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Center:165-文学は何を表現するものか

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文学は何を表現するものか

F.エンゲルスは『原始キリスト教史によせて』(1894年、大月書店『マルクス・エンゲルス全集』22巻)のはじめにこう述べています。
「原始キリスト教の歴史は、近代の労働運動との注目すべき接点を提示する。後者と同じく、キリスト教は発生時には被圧迫者の運動であった。それが最初に現われたのは、奴隷および被解放奴隷の、貧者および無権利者の、ローマによって征服または撃破された民族の宗教としてであった。両者は、キリスト教も労働者社会主義も、隷従と困窮からの到来まぢかい救済を説く。キリスト教はこの救済をば、死後のあの世の生活に、天国に、社会主義はこの世に、社会の変革におく」(445ページ)。

人間はその生きている時代の制約を超えることはできないものです。
日本の代表的な古典文学が示しているものは、その時代の葛藤から逃げまいとして、その時代的な制約のなかでなし遂げたことです。
それは小児的な理想でもなければ空想の空文句でもありません。
エンゲルスはそれが文学だけのものではないこと、世界的な規模で生じていることを示唆したのです。
日本の古典文学の作者たちにはそういう意識はなかったと思います。
しかし、時代の要請に誠実であった、そういう人だけがそのレベルに到達したと思えるのです。
困難を前にして虚勢を張るのではない、捨て鉢になるのでもない。
自分がとりうる最大限の力を発揮したと思えます。
芭蕉の俳諧の変遷や近松の悲劇にそれを読み取ることができます。
私はとりわけ芭蕉に注目します。
近松は悲劇という姿でそれを安定的になし遂げました。
芭蕉は実生活の不安定性も重なり、文学的な傾向も揺れ動いているようにみえます。
実生活が文学的な姿に現われざるをえなかったことに芭蕉のリアリズムを見るのです。

そして、次の点もまた芭蕉のものです。
「蕉風の連句は、民衆の生活と心を、深い詩情の底でとらえた。ただ、そのためには、俳諧は新しい詩語をもたねばならなかった。「師の曰く、俳諧の益は俗語を正す也」、土芳の『黒冊子』のなかにひかれた芭蕉の言葉である。民衆詩である俳諧は、あくまでも、生活の言葉、つまり、俗語によらなければならなかった。…俗語を機械的にもちこんだだけでは、詩にすることができなかった。蕉風のなかで、俗語は新しい詩語として正され、きたえなおされたのである」(141ページ)。

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