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Center:2008年2月ー『世間は虚仮なのよ』への「編集者のあとがき」

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世間は虚仮なのよ
冊子の注文のしかた

『世間は虚仮なのよ』への「編集者のあとがき」

〔お惚け者のエッセイ集『世間は虚仮なのよ』[1]あゆみ書店、2008年2月発行に執筆〕

(1) 
世にも珍妙なるエッセイ集を出すことができて、まことに喜ばしい。
著者の「お惚け者」くんとはかれこれ6、7年のつきあいということになる。
挙動不審ともいえる振る舞いや「投影」という受けとめ方がまじり、
人によっては「お惚け者」くんとどうつきあっていいのやら困惑してしまうだろうが、
なに悪意はないし、気にしなければ何の実害もない。
もっともそれは気にしなければというのを文字通りに行える人のことである。
気にはなるけれども気にはしていない振りをするしかないタイプの人にはやっかいなことかもしれない。
さいわい私は文字通り気にしないタイプなので、7年のつきあいということになった。

さてと、不登校情報センターという場の開設者として、
私は「お惚け者」くんに対しては支援者とか援助者とか、カタカナ表記でサポーターとかになる。
ところが正直なところ何をどう手をさしのべるかということになると実は全くの無力である。
といっても「お惚け者」くんに対してだけ特別に手の差しのべ方がないのではない。
聞く人には意外と思うかもしれないが、私は不登校情報センターという場にやってくるひきこもり等の経験者(当事者)
に特定のある方式で対応する(支援する、援助する)ものは予めもってはいない。
その人とどうかかわるのかは、実際にはその人が提示してくる。
それがいつ、どんなかたちなのかは予測もつかない。
たぶん提示している本人も提示しているつもりはないことの方が多いと思う。
そのかすかなものを、ピンセットで慎重につまんで手元まで持ってきて観察するというのが私の役割ではないかと思う。
支援者というのは、根底のところでは、その支援対象者から支援を受けているというのが真実のところではないかと思う。
そのあたりは別のときに語るしかないのだが……。
(2) 
文通仲介誌として編集している『ひきコミ』[2](これはいまではNPO法人不登校情報センターの会報にもなっている)に、
「お惚け者」くんがある文章を投稿してきた。
それはごく短いものだったが、気負いなく、生活実感(というよりは生存実感!)にもとづくものだった。
そういう投稿が2、3回あった。
その記憶があるものだから、以前からときどき「文章でも書いてみたら…」とさして期待もせず(もしかしたら気休めのつもりで)話してきた。
「お惚け者」くんの提示とはこんなものであったし、私の観察とはこんなしかたであった。
そして書いてきたのが、一連のエッセイで、これは『ひきコミ』第43号(2007年4月)がはじめで、だんだん毎号載せられるようになった。
今回はそれらを1冊にまとめてしまったということになる。

不登校情報センターが所属する世界、これも一種の業界になるのだが、そこでは「受けとめる」というのが大事にされる。
私がそこで気になるのは、どうも「その人をそのまま(ありのまま)うけとめよ」と言っている割には、
支援者側にいる人がある枠内に入ることを求めてしまっているのではないかと思えることがよくある。
かく言う私も案外そうなのかなと思ってみたりするのだが、当人には気づきにくいことかもしれない。
相性というものがあって、これがそこのところを調節しているのかもしれない。
その話は本題から外れていくのでここでやめておこう。
「お惚け者」くんのばあいは本当に受けとめるしかなかった。

(3) 
「お惚け者」くんのエッセイを、私が肯定的に受けとめ、いまこんな形で本にしたのは、「お惚け者」くんをそのまま受けとめたことになる。
この珍妙なるエッセイを、そのまま受けとめるだけの意味があるのか、「お惚け者」くんの現実、現状をそのまま受けとめるだけだいいのかと、
問われれば、私はたぶん回答に窮する。
しかしそう問いつめる人に「ではどうすればいいですか」ときいたら、紋切り型の優等生の回答は出てきても、
それは「お惚け者」くんに対しては何の意味もないものでしかないような気がする。
「お惚け者」くんを受けとめ、このエッセイを肯定的に受けとめられることは、この点に一つの意味を与えていると思う。
それは十分ではないが、いまを肯定することで、未来に向かう土台をつくったということになる。
あとは「お惚け者」くんのもつ力による。
といっても彼が何でも単独でやっていくというのではない。
いつでも、周辺にいる人たちとの関わりのなかで、彼が力を得て開いていく。
別に彼だけが特別にそうなのではなく人間は全部そうなのだと思う。
「お惚け者」くんのエッセイには肯定するものがあるのか、と疑う人がいるかもしれない。
どうでもいいことに目を奪われなければ、とてもすばらしいものがある。
それについて私が説明するのはやめておこう。
このエッセイを読む人が、それぞれの人らしいもの、それぞれの人らしいしかたで見つけてほしい。
そういう目ができること(人間への感受性とか見方ができること)が、社会を少しは生きやすいものにしてくれるのではなかろうか。
『ひきコミ』誌上でのエッセイは続いていくはずだから、いつかまた続編を出すことができるかもしれない。
それを密かに期待している。

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