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統合失調症

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統合失調症

マハリシ総合教育研究所 札幌センター (北海道札幌市豊平区)
さくらカウンセリング室(訪問) (茨城県笠間市)
ヒヨドリ医院 (茨城県ひたちなか市)
癒しの音楽院(メンタル相談) (東京都杉並区)
ナチュラルクリニック代々木 (東京都渋谷区)
原田成志 心理相談室 (東京都文京区)
アララギ学院(メンタル相談) (神奈川県横浜市中区)
1/f(F-ONE)医学研究所 (神奈川県横浜市港北区)
メンタルサポート Network (静岡県富士市)
和田心理カウンセラー (静岡県静岡市葵区)
京都カウンセリングルーム (京都府京都市中京区)
阿山メディテ研究所 (兵庫県神戸市中央区)
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周辺ニュース

ページ名統合失調症、、()
母は統合失調症、32歳女性の苛酷な過去と今
「中学卒業までは、統合失調症の母とふたり暮らしをしていました。
症状が悪化し、妄想にとりつかれて暴れたりする母に『おかしい』と言うこともできず、こらえきれず学校の先生に話しても、『せっかく生んでくれた母親にひどいことを言うなんて』と責められたこともあります」
取材応募フォームから届いた、ある女性のメッセージです。
親が精神疾患を持つとき、子どもはどんな生活をして、どんな困難を抱えているのでしょうか。
女性と待ち合わせたのは、山手線の駅近くにあるレトロな喫茶店でした。
素朴な雰囲気の人で、話しやすく初めて会った気があまりしませんでした。
■“生活”というものをもったことがない
石崎祐実さん(仮名)、32歳。5年ほど前にある資格を取り、専門職に就いています。
母親は、祐実さんのものごころがついた頃から統合失調症でした。
統合失調症というのは、脳の働きのバランスが崩れ、妄想や幻聴などの症状が出る病気です。
珍しいものではなく、100人に1人弱がかかるといわれ、日本にはいま約77万人の患者がいると推計されています(平成26年厚生労働省・患者調査)。
症状の度合いは人によって異なりますが、祐実さんの母親は重いほうでした。
しかも、家族は母親と祐実さんのみ。
父親は医者ですが、祐実さんが生まれてすぐ母親と別居し、小学校のときに離婚しています。
祐実さんはずっと、病気の母親とふたりきりで暮らしてきました。
父親は養育費だけはたっぷりと払ってくれたものの、その後再婚したこともあってか、祐実さんの生活にはほとんどかかわろうとしませんでした。
母方の祖父母や親せきもあまり近くにはおらず、かつ「母を疎ましがっていた」ため、祐実さんは大変孤立した状況にあったのです。
「母はずっと薬の副作用で寝ているんですが、隣の(母の)部屋からうめき声がしたり、何か訳のわからないことを言い出したり。
聞かないように、私はずっと本や漫画を読んだり、音楽を聴いたりしていました。
食事を作ってもらったことは、ほとんどないです。
小学校中学年の頃からずっと、毎日千円を渡されて『これでどうにかしなさい』と。
近所のスーパーやコンビニでお弁当を買ったり、ファミレスで一人で食べたりしていました。
だから私は、ちゃんと朝起きてご飯を食べて、学校に行って帰ってきて、みんなと遊んで、勉強して寝る、みたいな“生活”というものを一度も送ったことがなくて。
症状がひどいときは、母は『自分のお金を盗まれている』という被害妄想を抱いて、口座があった近くの郵便局に怒鳴り込んだり、警察に行ってワーッと喚いたり。
近所の人は『あの家の子どもだ』という目で私を見ます。
悪化したときは、妄想にとりつかれて暴れることもありました。
だから、いつも緊張していました。子どもではいられないんですよね」
簡単に「大変だったね」などとは言えない、想像を超える状況です。
子どもにとってはネグレクトに近いでしょうが、母親も好きで病気になったわけではなく、責められないのが辛いところです。
周囲の大人は、祐実さんの状況を、理解してはくれませんでした。
「『母がおかしいんだ』ということを、私は人に言えないわけです。
母は、いつも目に見えておかしいわけじゃなく、学校の先生と接するときだけはわりと普通だったりする。
そういうときは本当に、ただの穏やかなお母さんなので、私が母のことを言うと『あんなにいいお母さんなのに、なんてひどいことを言うんだ』と言われてしまいます」
母親が入院した際は、一時保護所に入ったことや、養護学校(現・特別支援学校)に行ったこともあります。
一度は児童養護施設に入る話も出ましたが、これは祐実さんが拒否したそう。
小学校は、ほぼ不登校でした。
「学校にはたまに行く」という程度で、たくさんしていた習い事も「行ったり行かなかったりだった」といいます。
「高学年の頃からリストカットが始まりました。
当時のことは断片的にしか覚えていないんですけれど、その頃に考えていたのは、『自分が死ぬか、お母さんを殺すか』。
とにかく母親と離れたかった。
何もかもが、嫌だったんです。
母親が近所に行って問題を起こすのも、そのわりに学校の先生と会うときだけ調子がよかったりするのも、家でずっと寝ているのも、嫌だった。
母といっしょに外を歩くと、みんなに見られる視線も嫌でした」
母さんは病気なんだから、そんなことを言わないであげて――。
祐実さんが、さんざん言われてきたことです。もちろんお母さんも病気になって辛かったことでしょう。
しかし、いくらお母さんが辛かったとしても、祐実さんの損なわれた日々が、帳消しになるものでもありません。
■母の主治医が最大の理解者だった
祐実さんの子ども時代に支えとなったのは、母親が通う精神科の主治医でした。
主治医はクリニックの一部を開放し、患者やその家族が「用もなく集まれる場所」にしており、祐実さんもそこで話すことができたのです。
「母の主治医の先生には、いろんなことを教えてもらいました。
当時私も不眠症の傾向があったので、弱いお薬を出してもらったこともあります。
私のことも心配してくれていたんでしょうね。
小学校高学年からは、その先生がつくった劇団が、私にとって『自分の居場所』になりました。
母とふたりだけの家以外に居場所をもてたことは、私の人生において救いでした。
もし家だけだったら、私は壊れていたかもしれない。
この先生には非常に感謝していて、『育ての父』と呼んでいたこともあるくらいです」
患者だけでなく、その家族、とりわけ子どもの立場にもしっかりと目を配ってくれる医者に出会えたことは、祐実さんにとって不幸中の幸いといえるでしょう。
フラットな立ち位置で患者や家族とかかわってくれる医者は、一般的にまだ、決して多くはなさそうです。
「中学を出て一人暮らしを始めたのですが、たまたまこの先生と再会したことがあって。
ニヤリと笑って『孤独だろう?』と言われたことを、よく覚えています。
私をあまり子ども扱いしなかったんですね。
そのことが、ボロボロだった私の自己肯定感をすごく支えてくれていました。
小学校のとき、私が間違った期待をしないように、母の状況をちゃんと説明してくれたことにも感謝しています。すごくいい理解者でした」
大人たちはしばしば「子どもには残酷だ」として、重要な情報を子どもから遠ざけがちですが、情報を知らずに悲しい思いをするのは結局、子ども自身だったりします。
母の担当医は、相手が子どもでもひとりの人間として対等に扱うことを、当然と考えていたのでしょう。
■ひとりで暮らそうとするも、多くの障害が
小学校を出た後、祐実さんは母親のもとを離れたい一心で、寮がある中高一貫校に入学します。
しかし人間関係をうまく築けず、寮を出ることに。
中学卒業時にようやく部屋を借りて家を出たのですが、残念ながら学校が一人暮らしを認めていなかったため、高校への進学はあきらめました。
中学を卒業し、その年のうちに予備校に通って大検に合格。
以降はバイトをしながら舞台にかかわる日々を送ります。高校3年にあたる年には、再び予備校に通って大学に合格し、東京へ。しかし、父親の言いつけに従い「苦手な理系」に進んだため単位が取れず、大学は中退することに。
精神状態が悪くなったのは、20代に入ってからでした。きっかけは腕の神経損傷でしたが、幼少期からたった一人で生きてきた疲れが出たのでしょう。「エネルギーが尽きた」状態だったといいます。
その後、数年の辛い時期を経て、とあるボランティア活動を機に浮上。難しい資格試験に独学で合格し、現在の生活に至ります。
「父親の経済的な援助のおかげで、お金に困ったことはなく、それは確かにありがたいと思っています。でも私はやっぱり、父に身近にいてほしかった。お金だけ払って“親”という顔をするんじゃなくて、いちばん辛いときにちゃんと“親として”いてほしかった。
精神状態が悪かったときは、父に電話すると疎ましがられてすぐ切られたし、数年前に私が手術を受けたときは、家族の同意が必要で父に住所を尋ねたんですが、教えてもらえなくてショックでした。
やっぱり、許せないですよね。父は母と離婚してしまえば、あとはほかの人に安らぎを求めることができたわけです。実際、再婚もしている。でも私はそうじゃない。父親は私に、『あなたのお母さんなんだから、優しくしなさい』と言うけれど、『あなたは自分で選べたけれど、私は自分で選んでいないのよ』と思います」 感謝はある。でも、許せない。私が聞いても、それは当たり前だと感じます。実の父親に対する祐実さんの思いは、いまも複雑です。
いま、祐実さんのいちばんの悩みは、パートナーとの結婚や、子どもを持つことについてです。年齢的なリミットを考えると、早めに子どもをもちたい気持ちはありつつ、心配になることも。相手の親の反応も、気になるところです。
■どうしようもない「普通」へのあこがれ
祐実さんは最近、みんなもう少し、想像力をもってほしいと感じることが多いそう。
「厳しい状況にある人に対して『自己責任だ』と言う人がよくいますよね。あれを見ると、『ああ、いいおうちでお育ちになったんですね』と思います。『あなたも、ものごころがついたときから15年間、統合失調症の親とふたり暮らしをしてごらんなさいよ』って。
あとは、テレビで一時保護所の子どもの様子を見て『かわいそうよね。まともな大人にならないのでは?』といった感想を、私の前で言う人もいますけれど、『あなたの目の前にいるのが、その施設にいた人ですよ』と(苦笑)。
『おまえ、統合失調症なんじゃないの?』とか『アスペルガーじゃない?』とか、簡単に言う人にも腹が立ちます。私自身、精神状態が悪かったこともあるし、集団生活になじめなかったりして生きづらさを感じていて、つねに『自分も何かの病気ではないか』という不安と闘っているので。
ちゃんと理解してほしいとは思わない。ただ、せめて『該当する人がいる可能性』を、もうちょっと知っておいてほしいです」
言っているほうは、悪気はないのでしょう。しかし聞かされるほうは、いたたまれないことがあります。知識や情報を持たない発言が誰かを傷つけてしまう可能性を、私たちは忘れずにいたいものです。
「大概のことにあきらめがついたいまでさえ、どうしようもなく、『普通』というものにあこがれるときがあるんです。たとえば、同世代の人が結婚して、子どもを産んで家庭をつくって、という姿をみると、そっちのほうが『普通』で、偉いように感じてしまう。どうしてでしょうね」
「普通」への、どうしようもないあこがれ――。ほかの人に対してだったら、「別に、普通じゃなくてもいいじゃない」と軽く言ってしまうところですが、これだけ過酷な状況を生き抜いてきた祐実さんに、それを言うことはできませんでした。
〔2018年12/3(月) 大塚 玲子 編集者、ライター、ジャーナリスト 東洋経済オンライン〕

周辺ニュース

ページ名統合失調症、、(生活困窮者のニュース)
生活保護が命綱、幻聴に悩む31歳男性の苦境
少年院や刑務所に複数回にわたって収容されたことがあるというコウキさん(編集部撮影)
現代の日本は、非正規雇用の拡大により、所得格差が急速に広がっている。
そこにあるのは、いったん貧困のワナに陥ると抜け出すことが困難な「貧困強制社会」である。
本連載では「ボクらの貧困」、つまり男性の貧困の個別ケースにフォーカスしてリポートしていく。
今回紹介するのは、「現在、生活保護受給者です。仕事もドクターストップされていてできません。非常に生活苦で困っています」と編集部にメールをくれた31歳の男性だ。
■四方八方から聞こえてくる声
「コウキ、コウキっ!  こっち来いよ」「お前なんか死んじまえ」――。
深夜、東京都内にあるネットカフェの一室。最初は店員に呼ばれたのかと思ったという。
しかし、違った。コウキさん(31歳、仮名)が幻聴に悩まされるようになったのは、今から5年ほど前。
行く当てがなく、ネットカフェで寝泊まりしていたときだった。
四方八方から聞こえてくる声は、男性であることもあれば、女性であることもあった。
たいていは罵倒や悪口だったという。
「毎晩2~3時間しか眠れない日が続いていたんです。そこにヘンな声まで聞こえてくるようになって……。俺の頭がおかしくなったのかと思いました」。
仕事ができなくなり、たちまち持ち金が底をついた。このため、生活保護を申請。
窓口のケースワーカーに幻聴について相談したところ、医師の診察を受けるよう勧められ、そこで統合失調症と診断された。
「そんな名前の病気があるんだ、と思いました」。
ここ数年は、生活保護を利用しながら、行政の保護施設などで暮らしてきた。
投薬により幻聴は収まったが、不眠は処方薬を変えても一向に改善されない。
コンビニエンスストアで働いてみたが、体力が持たず、続かなかった。
最近は、担当医から「睡眠不足で働くと、事故やケガにつながるから」と仕事に就くことを止められているという。
首都圏のある地方都市で育った。幼い頃に両親は離婚、父親が兄とコウキさんを引き取った。
元はいわゆる荒れた地域で、通っていた公立中学校では、他校の生徒たちが集団で押し掛けて暴れたり、正門前でパトカーが待機したりしている光景が当たり前だったという。
コウキさんはその中学校でいじめに遭った。殴られ、蹴られ、カネを脅し取られる――。
「河川敷で(同級生たち)10人くらいから『死ね』『消えろ』と言われて、川に突き落とされました。二の腕とか、背中とか、いつも(殴られてできる)青タンがありました。いじめのきっかけですか?  本当にわからないんです。でも、俺以外にターゲットになっていた子も特に理由なんてなかった。子どものいじめなんてそんなものだと思います」
どこかひとごとのような、覚めた口調で振り返る。
家から10万円を持ち出した時、周囲の大人たちもいじめについて知るところとなった。
しかし、担任教諭は「そんなのお前が悪いんだろ」と言っただけ。
いじめられるお前も悪いという意味なのか、脅しに屈するお前が悪いという意味なのか――。今もわからない。
学校側はコウキさんに保健室登校をさせたが、いじめを止めてはくれなかった。彼はついに不登校状態に。
後に自分のことを統合失調症と診断した医師からは「発病の原因はこのときのいじめにあるのではないか」と言われたという。
「学校が唯一熱心にやってくれたことは、俺を転校させることでした」とコウキさん。
結局、別の中学に転校。その後、定時制高校に進むも、数カ月で退学した。
「(学力水準が低い学校で)いつもクラスの半分以上が欠席。先生もしょっちゅう授業を自習にしちゃう。だったら、行っても意味ないなって……」。
父親が買ってくる食料品などにはたいてい値引きシールが付いており、「貧乏な家だったと思います」。
一方で大学に進学しなかったのは「俺の勉強ができなかったから」という。
■ミスをするたびに「損害分」が給料から天引き
高校中退後は、アルバイトとして働いた。中でもコンビニは、セブン-イレブンやローソン、ポプラなどあらゆる店舗に勤めたという。
そこで横行していたのは、ミスをするたびに「損害分」が給料から天引きされたり、罰金として徴収されたりする悪しき習慣だった。
飲料やデザート類を補充中に落として缶やケースをへこませたとき、レジの金額が売り上げと合わなかったとき、万引きによる被害が生じたとき、ホットスナックなどを入れ忘れたとき――。
そのたびに相当額を給料から差し引かれるのだ。その額は月3万円に上ったこともあった。
コンビニのアルバイト経験者からは、給料からの天引きや罰金徴収、商品の買い取り強制といった話はたびたび耳にする。
しかし、仮にミスがあったとしても、給料からの天引きは違法である。
また、損害賠償請求も、労働者側に相当の過失がなければ認められない。
「大学や専門学校が多い地域の店舗では、込み合う時間帯によく万引きをされました。でも、人手が少ないので、店内を見回る余裕なんてない。人を増やさないかぎり、被害は防げないのに、いつも俺らバイトが被害額を(折半して)負担させられました」
長時間労働を強いられた職場もあった。
2週間休みなしや、深夜から翌日夕方までの連続勤務はざら。
一度出勤中に過労で倒れ、救急車で搬送されたことがあった。
このときは店長から携帯に連絡があり、「早く来い。救急車で連れてきてもらえ」と怒鳴られたという。
見かねた救急隊員が携帯を取り上げ、逆に店長をしかりつけたので、コウキさんは病院で治療を受けることができた。
しかし、後日、店長から、この日は急きょ派遣スタッフで穴埋めをしなければならなかったと言われ、「罰金」2万円を請求された。
私が、労働基準監督署や個人加入できるユニオン(労働組合)に相談しなかったのかと尋ねると、「そういう方法があることを知りませんでした」という。
■「おカネがなくても入居できます」
これ以上、地元にいてもろくなことがない、環境を変えたい――。
20歳を過ぎ、そんなことを思っていた矢先、SNSで都内のあるゲストハウスが「おカネがなくても入居できます」という旨の宣伝をしているのを見つけた。
着の身着のままで足を運ぶと、管理人から「まず生活保護を受けてください。それが入居の条件です」と説明された。
言われるまま、自治体の窓口で生活保護を申請。
担当者からは、申請までの経緯を尋ねられたものの、働くよう促されることなどはなく、支給はすんなりと決まったという。
コウキさんはしばらく月十数万円の生活保護を受け、ゲストハウスはそこから家賃を徴収した。
しかし、支給日に窓口で出会うのが高齢者や身体の不自由な人が多いことに気が付き、しだいに健康な自分が生活保護を利用することに「うしろめたさ」を覚えるようになったという。
このため、コンビニで働き始めたが、過重労働のせいで体調を崩して辞めた。
失業中、ゲストハウス側から「ハウスの清掃をするなら、家賃を相殺してあげる。ただし、役所には内緒にするように」と言われた。
違和感を覚えながらも、従ったという。
典型的な貧困ビジネスである。
ホームレスや失業者に声をかけて生活保護を申請させ、法外な家賃や食費を搾取する――。
コウキさんが東京に移ったちょうどその頃、こうした共同住宅やゲストハウスが社会問題になり始めていた。
私がそう指摘すると、コウキさんは戸惑うようにこう言った。
「生活保護の仕組みも意味もよくわからなかったんです。初めてのことだったし。あのときは、ずいぶん簡単におカネがもらえるんだなと驚きました。今考えてみると、申し訳ないと思います。でも、積極的に貧困ビジネスの片棒を担いだ、というわけじゃないし……」
コウキさんはこれまで恐喝や放火未遂などで、少年院や刑務所に複数回にわたって収容されたことがあるという。
バイト先の上司から受けたパワハラの仕返しにカネを脅し取ったり、給料天引きに嫌気が差してコンビニを辞めた日、むしゃくしゃして段ボールに火を付けたり――。
「今は後悔と反省しかありません」。
10年前、コウキさんが地元を離れたいと思ったのは、刑務所を出所した直後。
犯罪を繰り返すにつれ、父親や兄との関係が悪化したからでもあった。
5年前にネットカフェで初めて幻聴が聞こえたのも、刑務所から出たばかりのことだったという。
一方で、コウキさんの物腰や口調は終始穏やかだった。
喫煙者と聞いていたが、私がたばこを吸わないと知ると、長時間にわたる取材にもかかわらず、1度もたばこに火を付けようとしなかった。
■「生活保護は俺の命綱です」
コウキさんは「ストレスを限界までため込んで、爆発するところがあるみたいです」と自身を分析する。
そして、家族への気持ちをこう打ち明けた。
「父親からは『いつか人を殺すんじゃないか』とあきれられたけど、俺からは(育ててくれたことへの)感謝の気持ちしかありません。
兄は、連絡先を聞いても教えてくれません。でも、それも俺のせいだから、仕方ないです」
取材中、コウキさんが薄い色が入った眼鏡を外し、目元を見せてくれた。どす黒いクマがあった。
「昨日も眠れなかったんです。昼間は頭が痛くて、気持ちが悪くなります。働けない体になって初めて生活保護がどんな人に必要な制度なのかわかりました。生活保護は俺の命綱です」。
誰のせいなのか、という話をするならば――。
彼が犯した罪は別にして、悪いのは、いじめの加害者であり、それを放置した学校や教師であり、アルバイトから搾取する会社であり、生活保護を食い物にする貧困ビジネス業者である。
不当な働き方を強いられたときには、行政機関や労働組合に相談するという手段があるし、生活保護の利用中に収入申告しないことは不正受給である、と指摘することは簡単である。
しかし、彼はこれまでの人生の中で、どこでそれらを学べばよかったのか。
つい先日、コウキさんは担当ケースワーカーと相談し、行政の保護施設から賃貸アパートへと引っ越した。
社会復帰に向けた第一歩である。
まだカーテンもない室内は、どこか心もとない。室内にあるのは、布団一式とわずかな衣類だけ。
隅にはコンビニ弁当の空箱が5、6個積まれていた。
洗濯機がなく、手洗いして窓際に干したというタオルからは生乾きのにおいがする。
とにもかくにも、コウキさんの新たな生活が始まった。
本連載「ボクらは『貧困強制社会』を生きている」では生活苦でお悩みの男性の方からの情報・相談をお待ちしております(詳細は個別に取材させていただきます)。こちらのフォームにご記入ください。
〔2018年6/27(水)東洋経済オンライン 藤田和恵 :ジャーナリスト〕

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