親同士が話し合う場でのことです。
ひきこもり系の息子30代はあまり話さないし、家族のだれかが人を非難がましくいうときはイヤな表情を見せます。
しかし、あまり自分事とは言えない社会問題ではけっこう自分の意見を言います。
最近の例では加計学園と安倍総理大臣の関係なんかです。
テーマの違いにより話す内容は不思議なくらい大きな落差があります。
もう一つは自分の権利みたいなことは淡白なのに、他の誰かが権利侵害的な目にあうとひどく憤慨を見せるといいます。
こういう情景はひきこもり生活をする人がいて、自由に話せる家族内ではよく現われることではないでしょうか。
この30代の息子さんをAくんとして話しましょう。
Aくんの思いや感覚は次のように解釈できます。
Aくんにはこの違いは整然と区別されているのではなさそうです。
漠然とした雰囲気のなかで自然に表れる言葉や表情です。
それを私がAくんの立場になって言語化してみました。
よく知らない事情なのに誰かを非難がましく言うのは同調しかねます。
その人のその状況を知らないのにそこまで言うのはおかしいと思うからです。
加えて「話には出てこない知らない面もある」のではないか。
周りで話す人には主観的な受けとめ方や感情が込められているのではないか。
そのあたりの確認ができません。
事態を公平に見て受けとめたい感覚が働くのです。
これには自分が何かのことで偏った、一方的な見方をされた経験があるかもしれません。
しかし、そういう経験がなくても気質的・性格的に公平さを重視したいのです。
そういう気持ちなので、周囲の人に同調して小器用に対処したくはないのです。そういうゆがみが嫌いです。
しかし、その程度の自分の内側で消化できるのならことならまだいい方です。
このような「公平感覚」は、周囲の人に必ずし好意的に受けとめられません。
「自分のこととしてとらえていない」とか「傍観的に見ている」と言われることもあります。
こうなるとときに人間不信的になります。
「勢いでうまくいうヤツの意見が通る、声のでかいヤツが言う方に曲げられる」感覚になることもあります。
その点、大きな社会問題になるようなことは、少しは気が楽です。
ニュースなんかはよく見聞きしているので、親よりも情報量は多いです。
自分の公平感覚がそのまま意見に出せます。
加計学園と安倍総理大臣の関係なんかはわかりやすいものです。
安倍総理大臣が隠し通せると思っているほうがおかしいほどです。
いやばれているのを承知で公式には「無関係」と否定しているのです。
Aくんに話を戻しましょう。Aくんはこれから何をすればいいのでしょうか。
現状ではいい人間関係に進むのが難関です。
それでもそういう公平感覚を持つ自分を貫くというスタンスは貴重です。
人との関係、特に友人関係ができるにしたがい、自前の公平感覚に上塗りがされます。
特別の親近感や味方になる感覚、親密な感情が生まれます。
これは生来の公平感覚に自分の関わりが生まれ、自然な感情移入がされるためでしょう。
オーバーな言い方をすれば、無機質な動物的な生命体に生気が吹き込まれ、人間として成長するからです。
Aくんは、いやもう少し広く見れば長期に対人関係ができていない人は、それぞれの程度においてこの成長が不十分です。
こういう個人的な関係ができれば、偏った判断をするようになると心配していませんか?
いや確かにそうなっている人もいないわけではなさそうです。
しかし、Aくんタイプは生来の公平感覚も持ち合わせています。
私のこの文を見てうなずくことができるあなたなら大丈夫です。
その危うさを予見しながら成長を図ることができます。
Aくんはそういう社会状況や人間関係における体験や感覚を共有できる人を望んでいるのかもしれません。
そういうことができる友人関係や居場所を必要としていると思います。
そういう人の集まるところで個人的に親しくなれる人ができれば、親近感の増大と公平感のバランスを図りながら進んでいけます。
どういうわけか、「人と話せる場があれば行きたいのですが…」という趣旨の要望を数人から聞くことになったこの数日です。