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セクシュアルマイノリティ当事者

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セクシュアルマイノリティ当事者

木星のような「ネガティブな違和感」~ひきこもりとセクシュアルマイノリティ
■そんな一言ではまとめられない
『ウェブ版ひきこもり新聞』に掲載された〈おがたけさん〉の記事「性的マイノリティも想定したひきこもりの場作り」を読んで(『性的マイノリティも想定したひきこもりの場作り』)、いまだ潜在化せざるを得ない「ひきこもりの中のセクシュアルマイノリティ」に関して、久しぶりに書いてみたくなった。
以前当欄で僕は、ひきこもりの中の「セクシュアルマイノリティ」がどう顕在化するかという記事を書いたものの、その後その「顕在化」に関しては、そんな一言ではまとめられない深さと重さがあるとこの頃よく思う。
それは、おがたけさんの言う「ふたつのかけ合わせ」(セクシュアルマイノリティの問題とひきこもりの問題を二重に共有できる場の必要性)の問題であり、その「セクシュアルマイノリティという自分そのものを長期間に渡ってどう受け入れていくか」という問題である。
上の「どう顕在化するか」記事の最後で、僕はこのように書いた。
自分は決して悪くはない。バカにされる存在でもない。自分には尊厳がある。
そして社会とは、虹のように多様で美しく、自由な瞬間は確かにあるみたいだ。
だから自分はその時を求めて長い時間を旅しよう。
多くのバイアスやアウティングに晒された当事者の方々がその境地に立つことができるまで、10年20年30年という長い月日が必要のようだ。
出典:ひきこもりの中の「セクシュアルマイノリティ」がどう顕在化するか
虹のような多様な社会は、セクシュアルマイノリティのパレードに関するニュースなどを見ていると、我々の社会はすでに到達しているような気になってくる。
だが、直接な差別はもちろん(若者への自立支援者が平気でセクシュアルマイノリティ差別の言葉を吐いたりする)、もっと微妙な「ネガティブな違和感」はこの社会に満ち満ちている。
■ネガティブな違和感
ネガティブな違和感は社会にあると同時に、セクシュアルマイノリティ当事者の中にも長年に渡って棲み続ける。
このネガティヴィティはふとした瞬間に顔を出す。
PTSD支援の専門家であればフラッシュバックと表現するのかもしれないが、実際はそんな紋切り的なものでもないようだ。
やっかいなのは、当事者の中に棲み続ける違和感で、ある瞬間に突然、セクシュアルマイノリティ当事者である現在の自分のことに少し違和感を抱き、捨て去ったはずの「常識」や感性が顔を表し、現在のマイノリティその人を責める。
その責めを防御しきれず、責め(ネガティブな違和感のようなもの)といっしょになって、受け入れたはずの現在の自分を、もうひとつの現在の自分がつぶしにかかる。
この構造は、マイノリティ全般で共通するものかもしれない。
たとえば不登校問題に関して、これまで僕は、「登校規範(学校に行かなければいけない)」は当事者の内面に強力に残っており、その内なる登校規範が不登校後の当事者をしつこく責める、と説明してきた。
ひきこもり問題であれば、「働かなければいけない/自立しなければいけない」という社会規範が内面に棲み着き、内在化された自立規範が当事者をいつまでも責める、と説明したきた。
この理屈にたどり着いて以来20年、一貫して僕はこのことを語ってきた。
けれども、20年語ってきた「内なる登校規範/内なる自立規範」は、そんな単純なものではないかもしれない。
そのことを、ネガティブな違和感に持続的に苛まれるセクシュアルマイノリティ当事者の姿から、僕は考え始めた。
■「自分の中の小部屋」に片付ける方法
「虹のような多様な時間と空間」を求める数十年の旅の中で、持続的に当事者を襲い続けるネガティブな違和感。
それは、内なる社会規範のような紋切り的なものではなく、しつこく続くかゆみのように、些細なことと知りながら解決方法をついつい考えてしまう細かい仕事手順のように、考えなくとも日々には影響ないのはわかっていながらついつい思い出すある人物のように、「感じ」「感覚」的なネガティヴィティとして現れる。
そうした細かい違和感で構成される存在が我々人間である、と言ってしまうことはできない。
現在のマイノリティ当事者、社会の偏見にさらされ続けながらもそれが「自分」だからそうせざるをえないセクシュアルマイノリティ当事者にとって、こうしたネガティブな違和感とどう共存し、やがては自分なりの方法で「自分の中の小部屋」に片付ける方法をどう獲得するか。
これは切実なテーマである。
不登校やひきこもりに関しても、学校に行けない、仕事ができない自分自身を責めるそのネガティブな声は、社会規範そのものではあるものの、それほど大文字のものではなく、ごくごくプライヴェートな枠組みの中で鳴り響く。
自分だけのふるまい、話し方、装い、食事の好き嫌いや食べ方、好きな音楽や物語などの文化的好み、それらの一つひとつと直面する時、自分はいまなぜそれを身につけるか、接するか、読むか、見るか等の細かい生活的文化的シーンの中で、そのネガティブな違和感は当事者を襲う。
その襲い方は極々プライベートなものであるため、ここには書けない。
当事者を襲うそれらネガティブな違和感を「内面規範」として簡単に片付けることはやはりできない。
それはまさしく違和感であり、世界で唯一人の存在である単独的なその人の人生のワンシーンごとに宿っている違和感だ。
■「木星の表面」のような
その単独的違和感は、虹のようなロマンティックなものではなく、「木星の表面」のような、あらゆる要素が混じり合っている風景なのかもしれない。
逆に言うと、社会規範と一言で断言し、そこからの脱却を説く従来の僕のような言説こそが横暴な省略化であり、ある意味「暴力」なのかもしれない。
世界でただひとりの単独性に寄り添う、とは、社会規範的な一般論を一方で意識しながらも、その方を反復して襲うネガティブな違和感を聞き、その意味を考え続けることだと思う。
〔2018年9/4(火) 田中俊英 一般社団法人officeドーナツトーク代表〕
 

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