味覚を表現する日本語の言葉も多様です。YouTubeで紹介の1つは日本語では1000の味覚表現があると言います。
方言や無理やり感のある単語が加えられていると予想できます。
対する英語の味覚表現は4種、甘い(sweet)、辛い(salty)、すっぱい(sour)、苦い(bitter)ですが、これに旨味(うまみ、umami)が加わっています。
現在では味覚の基本はこの5種とされています。
最後の旨味を加えたのは、1908年ことで日本人化学者、池田菊苗さんがコンブ出汁からグルタミン酸ナトリウムを抽出し、これにより旨味が根拠づけられました。
これには後にカツオ節などでも確認されたようです。
味覚は特別の感覚かもしれません。
トンプソン博士(?)が味を感じる言葉の脳のMRI検査をしたところ日本語話者42種、英語話者9種、フランス語話者15種が区別されるといいます。
言語が人の感覚器官を変化させているのでしょうか。
日本人はで微妙な味覚の違いを、コク、まろやかさ、キレ、深み、ふくよかさ、えぐみ、舌ざわり、のどごし……などがそれです。
食に関するオノマトペで1000種に近いとされます。
「人間の脳は、言葉を獲得することでより細かな違いを認識できるようになる」といいます。
日本語は味覚に関する言葉を細かく多様化させることにより、味の違いを認識させてきたともいえるわけです。
どこまで信用できるのか根拠はわかりませんが、フランスの料理学校などでは調理師養成において、日本語の味覚表現を導入して、調理技術の向上を図っていると報じています。
前に、化粧品会社のフランス人が、日本人を雇用することで化粧品 の使用感の感覚表現を生かすことを述べました。
人間の五感(六感とも?)である、視覚、聴覚、味覚、触覚、嗅覚、(そして内臓感覚も)の繊細な発達は、日本人をして感覚に敏感な体質および気質を発展させたのではないか——推量の範囲としますが、状況証拠はいろいろあると思います。
親の変化とは考え方の幅を広げること
11月号の会報「寄り添って、話を聞いて、尊重する」の投稿文を読みながら、感じたことを2点書いてみました。
その2:親の変化とは考え方の幅が広がることです。
私が関わった範囲のことですが、親が変わるよりもひきこもり当事者が変わる方がはるかに大きく思えます。これには「寄り添って、話を聞いて、尊重する」で言うように親がその条件設定をすると上手くいくからです。だから親には可能なことをやってほしいわけです。そうしていくと子ども側はその想定する範囲を超えて進んでいきます。
そこを考えた私の結論は、親は経験がある分全体を変えるというよりは、考え方の幅を広げているのではないか。これまで身に着けた部分が完全になくなるのではなく、それの上書きするような型、新しさを示しつつもその人らしさが残っているではないかと思います。
他方では子ども側にはそういう既存の部分が少ないので全体が新しい姿に見えるのではないでしょうか。これを「親が変わるよりもひきこもり当事者が変わる方がはるかに大きい」と思えることの本質部分ではないか、と思っています。
親の話しを息子がよく聞くようになる秘訣
11月号の会報「寄り添って、話を聞いて、尊重する」の投稿文を読みながら、感じたことを2点書いてみました。
その1:
成人した息子はひきこもり生活を続けているがちっとも親である私の話をきこうとしない。そこで「どうすれば息子が話をきくようになりますか?」という率直な相談電話を寄せてくれた母親がいました。
家族会に参加するなどして親としてどうすればいいのか学んでいる。カウンセラーさんの話も聞いている。特に外出するようになった人の親の話は役にたちそうだ。その話を息子が聞けば何かの糸口になるのに違いない。それなのに息子はちっとも私の話をきこうとしない。それで「どうすればいいんでしょうか? どうして息子は私の役に立つはずの話を聞こうとしないんでしょうか?」と聞いてこられたのです。
私はこのお母さんの話が一段落したところで、答えました。「お母さんは息子さんの話をよく聞いてきたのですか?」。一瞬間が空きました。お母さんは何を言われたのかがわからなかったのではないかと思います。
自分は「息子が話をきくようにするにはどうすればいいのか」と聞いているのに「お母さんは息子さんの話をよく聞いてきたのですか」と問いかけられたのです。私の答えの意味がつかめず、一瞬の間は戸惑ったかもしれません。
この原則はきわめてシンプルです。「自分の話をよく聞いてくれる人に対して
その人の話も聞こうとする気になる」のです。とくに親子の間で子ども時代からそのような関係があれば、「どうすれば子どもは親の話を聞くのか」という問いは(例外はあるとしても)発生しないのです。
そうは言いながら私が常にそうできているわけではありません。次の予定がある、電話の場合は何かの作業途中である場合もあるのでやむを得ません。それでも条件があるときは2時間ぐらいの話になることはよくあります。
同じ家に住む親子の間では(いつもというわけにはいかないでしょうが)、こういう子ども側の話をよく聞くスタンスを続けていけば、いい話し合いになると思います。親の話も聞いてもらえますし、子どもの話もよく聞いてくれると思います。
短時間で「親が持ってきたいい話を息子がよく聞いてくれる」と思うところに無理があるのではないでしょうか。
フリースクール「虹の学園」のこと
「親と子と教職員の相談室」発行の『教育相談室だより』が年3回発行されていて、その最近号を読んでいます。岩手県一関市に公立小学校の跡地に「虹の学園」が2024年4月に設立されその報告がありました。小中学の不登校の子どもたちの居場所ともいえるフリースクールです。
小中学生を対象としたものですが、居場所として私が暗中模索でとりくんできた不登校情報センターの居場所と重なる状況をいろんな局面で感じ取ることができました。
1つの例を挙げます。「子どもは生まれてからその行為行動は主体的なもので、それを肯定的に受けとめるか、否定的に受けとめるは周囲の大人たちの問題」、すなわち子どもの問題ではない。そこから子どもの意思の受けとめ方の基本に違いが出てきます。
しかし成人はそれなりのものを求められます。ひきこもり経験者がいきなり成人社会に入り厚い壁を感じるのはこのためです。私は当事者が「~したい」というのを聞たとき、優先したのはそれです。こちらで用意しているものを身に着けさせるのを優先しなかったのです。
時代背景の変化を示す部分にも納得できるものがありました。「昭和の時代は多くの子ども集団の中で集うに余白があり、評価も相対的だったため、得手不得手で収められていたことが、昨今の水平的画一化が進んでいる公教育の現場では、みんなと同じ内容を同じ方法で同じ結果を出すことを絶対評価で求められる傾向が以前よりも強まっています」=最近の事情はともかく昭和の時代評価の仕方が表れていると思いました。
さらに気になることがありました。「他者から評価されることを怖がります。(子どもたちが自分で作った)料理を作った後はその場から立ち去り、できあがった作品についての感想も聞きたくはないそぶりをみせます」=これはどうでしょうか? 批判をされるのを怖れているように思うのですが、嫌がるではなく、〈怖れる〉のも気になります。この理由を上手く説明できません。
最後にもう1つ。不登校の子どもは増え続けています。文科省も各地の教育委員会も気にしているはずです。その一方で、生徒数は減少する中で学校の統廃合が進んでいます。そういうなかで廃校になった学校がフリースクールになるというのは珍しいことではなくなりそうです。校内フリークールも名称はいろいろですが増えてきました。
21世紀も4分の1を過ぎ、学校の変化は社会変化の一面として、緩やかですが進んでいるのを知ることができました。自分では望む将来像を描けませんが、教育も社会も大きく動いています。自分の思う方向と同じではありませんが、全部が反対方向とも言えません。せめて戦争とは結び付かず人が公平に扱われる社会を願います。
日本語はパトス的ロゴス言語(感覚を伸ばす日本語①)
おそらく私が30代のころですから40年以上前のことです。フランスの化粧品会社(たぶんロレアル)の人が日本人を社員に採用する事情を話していました。日本人は化粧品の使い心地の感覚を細かく適格に表現できる。それは得がたいもの……という主旨でした。
次は5、6年ぐらい前のことです。日本人は虫の声を雑音ではなく音声として聴きとっている。その理由を耳鼻科医師角田忠信さんが、日本人は虫の声を左脳で感知していることを証明していました。西欧人はそれを右脳で聴いているので雑音になるというのです。
もう1つ哲学者の梅原猛さんの論文に15年ぐらい前に出会いました。梅原さんは日本語の特徴を「パトス的ロゴス」、情動的論理の言葉であると紹介していました。(「[[日本語の言語的特色と精神文化の関係]]」2022年5月20日)
これらはたまたま伝わってきたのですが、私の頭の中で徐々に1つにまとめられていきました。当時それぞれを短いエッセイに書きました。それらを肯定的に考えられる手がかりを得たからです。
次は私の関心の推移に関することです。日本には哲学はなかった。社会的思想はそれぞれの時代にあったが合理的・体系的なものにはならなかった。私の20代のころに書いたノートにはその事情をいろいろと書いていました。論理として一貫されるのではなく、なにかあいまいなものが混ざっている、それが少なくとも近代までの日本の思想史にはなかった、という意味です。
例えば古典ギリシアのアリストテレスに代表される哲学、イブン・ハルドゥンの歴史序説が示した中世アラビア哲学、デカルト以降に登場した近代ヨーロッパのように日本には哲学は誕生しなかった。江戸時代18世紀の安藤昌益の自然真営道は、唯物論哲学に近づいたけれども未達成であった……そんなことを書いた記憶があります。論理の内側にパトス的なもの、感情的情動的なものがくみ込まれることは、論理の一貫性、完成性を損なうものと私には思えてきたのです。
最近、AI(人工知能)の広がりとともに、日本語の英語などとは違う要素が評価されているのを読む機会ができました。
私には、角田さんや梅原さんの意見を聞くこと——それはひきこもり体験者がもつ感覚的感性の鋭さを理解する糸口として、私の中にかなり受け入れる気分が広がっていたことに関係するでしょう。私は日本語または言語学については門外漢ではありますが、論じられていることのいくつかを、「ひきこもり」に関わって学んできた者として、見きわめたいと思ったのです。項目を先に並べてみます。
(1)日本語における動詞の位置
S=主語、O=目的語、V=動詞
日本語型語順「S→O→V」、英語型語順「S→V→O」
(2)かな文字と漢字の利用=脳の活動に関係する
(3)感情・感覚表現の細分と多様性
(3-2)オノマトペ表現の発展
ほかにもあると思いますが、とりあえずこれらについて書いてみます。
居場所の今後に必要なことは(質問2)
居場所に関する質問は3つあります。「居場所はどんな形であるといいか」、「居場所は(コロナ禍以降)どんな形を変えてきているのか」、「私個人にとってのいい居場所とは」という質問を受け取りました。この3つは質問者が直面する居場所の運営や方向性を考えようとすることに関連していると思います。この質問は私自身の問いでもありますが、私的にはこの3つに加えて、「40代から50代の年齢に達したひきこもり経験者にとって居場所とはどんなものになるのか」の問いを加えたいものです。
When I find myself in time of trouble, Mather Mary come to me. Speaking words of wisdom,Let it be. And my hour of darkness, She is standing right in front of me. Speaking words of wisdom,Let it be.
これにはこのThe BeatlesのLet it beが答えになりそうです。 *行の揃えがうまくいきません!
私は親の会が衰退した状態のなかで、それを漂流していると考えますが、求める形の居場所も同じように漂流していて、はっきり提示できません。質問に答えるとすれば、具体的な要素を入れた内容が責任ある答えと思います。これが実に難しい局面にあると告白します。そのうえでの答えになります。
1つ言えることは、行政との関わりを何らかの形でもつことです。それは行政側の指示的方向に沿う形ではありません。関心はもってもらうけれども介入されない形です。保健所や社会福祉協議会などの行政とは何らかの関わりをもっておき、「将来のそのときに備える」気持ちが必要ということにしましょう。
次に言えることは、ひきこもり経験者の高齢化が進むなかで将来の心配が少しずつ明らかになっています。精神的不安定のなかで家族との関係が難しくなっている、孤独・独立状態におかれる姿が見えてきます。それに備えての社会福祉的な制度づくりに、自らの状態に基づく要望を考えある程度まとめる、社会に問う取り組みです。居場所ではそれらも話せる時間があればよいと思います。
①行政と関わりを持つこと、②将来の困難が透けて見える状態の中でそれへの社会福祉的対応を訴えられるようになること——この2つが頭の中に浮かぶことです。こういう地味で真面目な居場所は、必ずしも魅力的ではないかもしれません。そのような要素もあるけれども、普通は会っていると楽しい形でないと会う意欲がわいてきません。これを居場所に何が必要なのかの直接的な結論にしたいと思います。
これは居場所に関する3つの質問の答えになっていません。答えたのは私が自分で追加した「40代から50代の年齢に達したひきこもり経験者にとって居場所とはどんなものになるのか」で自問したことです。具体的な課題に応えることでしか方法は見当たりません。
なぜ長く活動を続けられたのですか(質問1)
2つの質問を受けました。「これだけ長く活動を続けてきた原点は何なのか」と「居場所をどうするのか」です。居場所関係は3つの質問がありますが、はじめの質問「これだけ長く活動を続けてきた原点は何なのか」は、単独に切り離して考えることができます。それへの答えです。
私は不登校やひきこもりに関して、はじめから長く関わっていくことは想定していませんでした。関わり続けていくなかで少なくとも不登校情報センターとしては30年を、それ以前を含めるとさらに長くなったという意味になります。
ここからやや雰囲気を変えて回答することになります。私は十代のころから地理学への関心が強くありました。地理学とは、「人間の歴史を現代という時間で切りとり、世界の、ある国の、ある地域の様子を体系的に見る学問」と理解しています。高校時代までの地理学の関心は地形(島、山、湖、川、都市そして人口)中心でした。社会人になってからはそこにいる人間と社会、あるいは社会生活の面に関心の比重を移動します。
ものの見方として20代前半のころ意識したのは「目線を低くする」ことです。大事なこと、本質的なことは困難が集まる部分に集中しているから、そこに目を向けなくてはならない、それが「目線を低くする」の意味です。
20代から30代までは医療機関で事務仕事に就きました。医療機関はいうなれば各種の専門職の集まりです。そのなかで事務はそれほどの専門性はありませんが、医療保健制度に関わるために社会と医療現場の接点にいます。これは1つの経験です。
それにつづいて、教育系出版社で編集職に就きました。ここもまた教育の専門性としては深くはありませんが、教育を外側から深く見る位置にいました。教師の職業的関わり方の幅は幅広いものであると知りました。ほとんどシステマチックに「教える」タイプの教員もいますし、人間への洞察力を発揮して教育活動をする教員もいました。「目線を低くする」という私の関心はこの後者の側の教師の考え方や実践に関心を寄せることになりました。ただ教育は両面を含むいろいろの組み合わせによります。
そういうなかで、不登校という問題につき当たりました。システマチックに不登校に対応するのは、その子どもをこの教育の枠外におくことにより対応できたと思います。それは「教室に来ない子どもには教育活動をすることは難しい」、あるいは「不登校の子どもが適応指導教室に移されれば、自分の担当するクラスでは一件落着」となります。もちろんこの他にもいろいろなバリエーションがありますが、それらは省きます。
人間に対する教育活動というスタンスで、不登校の子どもに対応するとシステマチックよりも個別対応に向かいます。どこに居ようと、家の中から出ない状態であっても、適応指導教室に属することになっても、さらに別の形であっても、関心を持てるテーマであるのに変わりはありません。実際にどのような関わりを持てるのかはそれぞれの事情によるのです。
私が不登校に特別に意識した1つはこうです。一般に暴力とか非行とか問題行動をくり返す生徒には、その子どもの直接的な背景理由があります。家庭・家族の困難な事情、生活の困難、貧しさ、学業成績がふるわない……などがよりわかりやすく出ます。
不登校は、はじめのうちはこの「問題行動」の1つとされていました。しかし、家庭的にはめぐまれている、学業成績も悪くはない(むしろ良好)の人が少なからずいます。私が(たぶん)初めて不登校(当時は登校拒否といっていた)に特別の関心をもったのは、ここです。
不登校に関する多くの取り組みのなかで、“成果”といわれるものもありました。学校復帰・再登校の実現という報告です。教師の側の取り組みとして、このような形の教育活動をすれば、不登校は防げる、不登校の子どもは学校復帰できる…そういう報告をいくつか目にしました。その内容には肯定的に見られるものも多いと思います。
しかし、不登校状態はいろいろであって、いわば軽度の(?)不登校の子どもの学校復帰した報告によるものが多いと感じるようになりました。他方では不登校生は徐々に増えました。中学生から小学生の高学年に、中学年に、低学年にも広がりました。高校では中退生の中心が不登校でした。そしてやがて「ひきこもり」が社会的にも現われる状態になっていきました。
問題の根は、より困難な状態におかれた不登校の子ども、さらにはひきこもりの人たちのところを見なくてはわからないと——これはかなり早い時期から考えていたことでした。「目線を低くして」問題を見ていくスタンスです。
その後の経過のなかで私は不登校の子ども(中学生や高校生)に直接に関わる生活環境にはいませんでした。それに代わり十代後半から20代に入ったひきこもり経験者の集まる場で、実際の経験者に囲まれる生活ができました。それが居場所であり、場の設定者になりました。
居場所ではいろいろな人がきました。比較的“軽度”(?)と思える人もいましたし、“重度”(?)と思える人もいました。実際私はその両方のタイプに助けられて不登校やとくにひきこもりの理解を深めていったと思います。重度の人だけでは理解できなかったと思います。なぜなら人間はある順序性をもって、状態や症状を表わすものであって、中途の様子をある程度知らないと重度の人だけでは突飛な事態と思うにすぎず、連続した整合的な説明がしづらいからです。
もう一つは男性と女性の表現のしかたの違いです。男性は行動で表現しやすいのですが、その行動の意味を言葉でうまく説明しません。女性は行動面ではさほどではない(?)のですが、事情をことばにして説明しようとします。この両方の表現方法を理解しなくてはならなかったのですが、女性側の表現方法により男性の行動も説明しやすくなったのは確かです。
私への「質問は、これだけ長く続けてきた原動力は何なのか」でした。私はそれに対する答えを書いたつもりです。これが答えであると思えないかも知れません。不登校やひきこもりを理解しようとして、そのより重い状態にある人に目を向けて、関わってきたら、いつの間にか30年以上が経っていた」ということです。
初めから意図して長い間かかわろうとしたわけではありません。もっとも短期間だけ関わろうという意識があったことはありません。「深みにはまった」ともいえますが、世の多くの問題との関わり方はこのようなものではないでしょうか? 「深みにはまらなくてよかった」というのは、犯罪みたいなことに限定されるのではないでしょうか。長くつづいたのは、私が人生の目的ができたということでもあります。(2025年10月9日)
10月18日のセシオネット親の会に参加をどうぞ
9月20日のセシオネット親の会には親の参加がなく、不登校情報センターに通っていた4名と松村さんと松田の6人でした。HOくんとMOくんが数年ぶりに顔を合わせて握手する貴重な場になりました。
ひきこもり経験者による生活事情が話し合われました。就業の形、B型作業所、自治体の福祉相談窓口、ウツなどの心身状況などにも及びました。私は福祉制度の状況がよくわからない部分があります。一人ひとりの具体的な様子を聞いて理解してきたのですが、時期により変わる、自治体(ときには担当者)によって違うのではないかと迷うこともあり、うまく整理して理解できません。
今回の出席者はそれでも「動いている人たち」で、社会的には最低限平穏状態にいると思えます。ひきこもり経験者には「生きづらさ」をもちながら働いている人もいれば、入院生活や自宅からほとんど外出できない人もいます。通常に働いている人や病院生活の人からの連絡がほとんどないのでその状態はよくわかりません。
いわば両者の中間に不安定ながら動いている人たちを参考に「ひきこもりへの必要な社会の対応」を考えています。考えの及ぶ範囲では
① 家族がいない、家族とのつながりがとぎれがちな状態。
② 居住条件が特別(グループホームや一人暮らしなど)。
③ 心身条件とくに精神的状態が不安定。
日常的には心身条件に左右されることが多く、②の居住条件は社会的条件として自治体を窓口とする福祉制度に関わることもあります。①の家族関係はより長いスパンでより大きな社会関係として考える対象で、私の調査研究テーマです。
10月のセシオネット親の会がどうなるのか? 中心の松村さんが休みになり、松田一人なのでかなり不安でありますが、出席するみなさんの協力をお願いします。親の会はなお漂流中といえます。
9月に出席した人により近く食事会が開かれる、私も呼ばれて参加しました。同じようにこれまで通所していた知り合い同士でそれぞれ食事会などを開きませんか。支障なければ私も参加させていただきたいと思います。
☆10月のセシオネット親の会
セシオネット親の会の定例会は毎月第3土曜日、午後2時~4時です。10月18日(土)14:00~16:00
場所は助走の場・雲:新宿区下落合2-2-2 高田馬場住宅220号室
参加等の連絡は、前日までに松田武己(03-5875-3730)にお願いします。
参加費は親の方は500円です。ひきこもり等の経験者は額を決めませんがカンパをお願いします。
幼児期の虐待を越えて成人した人たち
とつぜんある言葉が思い出されました。「松田さん、私の成年後見人になってもらえませんか…」とPさんからおそるおそる言われた言葉です。どう答えたのかははっきり覚えていませんが、「いいよ」とはっきり返事はできませんでした。あのときが決定的なときではないか、と今になって思います。
椎名篤子『凍りついた瞳2020』の第3章の一節は「Story3 死を乗り越えた子どもたちへ」という実践による体験物語です。その中で「〇〇さん、私の里親になってよ」と20歳の児童養護施設を終えた人から声をかけられた部分を読んだときです。「松田さん、…成年後見人になってもらえませんか…」とPさんから話しかけられたのを思い出しました。
Pさんははじめは統合失調症といい、次の医療機関では双極性障害と診断されました。私が目の前で確認できたことは、解離性の状態、つまり複数の名前で自身の幼児期の体験を語っている姿です。これは乳幼児期に虐待を受けた人によく表われる症状です。
成年後見人について当時の私は聞いてはいましたが、内容は(今も)よくわかりません。Pさんの親族にも私の周囲の人にも妙な受けとめ方をされるのではないかと躊躇する気持ちがありました。なにより法的な要件を満たしていないだろうし、成年後見人にいることがベストかどうか迷う気持ちもありました。そんなことがまざりあって、「いいよ」とは答えられなかったのです。
私にはそれだけだったのですが、Pさんにはもしかしたらいろいろ考えた末の切り札だったのかもしれません。私はこれを後悔すべきだったのです。実現できないにしても、もっと調べてみるべきだった。もっとあれこれバタバタしてみるべきだったのです。後悔すべきはいろいろあります。いい状態のときもあったし、困っていたときもありました。しかし、この重みを長く感じないできたのです。
Pさんの例をもとに『ひきこもり当事者と家族の出口』(五十田猛、子どもの未来社,2006)で、私はこう書いています。
《生命恐怖の時代を切り抜ける子どもの対処のしかた
いま、日本のあちこちで子どもの虐待が生じています。なかには命を落とす子どももいます。
そういう対比のなかで、Pさんの子ども時代の過ごし方——つまり生命恐怖への対処法——をみれば、私はむしろ「よくがんばった。絶妙の方法で危険で狭く長い道を切り抜けた」とほめてあげたいと思います。
私がPさんとはじめて出会った当時は、いわゆるマニック・ディフェンス(躁的防衛)の状態でした。家では元気な姿を、人前でもそれなりに元気な姿をみせ、ひとりでいると寝込み、症状に苦しんでいました。子ども時代の「いい子」状態が少し姿を変えて続いていたのです。…
Pさんの例は、Pさん独自の要素もありますが、一般に少年期までに虐待を受け生命恐怖に置かれた子どものその時代の切り抜け方だと思います。それを極言すれば、「親のいいなりの道を選ぶこと」になります。
私たちは、親のいいなりになっている子どもを、自立性の低い、自分らしさを発揮していない子ども(人)とみがちです。しかし、子どもにしてみれば、やむにやまれない一種の正当防衛として、「自分で自分の心を殺す」道を選んだのではないかと思えるのです。
たしかに現時点はたいへんでしょう。しかしまた、いま生きているのです。ここが出発点ではないでしょうか。》(p61~62)
『凍りついた瞳2020』第3章は、「死を乗り越えた子どもたちを支えるために」です。Pさんが、この章で紹介された程度の虐待を受けたかどうかはわかりません。少なくとも乳幼児期のことは(本人にも)わかりませんし、子ども時代の体験の断片をいろいろな機会に話してくれたなかに、その片鱗を見るだけです。
不登校情報センターに通ってきたひきこもり経験者には、乳幼児期に「死を乗り越えた」と言える体験者がどれほどいるのか…。少なくてもそれに近い状態の人がいると確信できます。その彼ら・彼女らが成人後どのような状態になるのか。人さまざまで、ある人は一般の社会人として生活が可能な範囲に入り、他方では40代・50代になって入院生活や在宅生活をくり返す状態の人もいるでしょう。その両者の間に、社会との不均衡な関わりをもち、ウツなどの心身状態とつき合いながら生活を続ける人がいます。
『凍りついた瞳2020』では、「死を乗り越えた」人たちに対して、ある程度は社会福祉の制度を生かしながら、専門職を中心にそれぞれの人の献身的な努力で続ける取り組みを描いています。 私はこの本を一気に読み進むことができませんでした。描かれている事態は、私が見聞きしたのとは別のことなのに、私が見聞きしたことを生々しく思い起こさせました。私はそれを消化し、心が落ち着くのに時間を要してからようやく次の章に読み進めるしかなかったのです。 そのつど感想を書いてきました。バラバラの統一性を欠いたものになりました。それだけ衝撃の強い、この分野に関心を持つ人には特にお勧めしたい一冊です。
ゴミ拾いの無言実行
朝食のために駅方向に向かう緩い坂道を自転車をこいでいるとき、右後方でバシャっという音がしました。見ると“重装備した”女性がゴミバサミを持って、何かをつかんで袋の中に入れていました。道端に散らばっているゴミを拾っているのです。
坂の途中まで登ったところで止まり、振り返ってみると女性はその作業を続けながら近づいてきました。散らばっている紙くずやカンなどを拾っては袋に入れています。
女性がすぐ近くまで近づいたとき声をかけました。「おはようございます。ゴミを集めているのですか」。軽くうなずいてくれました。40代か50代ぐらいの女性でしょうが、帽子にマスク、手袋などの“重装備”で表情は分かりません。「すばらしいですね」と声をかけた。無言実行のようです。