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体験記・森田はるか・引きこもり模索日記(5)

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目次

引きこもり模索日記(その5)

著者:森田はるか(男性・東京都) 

「人生模索の会」の結成

 そんな状況の中、松田さんから連絡があった。
個人情報誌の反響に対する問い合わせと、「その人達と実際会ってみる機会をつくったらどうか?」…というものだった。
後日、当時「通信制高校生の会」の立ち上げを準備していたK君と松田さんを訪ねた。
1999年8月のことだ。
松田さんを訪ねる少し前、私はある別の「引きこもりの自助会」に参加していた。
その会もまだ始まったばかりの会であったが、私は正直、あまりよい印象を持てなかった。
病的な人が多く、また話し合いの中では、「普段は暇だからパチンコに行っている」「嫌なことをしてまで無理に働きたくない」「金がなくなれば働きに出る」 …などまるで危機感のない人がいて、「こんな奴等と一緒にされたくない!これが引きこもりの実態?」…と失望していた。
さらにこの会はインターネットや病院のデイケアなどですでに人間関係が出来上がっていて、一人で行くと入り難い感じがした。
その辺りのことを含めて松田さんに相談をした。
松田さんは「ある程度病的な人、主旨の違う人が来るのは仕方がない」…と答えた。
病的な人とは、統合失調症(精神分裂病)、障害者的な人のことだが、これは差別ではなく区別だ。
精神病や障害者には病院やデイケア、作業所など他にも受け皿がある。
しかし、当時はまだ引きこもりの当事者、経験者の集まりが少なかったので、私は「引きこもりの人の集まり」をつくりたかったのだ。
また問題の解決を求める場ではなく、同じ悩みや経験を持つ人同士が出会い、知り合い、経験者にしかわからない悩みを話し合う場にしたいと考えていた。
それに医師やカウンセラーなど専門家を置くつもりはなかったので、なにか問題が発生した場合のことも心配した。

 会をつくるにあたり、松田さんのアドバイスでまず形から入ることになった。
「まず会の名前を決めよう。どんな人に集まってもらう会なのか…?」私と松田さんの話を聞いていたK君が、「以前ある人が<人生模索中の会>というのをやっていたけど、なにも活動せずに止めてしまった。その名前をもらったらどうですか?」と言った。
「それいただき!」会の名前は少し変えて「人生模索の会」に決まった。
最初の募集要項は、
・20代後半で引きこもり、対人不安、神経症で悩む人、又は経験者。
・働きに出たい気持ちがある人。
・同じ悩み、経験を持つ知人、友人を求める人。
以上のうちいくつかの条件を満たしていれば良い。
…というものだった。

模索の会と二次会スタート

 99年秋、「人生模索の会」初会合を不登校情報センターで開いた。
当時の不登校情報センターは東京、大塚の1Lマンションの一室だった。
初会合には私とO君K君を含め、10人弱の人が集まった。
松田さんがまとめて話しを進めたが、はっきり言って松田さんは「青年期の引きこもり」をよくわかっておらず、ハッキリ言って的外れな話をしていた。
挙げ句の果てには、参加者の一人が松田さんに身の上相談を始めてしまい、それをみんなが聞いている、まるで他の参加者には意味のない、罰ゲームのような場になってしまった。
この会合の帰りにはO君と反省会をした。
「もっと参加者同士が話し合える時間が必要では…?!」という意見だった。
松田さんも後に「この集まりは難しかった」と言っていた。
しばらく期間を取って、また個人情報誌に告知をした。
そして2000年2月、二回目の「人生模索の会」会合を開催した。
この時は個人情報誌の反響の後すぐに会合をやったこともあり、返信のあったほとんどの人、やはり10人位が集まった。
初めは前回同様、松田さんが話を進めた。
その話し合いの中では「訓練を兼ねて、収入につながる会社みたいなものが出来ないか?!」…という話が出た。
松田さんはえらくこの提案が気に入ったようだ。
この提案に批判的な意見はなかったが、他の参加者からは「そんな話し合いを期待して来たのではない。ここは同じ悩みや経験を持つ人同士が知り合える貴重な場なのだからもっと参加者同士で話し合わせて欲しい」…という意見があった。
さらに参加していたO君が、「今日ここに前回参加していた人は誰も来ていない。このまま松田さんの話を聞いて解散では次に来る人は誰もいないと思いますよ」…と言った。
松田さんは気を遣って話をしてくれていたと思うが、この意見は的を射ていた。
その後は参加者同士で自由な話し合いになった。
予想以上に盛り上がり、本編終了後は近くのファーストフードで二次会もやった。
「筋トレと武道、どちらが心と身体の健康に有効か…!?」みたいな、たわいのない話で盛り上がった。
このファーストフードでの二次会はその後しばらく「人生模索の会」の定番になった。
本来なら酒でも飲みに行きたい所なのかもかもしれないが、引きこもりの人は基本的に貧乏なので、金銭的負担を考えると必然的にファーストフードで落ち着いたのだと思う。
こうして2回目の会合はそれなりにうまく行った。

親、学生、マスコミの人が入って・・・

 その後、松田さんがこの日の様子を新聞に投稿した。
その反響を受けて、「引きこもり体験発表会」をある会場で行った。
この「発表会」には当事者、経験者のほか、その親も多く参加していた。
うちの両親は私や引きこもり問題に全く無関心だったので、子どものために奔走する親たちには複雑な気持ちになった。
しかし親だけが参加している場合、その子どもの状態を聞くと引きこもりの域を越えて、統合失調症(精神分裂病)的な状態にある人が多いように感じた。
「昼間は部屋をカーテンで真っ暗にして一歩も出ず、夜になると一晩中手を洗っている」とか「盗聴器が仕か掛けてあると言って壁に穴を空けた」とか「荒唐無稽なことしか言わない」など…。
しかし当事者、経験者の人達からは「病院に行く必要はない」「子どもの言うことをなんでも聞いてあげて…」など、やや疑問に感じる答えをしていた。
しかし親たちは自分の子どもが悪く言われないことでご機嫌そうだった。
会に参加する当事者、経験者は、比較的状態の良い人が多いので「自分の子どももいずれこうして回復する…」と期待するのかもしれない。
親を交えた交流会はその後もあったが、私はある時ある親に「それはここに来るより、病院や保健所に相談へ行った方が良いと思いますよ…」と言ったことがある。
その親は気分を害したようで席を立ってしまったが、私は自分が間違っているとは思わない。
一括りに「引きこもり」ではなく、一人ひとりへの対応が必要だと思う。
それに引きこもりに限らずドロップアウトした子どもを持つ親は「自分の子どもはこんなはずではない…」と現実逃避している親が多いと思う。
もっと現実の子どもと向き合って欲しい。
しかしある人に聞いた話では、医者の中にも良い医者、悪い医者がいて、相性もあるので「自分にとっての良い医者」に出会うためにはいろいろな病院尋ねる努力も必要らしい。
その後は松田さんが「人生模索の会」を主催していたが、会合には引きこもりの当事者、経験者だけではなく、心理学や教育学を勉強している学生やマスコミの人が参加することもあった。
しかしこれはかなり評判が悪かった。
なんの社会経験もない学生が、年上の引きこもり当事者、経験者に対して偉そうに話をしたり、「引きこもりの人を助けてあげたい、友達になってあげたい」 …など見下した態度で参加する人がいた。
この事を松田さんに話すと「私の所には不登校や引きこもりについていろいろな人から問い合わせがある。それを私の口から説明するより、実際その人が本人たちに会って話を聞いて貰った方がわかりやすいと思っている」…と言うものだった。
松田さんの考えもよくわかる。
だが「引きこもり経験者の会」としてやっている会に当事者、経験者以外の人がいれば嫌な人もいる。
こっちは本来、絶対に知られたくない嫌な経験を赤裸々に話しているのだ。
それを当事者、経験者以外の人に、まして興味本位で来る人に話したくない、知られたくない人もいるはずだ。
その後はしばらく、学習目的の学生やマスコミが参加する時は、事前にメンバーへ通告してもらうことで落ち着いた。

定例会にやってくるいろんな人(!?)

 その後参加者が増えてくると、毎週水曜日に不登校情報センターで「人生模索の会」は開かれた。
私自身、ここで多くの人と知り合い、友達も出来てとても有意義な時間を過ごせたし、松田さんには貴重な時間と仕事場を割いてもらい大変感謝していた。
会合には毎回10人前後の参加があったと思う。
当初はまず5、6人でグループ分けをして、自己紹介から始まり、そこから話を掘り下げて話し合う形だった。
自己紹介は初めの頃は緊張して嫌なものだったが、私を含め毎回参加している人はだんだん慣れて、自己紹介ばかりがうまくなっていた。
学生時代の話やこれまでに経験した仕事、資格についてなどの難しい話から、音楽や映画など、趣味の話をしていた。
アイドル、格闘技、鉄道などいかにも「引きこもり」的な趣味の話もあるが、これは別に普通の会話だと思う。
音楽好きの人も多い。映画の話題も普通の会話だ。
アルバイトや就職活動、履歴書の書き方や面接での対応方法なども話し合われた。
おおかたは「引きこもりの空白期間は詐称した方が良い…」という意見だった。
また短期や派遣バイトの有効性は共通した意見だった。
「今は場慣れするためにいろいろな会社へ面接に出かけている…」という人もいた。
自分とまったく同じ経験者とは出会ったことがない。
また一口に「引きこもり」と言ってもいろいろな人がいてとまどうこともあった。
「人生模索の会」は問題の解決を求める場ではなく、あくまでも自助グループなので親睦会の域を出なかった。
しかし私は「自分の<引きこもり>という経験は一切カミングアウトせず、一生封印して生きて行かなければいけない」…と思っていたので、自分の経験を話せる場があるだけで心の開放となり有意義であった。
私的にはそれで充分だったが、(それにしては会の名が重過ぎるという意見もあったが)具体的な答え、問題解決を求める人もなかにはいたようだ。
私は以前、医者に「自分で意識し行動しなければ自分を変えることは出来ない」…と言われた。
そのことをある人に話すと「そうゆう無責任で不親切な医者もいるんだよね…」と言われたことがある。
しかし私はこの医者の言うことは正しいと思う。
医者やカウンセラーは悩みを聞き、問題解決へのヒントはくれるかもしれない。
しかし本人に代わって悩みを解決することは出来ない。
重い神経症やうつ状態の人は別だが、ある程度社会参加が出来る人は依存するのではなく、自分の意志で社会に戻るという意識が必要だと思う。
実際「引きこもり」の人の中には依存の強い人が多く困ることがある。
こっちの都合を考えずに真夜中や早朝に電話をかけてきて身の上話をしたり、留守電に自殺をほのめかす伝言を入れて、私が慌ててコールバックをすると長話しをしたりと非常に不愉快な思いもした。
また私が忙しい時などは電話に出られなかったり、手紙の返信が遅れたりしたが、そうすると「貴方はもうすっかり偉くなり、忙しくて私の相手などしている暇はないようなのでもう連絡はしません」…と嫌みっぽいことを言われたこともある。
こういう人は友達という存在にいったいなにを期待しているのかと良識を疑う。
また立ち直って社会復帰していく人や会の中でうまくやっている人へ妬みを持つ人もいる。
精神的に成熟できていないのが原因で気持ちがわからないこともないが、そうゆう人にはもっと前向きになってほしい。

『ひきコミ』の発行の準備のころ

 この頃、「引きこもり」が世の中に知られるようになる嫌な事件も続発していた。
「引きこもり」は病的、犯罪予備軍的なものとして取り上げられ出した。
私は残念で悲しかった。
「30代無職男の凶行」などの記事が新聞、雑誌を賑わすと周りの目が気になったりもした。
「引きこもり君、30代無職君。おれも気をつけるから犯罪だけは犯さないでよ!」本気でそんな気持ちになった。

 それから松田さんは引きこもり、対人不安の人を対象にした個人情報誌『ひきコミ』発行へ向けた準備を進めていた。
松田さんは『ひきコミ』の編集作業に引きこもり経験者を採用しようと考えたようだ。
これは以前に会合で話し合われた「訓練を兼ねて収入につながる会社みたいなもの…」を実践する一つの試みであった。
そして不登校情報センターには「人生模索の会」の他に『ひきコミ』編集作業員として関わる人も多くなった。
それからしばらくして、「人生模索の会」ではある参加者の呼び掛けで、ボーリングやカラオケ、飲み会等をやるレクリエーション活動が始まった。
このレクリエーション活動は松田さんも呼びかけたため、「人生模索の会」のメンバーだけではなく、『ひきコミ』編集作業員や「こみゆんとクラブ」時代からのメンバーも参加した。
レクリエーション企画には毎回20人以上の参加があった。
多くの人が参加して盛り上がり、傍目には普通のサークルやコンパと変わらない、とても「引きこもり」や「対人不安」の人達の集まりには見えなかったと思う。
しかしその後多くのトラブルが発生した。
このレクリエーション活動は遊びを通して親睦を深める、楽しむことが目的だったので、引きこもりに限らず多くの人に参加してもらうのはよいことだと思っていた。
しかしこの活動から、この会を遊びの会と勘違いした「引きこもりではない人」までが「人生模索の会」に入るようになった。
当初は問題行動もなく静観していたが、「ナンパ目的だけで来ている人がいる…」という話はあった。
その後『ひきコミ』発行ヘ向けて、マスコミへの宣伝活動が活発になり、会合には常時20人以上が集まる状態になっていた。
この頃の会合は初めから終わりまでずっと雑談形式になっていた。
2000年12月『ひきコミ』1号が発行され、それからはさらに参加者が増大した。
1Lマンションの一室はまさに足の踏み場もない、息苦しいほどの人数でごった返した。
私はちゃんとした受け皿もないまま募集を続けることに疑問を感じた。
そこで「引きこもりではない、遊び目的で来ている人は自分で別に会をはじめるようにしてくれないか…」と松田さんに相談をした。
しかし松田さんの答えは「ある程度主旨の違う人が来るのは仕方がない」…であった。
また「<引きこもり>に限定して閉鎖的になるのもよくないのでは?」…という意見も参加者の中からあった。
個人的には、一般の人と付き合いたい人はバイトに出るなり、世の中にいくらでもある遊びサークルに行くなりすればいいと思ったが…。
松田側さんに事情があったのもよくわかる。
松田さんにとって「人生模索の会」は仕事の延長線上のボランティアの部分であり、これ以上仕事を犠牲に出来ない事情があったと思う。
マスコミからの取材もあり、人が集まっている実績も必要であったのだろう。
しかし当時の「人生模索の会」はとても引きこもり、対人不安の人のための集まりとは言えなかった。
「引きこもり」を知らない人が見れば、良くも悪くも「引きこもり」の印象が変わるほど多くの人で盛り上がっていた。
良く言えば明るく活発であった。
しかし数回来ただけの人の中には雰囲気に馴染めず、余計に自信をなくして帰った人もいたと思う。
「明るく積極的な人は得をして、おとなしく消極的な人は損をしてしまう」こんな社会の縮図のようなことが「人生模索の会」にもあったことは非常に残念だった。

体験記・森田はるか・引きこもり模索日記(1)
体験記・森田はるか・引きこもり模索日記(2)
体験記・森田はるか・引きこもり模索日記(3)
体験記・森田はるか・引きこもり模索日記(4)
⇒体験記・森田はるか・引きこもり模索日記(5)
体験記・森田はるか・引きこもり模索日記(6)
体験記・森田はるか・引きこもり模索日記(7)

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