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体験記・森田はるか・引きこもり模索日記(3)

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目次

引きこもり模索日記(その3)

著者:森田はるか(男性・東京都)

再びひきこもり生活へ

 引きこもり生活に戻り、家族以外に会う人、話す人もいない日々が続いた。
それは永遠のように感じる、出口の見えない、長くて辛い孤独な日々だった。
 両親にはタダ飯を食わせてもらい、申し訳ない気持ちで一杯だった。
なんの役にも立たない人間が死ぬことも出来ないまま生きている…。
息をして二酸化酸素を吐き出していることさえ罪に感じた。
 父親は「働かざるもの食うべからず」「誰のおかげで飯が食えていると思っているんだ!」…という性格だったので余計に居心地が悪かった。
 そしてまた、せめてもの罪滅ぼしで家の掃除など家事を手伝うことにした。
 そして建設業で体力の無さを痛感した私は、鉄アレイやトレーニングマシンを買って家の中で筋力トレーニングを始めた。
「ロッキー」や「ランボー」等マッチョな映画が好きだった影響もある。
 ボクシングも好きだった。
当時マイク・タイソンのファンだった。
映画やボクシングの名場面を妄想しながらのトレーニングははかどった。
 これも後で知った事だが引きこもりで筋トレをやっている人は結構多いらしい。
 ロバート・デ・ニーロの名作「タクシードライバー」の中で、屈折した主人公が部屋の中で一人黙々とトレーニングをするシーンがあるのだが、それを観て共感しながらも「やっぱりおれはヤバイ方向に向っているかな…!?」などと考えたりもした。
 引きこもりの人の中には昼夜逆転する人も多いと聞くが、私は規則正しい生活を心掛け、かなりストイックな生活をした。
 とにかく無職でいることが両親にも世間様にも申し訳なかった。
エロ本を買ったり、オナニーするのも罪悪感を感じた。
 でも昼夜逆転する人の気持ちはよくわかる。
大の男が昼間から家でブラブラしているのを近所の人に知られたくない。
 仕事を聞かれるのも嫌なものだ。私も昼間に外出する事はほとんどなかった。
 来客や電話もほとんど居留守を使ったが、宅配便や集金など親から頼まれている用事には仕方ないので対応したが嫌だった。
 求人情報には常に目を通し、いつでも働きに出られるように心掛けていたが、自分に自信がなく、ネガティブなことばかり考えてしまい実際に行動は出来なかった。
 人と話す機会がなく、電話も緊張したので、電話を掛けることに慣れる意味で通信教育や専門学校の案内書を電話で請求するようにしたこともある。
 雑誌や新聞で友達づくりのサークルや文通相手を探したこともある。
 しかしサークルは一般の人の中に入る自信がなく、仕事の話などを聞かれるのが嫌で実際に参加は出来なかった。
 文通は格闘技など趣味を通じて探したが、気の合う人は見つからなかった。
 そんな中で関心を持った集まりに「不登校、高校中退経験者の会」があった。
 実際に会合にも参加したのだが、当時私自身が不調だったこともあり、残念ながら雰囲気に馴染めなかった。
 「今日の会合は暗いなぁ…」などと言われると「おれがいるせいかな…」などと考えてしまい、行けなくなってしまった。
 「いのちの電話」に相談したこともある。
緊張して電話を掛けるのだが、いつも混んでいてなかなか繋がらなかった。
何回目かでようやく繋がり、自分が「登校拒否や高校を中退した経験。働きに出ても人間関係に悩み仕事が続かない。なにをやってもダメな自分が嫌で仕方ない。自分は生きている資格がない」と相談した。
 相談員の方は「あなたはなんでも自分のせいにしてしまっている。もっと自己中心的になって他人のせいにする性格になった方がいい。」
「悩みは溜め込まずに吐き出した方がいいから、なかなか繋がらないかもしれないけどまたいつでも掛けてきてね。」…と言ってくれた。
 結局その後電話を掛けることはなかったが…。
いつも出口を探していた…。

某宗教団体の無神経ジジイ

 私は「引きこもり生活」の中で20歳を迎えたが、成人式などにはもちろん出なかった。
親は出席を強く勧めたが、私には同級生に合わせる顔などなかった。
 毎日家の中にこもっていると家族以外に会う人、尋ねて来る人は営業か宗教関係の人ぐらいである。
 突然、高校時代の先輩から連絡があり久々に外出してみればマルチ商法の勧誘でガッカリしたこともある。
 また母親が私の登校拒否をきっかけにある宗教をやっていた。
当初は私の問題もあり熱心にやっていたようだが、母は元々「熱し易く冷め易い」性格でその当時は全く活動していなかった。
 しかし友達もなく、ほとんど外出しない私を気にしていたのだろう、ある日その宗教の人が尋ねてくると私に出掛けてくるよう勧めた。
 その宗教の会合に初めて出たが、幹部と名乗るジジイが、「君、歳はいくつ?」「21歳です。」「じゃあ学生?」「いいえ」「仕事は?」「今は働いていません」「どれぐらい無職なの?」「半年位…」(実際は一年以上) 「半年? 親はなにも言わないのか?それは犯罪だぞ! 私が君くらいの時は食べるのに困って働いたもんだ。いつまでも贅沢言って親に甘えていないで早く働きな!」
…と散々ダメだしをくらった。
 当時の私はとにかく無職でいることに引け目があったのでなにも反論出来なかった。
ひどく落ち込んだ。
 しかし今考えればこの宗教のジジイは他人の事情、悩みも聞かず、ただ無職ということだけを取って人を非難する薄っぺらな最低な奴だと思う。
 無神経な言葉で人を傷付けていることをなんとも思わない、こんな最低人間が幹部の宗教は最低だ! この宗教の関係で別の人から仕事を紹介してもらったことがある。
 やはり資格や技術が身に付く仕事がよいと電設工事の見習いの仕事を紹介してくれた。
 しかし、これも不器用な私には向いておらず、仕事がうまく出来ないと人間関係にも余計気を遣い、精神的に疲れてすぐに辞めてしまった。
 まわりに溶け込もうと職場の人達に自分から声を掛けるなど努力もしたが、そんな努力が余計に疲れた。
 しかしこの時は仕事を紹介してくれた人に申し訳ない気持ちで一杯だった。

嫌味と怒りの生活

 私の引きこもり状態が長くなり、父親は転職後ずっと仕事がうまくいっておらず、家の経済状態も悪くなっていたため、しだいに私への風当たりが強くなっていく。
なんだかんだ言っても父の会社を辞めたことも面白くはなかったようだ。
 「いいかげん働け!」「誰も好きで働いている人なんかいないんだぞ!」「早くしないと弟や従兄弟が先に働くぞ!」…と顔を見る度言われた。
 テレビに15、16歳くらいのタレントが出ていると、「こんなガキでもちゃんと働いているんだ、お前も早く働け!」…とか、私と同年代の人の活躍を紹介した番組を見れば、「ここまでならなくてもいいから普通に働け!」
…などなにかと嫌みを言われた。
 またある日、母が留守で私が変わりに食事の用意をしていると、「外でやれ!外でやれば金が貰えるんだぞ!」とか、親戚から頼まれごとがあったとき、「それぐらいやれよ!ちょっとは役に立て!」…など言われ、悔しいやら、ムカつくやら、腸が煮え繰り返る思いだった。
 しかしなにも反論は出来なかった。
「おれは死ぬほど悩み、苦しんでいるのにそれをなにもわかろうとせず、嫌みばかりぬかしやがって…」心の中で思っていた。
 父親は私のことを心配しているのではなく、自分の仕事がうまく行かない八つ当たりをしているようにしか感じられなかった。
 こんなことが二年以上続き、怒りを通り越して憎しみを抱いた。
 本気で「こいつを殴り殺して自殺してやる」と考えた。
やり場のない怒りのエネルギーを部屋の壁にぶつけて穴を空けたこともある。
 親父への恨みの遺書を書き、カーテンを首に巻いて自殺未遂を図ったこともある。
 ただ死ぬ勇気もなくて生き延びた…。
そして「今死ぬくらいなら登校拒否をしている時、おれをいじめた奴等へ当て付けの遺書でも残して自殺した方がよほど名誉ある殉職になって良かった。
 今おれが死んだところでなんにもならない。
完全な負け犬だ。
本当の敵は父親ではない。
外にいる奴等と闘わなければいけない…」と自分に言い聞かせていた。

 母親は当時ガソリンスタンドへパートに出ていた。
 父親の収入が少なく、母のパートが家計を支えていたので長時間働き、忙しくしていた。
 しかし母は嫌々働いていた訳ではなく、職場での人間関係も良く、楽しく働けていたようだ。
 母は心の問題に理解や知識はなかったが、元々明るく前向きな性格で嫌みを言うようなことはなかった。
そのおかげで母には自分の悩み、苦しみを少しずつ話せていた。
 そして少しずつ母も私のことを理解してくれていったようだ。
無職でいることもあまり責められることはなかった。
心苦しかったが、それが救いだった。
 父に対しても収入のことを責めることはなかった。
 毎日の生活はなるべく規則正しくを心掛けた。
早朝に起きて新聞、求人案内に目を通し、掃除をして読書。
読書は元々苦手だったがこの時期、精神系や人生訓の本をかなり読んだ。
 昼は一人が多かったので台所にあるものを自分で創作料理(?)して食べていた。
午後はラジオを聴きながら昼寝もしたが筋トレを続けた。
 夕方は薄暗くなってから犬の散歩。
夜は親父がいない時はテレビを観ていたが、親父がいると自分の部屋でラジオを聴いていた。
 自分一人の世界に入り、妄想していることも多かった。
別に危険な妄想ではなく(…と思う!?)地図旅行や阪神タイガースの強化案(!?)、格闘技の対戦カードをシュミレーションしてみたりの低次元な妄想だ。
 子どもの頃から今でも、私にはこの妄想癖がある。

空白と孤独の時間

 風呂は毎日入った。
ほとんど外出しないため、髪、ヒゲは伸び放題で、着るものにも神経を使わずかなり薄汚い格好をしていたが、それに気付きもしなかった。
 散髪は年二回。それもかなり緊張した。
 「こんなボサボサになるまで伸ばして変な奴と思われるかな…」など要らぬ心配をしながら床屋に行った。
 本屋、図書館にはときどき出掛けた。
そして長い引きこもり生活で視力が悪化した。
 視力は心理状態が強く影響するらしい。
引きこもりが長くなると、常に不安、焦燥感はあるが、動き出すキッカケをなくしてしまう。
 私の場合、高校を中退してからずっと引きこもりの状態では履歴書に書く学歴、職歴、資格がなにもないし、「面接でその空白の期間の言い訳をしなければならない…」と考えると、働きに出ることより履歴書を書いて面接に行くことが億劫になっていた。
 どこの誰に悩みを相談したらよいのかわからず、時間だけが過ぎていった。
 正に出口が見えないアリ地獄のような毎日だった。
そして孤独だった…。
 父親から嫌みを言われる以外、誰からも声を掛けられない。
母以外、誰にも悩みを話せない。
 登校拒否をしている時よく言われた言葉、「あまえているんじゃないか…」この言葉の意味がこの時ようやく分かった。
 あの当時は病院や児童相談所、家庭教師の先生など話しを聞いてくれる人がいた。
 「学校」という受け皿があり、そこに行かせようとみんなが必死に行動してくれていた。
それが当たり前だと思っていた。
 「友達などいらない。どうせ嫌な思いをするだけだ。
一人の方がどれだけ気が楽か…」、しかし自分は一人で生きて行けるほど強い人間ではなかった…。
 今の自分のまわりには誰もいない。
誰も心配などしてくれない。
自分が情けなく、恥ずかしくなった…。
 三年近く無職の引きこもり状態が続き、私は23歳にもなっていた。
この年、転機が訪れる。

バイトとトレーニングを始める

 母の知り合いから、近くのスーパーで行われる催事のアルバイトを頼まれた。
 「週末の2日だけ。ビラ配りなので特に条件もない」…とのことだった。
しばらく仕事から遠ざかっていたので不安はあったが「ビラ配りで2日だけなら出来るだろう…」と思い引き受けてみた。
 しかし実際仕事に行くとレジをやらされた。
「えっ!レジなんてやったことないんですけど…」「大丈夫だよ!」…と肩を叩かれすぐ開店。
忙しくて緊張する間もなく時間が過ぎた。
 慣れない仕事でミスもあったが細かいことを言われなかったので気が楽だった。
 久々の仕事で精神的に疲れたが、充実感もあったし、何よりも久々の給料が嬉しかったのを覚えている。
 そしてその後もこのアルバイトを時々紹介してもらうことになった。
 はじめのうちは1か月に1週間程度、仕事を引き受けていた。
毎回現場が変わりいろいろな所へ行った。
 短期バイトの良い所は「1週間がんばれば終わる」…と区切り、目標が持てること。
 長期間引きこもっていた自分にはよいリハビリになった。
履歴書の提出や面接がないのもよかった。
 また、この催事の仕事は細かいことを言われず、派遣される先ごとに担当者が変わり、人間関係にも気を遣わずにすんだのがよかった。
 嫌な担当者でも1週間、我慢すればおさらばだ。
他の学生やおばさんのアルバイトとも仲良く出来て、嫌な担当者の愚痴を言い合ったりして孤独になることがなかったのもよかった。
 自分が嫌だと思う奴はだいたい他の人からも嫌われているということが初めてわかった気がした。
 初めて平常心で働けた。
当時私は自分の働ける場がある事に喜びを感じ、あたり前だがまじめに勤めた。
元々仕事に手を抜くタイプではなかったがこの時は意気込みが違った。
「働くことが楽しい」…とまで感じることもあった。
  まじめに働くことで私の仕事ぶりを評価し、よくしてくれる担当者もいて少しずつ自分に自信を持つことが出来るようになった。
 常時予定の入る仕事ではなかったが、徐々に引き受ける日数を増やしていった。
仕事のない日は相変わらず家の掃除等、家事を手伝っていた。
 トレーニングも続けた。この頃から弟の勧めで公立体育館のトレーニング室を利用するようになった。
 弟は当時演劇をやっていて、公演があると何か月も家を留守にしていたが、公演がないとバイトをしながら体育館でトレーニングをしていたらしい。
 この頃は不安を打ち消すため、バイトのない日は毎日トレーニングをした。
 筋トレの他に週1回はプールで2時間泳いだり、毎日5キロのジョギングもしていた。
 「筋トレ」はあくまでも自己満足の世界でしかないのが悲しいところだ。
すごくがんばって「自分で自分を誉めてあげたい」と思うことはよくあるが、あまり他人から誉められたことはない。
 せいぜい「兄ちゃんいい身体しているねぇ」なんて言われて優越感にひたれるくらいだ。
 遊びに出掛けることはなかった。
バイトとトレーニング以外は引きこもり生活だった。
弟の影響でビデオで映画を観る機会には恵まれていた。
 しかし不定期とはいえ、バイトに出ていると、家では少し気が楽だった。
 そして2年位たった頃、この催事の仕事が常設になる店があり、そこに常勤することになった。
 毎日仕事に出ることに不安もあったが、慣れた仕事で通勤時間も1時間弱と条件が良かったのでチャンスだと思い始めることにした。
 一緒に働いたおばさんがわがままで私の休みがなくなるなど大変なこともあったが、他の売り場の人達と仲良くなり、仕事が終わると飲みに行ったりして楽しく働けた。
 私は下戸だが飲み会の雰囲気は好きだ。
本音で話しが出来るし打ち解けるには一番良い機会になる。
 カラオケに皆と行くようになったのもこの時期が初めてだった。

体験記・森田はるか・引きこもり模索日記(1)
体験記・森田はるか・引きこもり模索日記(2)
⇒体験記・森田はるか・引きこもり模索日記(3)
体験記・森田はるか・引きこもり模索日記(4)
体験記・森田はるか・引きこもり模索日記(5)
体験記・森田はるか・引きこもり模索日記(6)
体験記・森田はるか・引きこもり模索日記(7)

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