきました。

21世紀も4分の1を過ぎ、学校の変化は社会変化の一面として、緩やかですが進んでいるのを知ることができました。自分では望む将来像を描けませんが、教育も社会も大きく動いています。自分の思う方向と同じではありませんが、全部が反対方向とも言えません。せめて戦争とは結び付かず人が公平に扱われる社会を願います。

日本語はパトス的ロゴス言語(感覚を伸ばす日本語①)

おそらく私が30代のころですから40年以上前のことです。フランスの化粧品会社(たぶんロレアル)の人が日本人を社員に採用する事情を話していました。日本人は化粧品の使い心地の感覚を細かく適格に表現できる。それは得がたいもの……という主旨でした。

次は5、6年ぐらい前のことです。日本人は虫の声を雑音ではなく音声として聴きとっている。その理由を耳鼻科医師角田忠信さんが、日本人は虫の声を左脳で感知していることを証明していました。西欧人はそれを右脳で聴いているので雑音になるというのです。

もう1つ哲学者の梅原猛さんの論文に15年ぐらい前に出会いました。梅原さんは日本語の特徴を「パトス的ロゴス」、情動的論理の言葉であると紹介していました。(「[[日本語の言語的特色と精神文化の関係]]」2022年5月20日)

これらはたまたま伝わってきたのですが、私の頭の中で徐々に1つにまとめられていきました。当時それぞれを短いエッセイに書きました。それらを肯定的に考えられる手がかりを得たからです。

次は私の関心の推移に関することです。日本には哲学はなかった。社会的思想はそれぞれの時代にあったが合理的・体系的なものにはならなかった。私の20代のころに書いたノートにはその事情をいろいろと書いていました。論理として一貫されるのではなく、なにかあいまいなものが混ざっている、それが少なくとも近代までの日本の思想史にはなかった、という意味です。

例えば古典ギリシアのアリストテレスに代表される哲学、イブン・ハルドゥンの歴史序説が示した中世アラビア哲学、デカルト以降に登場した近代ヨーロッパのように日本には哲学は誕生しなかった。江戸時代18世紀の安藤昌益の自然真営道は、唯物論哲学に近づいたけれども未達成であった……そんなことを書いた記憶があります。論理の内側にパトス的なもの、感情的情動的なものがくみ込まれることは、論理の一貫性、完成性を損なうものと私には思えてきたのです。

最近、AI(人工知能)の広がりとともに、日本語の英語などとは違う要素が評価されているのを読む機会ができました。

私には、角田さんや梅原さんの意見を聞くこと——それはひきこもり体験者がもつ感覚的感性の鋭さを理解する糸口として、私の中にかなり受け入れる気分が広がっていたことに関係するでしょう。私は日本語または言語学については門外漢ではありますが、論じられていることのいくつかを、「ひきこもり」に関わって学んできた者として、見きわめたいと思ったのです。項目を先に並べてみます。

(1)日本語における動詞の位置

S=主語、O=目的語、V=動詞

日本語型語順「S→O→V」、英語型語順「S→V→O」

(2)かな文字と漢字の利用=脳の活動に関係する

(3)感情・感覚表現の細分と多様性

(3-2)オノマトペ表現の発展

ほかにもあると思いますが、とりあえずこれらについて書いてみます。

居場所の今後に必要なことは(質問2)

居場所に関する質問は3つあります。「居場所はどんな形であるといいか」、「居場所は(コロナ禍以降)どんな形を変えてきているのか」、「私個人にとってのいい居場所とは」という質問を受け取りました。この3つは質問者が直面する居場所の運営や方向性を考えようとすることに関連していると思います。この質問は私自身の問いでもありますが、私的にはこの3つに加えて、「40代から50代の年齢に達したひきこもり経験者にとって居場所とはどんなものになるのか」の問いを加えたいものです。

When I find myself in time of trouble,            Mather Mary come to me.            Speaking words of wisdom,Let it be.           And my hour of darkness,           She is standing right in front of me.            Speaking words of wisdom,Let it be.
これにはこのThe BeatlesのLet it beが答えになりそうです。            *行の揃えがうまくいきません!

私は親の会が衰退した状態のなかで、それを漂流していると考えますが、求める形の居場所も同じように漂流していて、はっきり提示できません。質問に答えるとすれば、具体的な要素を入れた内容が責任ある答えと思います。これが実に難しい局面にあると告白します。そのうえでの答えになります。
1つ言えることは、行政との関わりを何らかの形でもつことです。それは行政側の指示的方向に沿う形ではありません。関心はもってもらうけれども介入されない形です。保健所や社会福祉協議会などの行政とは何らかの関わりをもっておき、「将来のそのときに備える」気持ちが必要ということにしましょう。
次に言えることは、ひきこもり経験者の高齢化が進むなかで将来の心配が少しずつ明らかになっています。精神的不安定のなかで家族との関係が難しくなっている、孤独・独立状態におかれる姿が見えてきます。それに備えての社会福祉的な制度づくりに、自らの状態に基づく要望を考えある程度まとめる、社会に問う取り組みです。居場所ではそれらも話せる時間があればよいと思います。
①行政と関わりを持つこと、②将来の困難が透けて見える状態の中でそれへの社会福祉的対応を訴えられるようになること——この2つが頭の中に浮かぶことです。こういう地味で真面目な居場所は、必ずしも魅力的ではないかもしれません。そのような要素もあるけれども、普通は会っていると楽しい形でないと会う意欲がわいてきません。これを居場所に何が必要なのかの直接的な結論にしたいと思います。
これは居場所に関する3つの質問の答えになっていません。答えたのは私が自分で追加した「40代から50代の年齢に達したひきこもり経験者にとって居場所とはどんなものになるのか」で自問したことです。具体的な課題に応えることでしか方法は見当たりません。