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Center:2012年7月ー不登校情報センターの取り組みの歴史

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目次

不登校情報センターの取り組みの歴史

はじめに

5月に「大人の引きこもりを考える」という講演をしました。
そこでは不登校情報センターの取り組みの経過を話しました。
参加者の一人が後でこういいました。
「引きこもり経験者たちから情報センターを仕事のできる場にして欲しい」といってきたのが、何かよかったですね、と。
これを聞いて気づきました。不登校情報センターが取り組んでいることには、当事者から出されたものが多いことです。
私は初めからこれこれの支援をすることを決めて不登校情報センターを設立したわけではありません。
それに加えて私のやり方には教育的方法があります。
教育的方法とは、教える方法ではなくて育てる方法です。
当事者が自分から言ってくるものを育てる、それが私のいう教育的方法です。
不登校情報センターの取り組みの歴史の概略をまとめました。
それは引きこもりの経験者が自分の方からこうしてほしい、こうしたいと言ってきたことが多くあるのを見てほしいからです。
なかには私から提起したものもあります。
両者ははっきり分けられず、当事者から提案されたことを私がアレンジしたものもあります。
長期間にわたる共同制作なのです。
不登校情報センターの仕事にしている学校・支援団体の情報提供は、私が以前からする編集者の仕事です。
それも通所している引きこもりの経験者が「手伝わせてください」と始まり、集団的な取り組みになりました。
さらにネット上のサイト制作にするときは一変しました。
当時はパソコンの技術がまったくない私の手からは完全に離れて、パソコンを扱いなれている通所者がサイト制作の作業を始めるしかなかったからです。
彼らの得意分野とするパソコンやサイト制作と私の情報集めが結びついて、現在の学校・支援団体の情報提供作業をしています。
こういう方法は引きこもりの支援団体としては私の知る限り珍しい方式です。
どの支援団体でもできるとは思いません。
この方式を普及させるのをこれまでためらってきた理由です。
しかし、最近は違う考えも出てきました。
引きこもり経験者に技術的な手段を教え、就職の形をめざす方法がうまく行っているとは思えないからです。
東京仕事センターという引きこもり対象の就業支援機関があります。
その案内チラシが送られてきました。
「NPO、ボランティア、農業、在宅ワークなど、企業に雇用される以外の多様な働き方」を謳っています。
そういうスタンスは引きこもり経験者にじかに接触していれば早期に理解できることです。
これを見て不登校情報センターのこれまでの取り組みが参考になるかもしれないと考えるようになりました。
不登校情報センターの活動に対しては、これまでは公の支援、助成を受けていません(民間の助成機関からは支援を受けたことがあります)。
政府・自治体の支援方法には該当する項目がないのです。
みなさんのなかで似たようのことをするにしても、さしあたりは公的な支援は期待できません。
政府と自治体が従来の引きこもり支援策を拡充すればそういう支援も受けられるでしょうが、それを待っていては時間だけが過ぎていきます。
私の取り組みを発表しようと考えた別の理由は、昨年からの当事者たちの動きがあります。
一言でいうと仕事づくりを始めた人が数人います。
これも当事者の思いを活動に生かそうとするスタンスがあったから生まれたのではないでしょうか。
不登校情報センターはさまざまなことに取り組んでいる、どうしてそれが生まれてきたのかの事情はわかると思います。
私自身があまり深く自覚しなかったのですが、引きこもり経験者の動きや要望を受け入れるスタンス、彼ら彼女らのもつ能力や気持ちを生かそうとしてきた、そんな取り組みの経過をこれから話します。

(1)不登校情報センターの設立と当事者グループの形成

私は80年代に教育系出版社で編集者として、教師からの要請と協力により登校拒否・不登校に関する編集企画をしていました。
これらの教師は子ども目線から問題を見ており、管理的なやり方では不登校に対応できないと主張する人たちでした。
1992年(20年前)に『こみゆんと』という“不登校・登校拒否のネットワーク誌”という雑誌を発行しました。
17年前の1995年、出版社を離れ『登校拒否関係団体全国リスト』を発行するときに、担当編集者から「著者名をどうしますか」と問われて「不登校情報センター」にしようと答えたのが不登校情報センターの始まりです。
不登校情報センターを設立して取り組もうとしたのは、不登校に関するいろいろな出版物を企画することと相談活動をすることでした。
両方ともそれなりに始まったのですが、もうひとつ予想外のことが加わりました。
『こみゆんと』の読者であった若者数人が連絡をとってきたことです。
不登校経験のある20歳前後の人です。
そこで連絡をとってきた若者たちと共同グループをつくろうと考えました。
しかし2、3人の少数だけでは集まるのは線が細いので投稿雑誌を活用し広げることにしました。
当時リクルート社から『じゃマール』という個人交流雑誌が発行されており、そこに「通信生・大検生集まれ」の投稿をしました。
その結果、不登校の経験者たちが集まり始めました。
目的はこれらの若者たちを互いに知り合い仲間にすることです。
最初の会合は1996年8月4日です。
集まったのは5人ほどで「通信生・大検生の会」としました。
その後も「通信生・大検生の会」への呼びかけを重ね、1996年末にはこの会のメンバーは23人になりました。
しかし、集まるのはいつも10人未満です。その後もメンバーは増えましたが実際に参加するのは少数でした。
そこで自己紹介カードを配り、送られてきた紹介文を会報に載せてメンバーに送りました。
しばらくしてから会には参加しないけれどもお互いの文通をしている人たちが数人いるのに気づきました。
自己紹介をみて文通を始めていたのです。
これを発展させ、文通誌『ひきコミ』ができたのは数年後の2000年です。
「通信生・大検生の会」のメンバーが増え、高校中退の人、中学校を不登校のまま卒業した人、高校の不登校生、通信制大学の学生など通信生・大検生以外の人が加わりました。
引きこもりを経験している人も混ざっています。
それにあわせて通信制高校生のグループ、進路を考えたい大学生のグループ、レクリエーションに取り組むグループなどが生まれました。
ほとんどのグループは小人数の会合をしただけですぐに消えました。
自分らで何かをしたい思いがそれぞれ表われています。

(2)仕事につく前に対人関係づくりが必要

「通信生・大検生の会」のメンバーのなかには仕事につきたい人、就職先を探す人もいました。
それを考えて1998年ごろ人材養成バンクというのを始めました。
対人関係が苦手な人が働きながら社会に慣れるようにするために土木建設会社、飲食店、農場・農家、清掃会社などを訪ねました。
彼らを理解し、働ける場にしてほしいと頼んでいったのです。
このために集会を呼びかけ、一般新聞でも紹介され、多くの人が参加しました。
大部分は親の参加です。
10代から20代前半の人が多く、20代後半以上は少数でした。
しかし、人材養成バンクはうまく行きませんでした。
登録者約80名のうち50名以上が何の動きもしません。
食堂に行った人が1日でやめる、農家に行こうとした人が前日に取りやめるなどです。
ある会社でパソコンを教えると計画し、5日通して20数人が参加しました。
唯一の成功ですが、それが終わるとほとんどが元の生活に戻りました。
人材養成バンクは1年程で消滅しました。
この経験は貴重でした。
不登校・引きこもり経験者は仕事につく前に身に付けることがあると確信しました。
周りの人に言葉で引きこもり状態を理解して欲しいといっても役立つ取り組みになりません。
仕事についても、社長は理解したつもりでも、その社長は外回りが多いし、同僚となる人に理解して欲しいといっても、何を理解すればいいのかが伝わりません。
それ以上に仕事に就こうとする人があまりいないのです。
そういうなかでも関心を寄せる不登校・引きこもりの経験者は増え続けています。
週1回集まり話し合うという居場所ができていました。
1998年ごろは豊島区大塚に事務所があり、7坪のスペースに30人以上が詰めかける状態になりました。
その会合で10年の引きこもり経験のある人がこういいました。
「自分に必要なのは、トレーニングを兼ね収入につながる会社みたいなところです」。
私はこれを不登校情報センターに集まる人たちの目標にしようと考えました。
2001年6月に親しくしていた大検予備校・第一高等学院(のちの第一学院高等学校)の人から新小岩の校舎を使わないかと誘われて大塚から新小岩に移りました。
広さで10倍以上になりました。
窮屈状態を解消したのですが、広くなったスペースを上手く使いこなせない状態に困った記憶があります。

(3)引きこもりの理解と前進の方向

新小岩に移ってきたころの私には対人関係づくりをすすめるというテーマはあっても、引きこもりからの社会参加の道はまだわかりません。
人材養成バンク式ではなく仕事につく以前の対人関係づくりをどうすすめるのかは手探り状態です。
その集まる場所はできても対人関係づくりの方向や内容もまたはっきりしません。
そんなころに(たぶん2001年の夏ころ)別の支援団体から引きこもり経験者向けのアンケートが送られてきました。
アンケートの内容を見ると、どんな仕事を望むのか、そのために何をしているのかというようなものです。
引きこもりの現実をあまりよく知らない引きこもり経験者へのアンケート調査だと思いました。
通所している人がこれに答えを書いているのを横に見ながら、引きこもり経験者の現状にあったアンケートがほしいと思いました。
そのアンケート「引きこもりの人が望む将来生活の姿」をつくり(2001年5月)、通所している人に渡し回答を待ちました。
2003年9月までの2年余かけて71人から集めました。
その間にも多くの引きこもり経験者が出入りしていますからアンケート以上の様子を見、何が必要なのかを考え続けてきました。
アンケートはその補足になるものです。
その回答を集約しながら彼らは仕事や社会を回避しているのではなく、むしろ社会や仕事の方がある傾向の人を働きづらくしていると感じることがありました。
社会参加の仕方は就職が中心になるけれども、必ずしもそれだけではない。
個人事業的なもの、創作的なものの割合が高いと思います。
また農業やボランティアへの関心は相対的に低い、そんなことをアンケートで確認したのです。
ただこの結果は、1つの参考になるもの以上ではありません。
そのころに読んだ本にE.クレッチュマー『天才の心理学』(岩波文庫)があります。
そのなかに引きこもりを理解するかなり有効な表現がありました。
小胆な人は細かなことに気がつきそれに傷つきやすい、優柔不断で引っ込み思案、内的葛藤の人であるというのです。
しかし、彼らがある時期に気づいたことを発表すると世の中を動かすほどの反響をえる。
その結果に驚いて引きこもってしまうが大衆の前に引き出されリーダーにされてしまう。
そのような例としてドイツ宗教改革を始めたM.ルター、フランス革命の精神的な先駆者J.ルソーを挙げています。
小胆な人というのが実に引きこもりに一致すると思いました。
漠然としていましたが引きこもりを理解しその本質に触れる可能性を見出した思いです。

(4)情報センター内で作業するグループができる

引きこもり支援の方向の手探りの途中で、意外なことが持ちかけられてきました。
2000年ごろ大塚から新小岩に移る直前に30歳前後の会というのができました。
その会は月2回くらい集まっていたのですが、新小岩に移って2年ぐらいしたある日、数人が話しかけてきました。
「不登校情報センターを働ける場にして欲しい」というのです。
30歳前後の会の人たちに集まってもらい、様子を聞きました。
就職の形では働けない、ここにいる人なら一緒に働けるといいます。
30代近くなるとこのような形で問題が見えてきたのだと思います。
「どれくらいの収入が要るのか」と聞いてみると、あまり考えていないようで、働く経験をしたいとか、小遣い程度があればというものでした。
これを聞いてスタートはできるかもしれないと思いました。
取り組んでいく具体例を聞くと内職やポスティングという答えが返ってきました。
そのころは文通誌『ひきコミ』も出版社が手を引いていました。
私は自力で発行するには簡易印刷機がほしいと考え、ある方法で事務機器会社リコーに寄贈をお願いしていました。
その場で印刷機があれば何かをできるかもしれないと話し、リコー社に印刷機の寄贈を頼んでいるので一緒に行かないかと提案しました。
2人が行くことになりました。
この30歳前後の会のあと生まれたことは、地域情報誌「ぱど」と月刊新聞「江戸川タイムス」の周辺地域へのポスティング、リコー社からデジタル印刷機の寄贈を受け、印刷物の自主発行です。
内職も試みましたが労多くして益がなく2度のケースでやめました。
このグループに「あゆみ仕事企画」という名前をつけました。
実際に動いているのは30歳前後の会のメンバーが中心とはいえません。
しかし、30歳以上の人が中心になってきました。

(5)ホームページの制作グループ

パソコンを使っている人のなかには不登校情報センターという名称のホームページをつくる人がいました。
数か月から1年前後すると別の人に交代し、制作していました。
交代のたびに自分なりのサイトをゼロからつくります。
前任者のものを引き継いで発展的につくりません。
4名が同じようなことを繰り返しました。
自分が関心をもつ内容をホームページとしてつくるのです。
2003年の年の終わりごろ、ある支援団体の人から不登校情報センターのサイトをいろんな支援団体が活用できるようにしてはどうかと提案がありました。
2004年ごろには出版社が学校・支援団体情報の本の発行を渋るようになっていました。
こういう情報提供も情報本からネット情報に変えていく時期になったのです。
2004年になり、このパソコンを使うメンバーに不登校情報センターのサイトづくりの構想を話しました。
思い思いに不登校情報センターのサイトをつくっていた人たちにようやく方向づけができた感じです。
私が提案した不登校情報センターのサイトは全国の学校・支援団体や公共機関の情報を載せる大きなサイト制作の構想です。
私にはサイトを作成する技術的な知識はありません。
すでに発行している何冊かの情報本のうち『スクールガイド』という情報本を見本にして、サイトの構想を話し、誰かが中心になってその実現をめざすという形です。
実際は2人がつくり始めただけです。
他の人はサイトの違う場面のテーマをつくる方法をとりました。
その中心になっている人が精神的に疲れると制作作業が停滞します。
そんなことを繰り返して何とか最低限の条件ができたのは2004年11月21日のことです。
こうして不登校情報センターにはあゆみ仕事企画と情報提供のサイト制作者という2つの作業グループができました。
ところがサイト制作の作業は収入にはなりません。
情報を紹介したからといってお金を払う人はいないのです。
そこから「パソコンを生産財にし、収入源にする」方向を考え、収入にするための別の取り組みを考え始めました。
お金をもらえるようなサイトにするには信頼性があり、多くの人がそれを利用する状態のサイトにしなくてはなりません。
パソコンを使う人に全体構想の一部を小分けしてそれぞれが各自のペースでできる条件を徐々につくり始めました。
2004年から2005年にかけてのころです。

(6)2004年――時代の変わり目

2004年は不登校情報センターができてから9年目です。
取り組みの経過からだけではなく、社会的背景からも曲がり角の年でした。
ニートや発達障害という言葉が広がったのはこの年からでしょう。
引きこもりや不登校に取り組む団体にこの理解は徐々に広がり影響を与えていきました。
またNHKのひきこもりキャンペーンが3月で終了になりました。
2004年夏以降、情報センターにくる引きこもり経験者が急減しました。
親の会の参加者も徐々に減っていきました。
多くの当事者が集まり、対人関係づくりをテーマとしながらもそこから先に進むイメージが描けないまま何もできない時期も終わりに近づきました。
目的意識的な支援活動を始められる時期が本当に始まったのかもしれません。
30代前後の会の人たちの提起はそれに重なったのです。
サイト制作という課題が明確になったのも偶然とはいえないように思います。
2001年6月に新小岩に移転してきたのですが、無料で借用できる最低限の期間は3年でした。
その後どうするのかははっきりとは決めてはいなかったのですが、所有者の第一高等学院が倉庫としての使用頻度はだんだん高まっていました。
3年過ぎた2004年中ほどから、そろそろ潮時だと考えていたのです。
あるとき「倉庫使用を本格的に考えているので将来移転をしてほしい」ということが伝えられました。
結局、翌年2005年8月になって近くのマンションに移転することになりました。
それが現在地です。
多くの物を処分し、通所してくる当事者が少なくなっていたので、狭くはなったといえ活動は継続可能な環境です。
2005年6月にNPO法人の申請をし、11月はじめには認可され法人登録もしました。
不登校情報センターは十年にしてようやく目的意識的な団体となったと思います。
通所者一人ひとりが課題を持って対処する方向をさがす、苦手で不安感のある対人関係を重ねていく場所(フリースペース)をもち、その居場所では学校・支援団体の情報をサイト制作するグループがある。
当事者にとって大まかにいうとこんな場所です。
そのなかである人は就職活動に動き、別の人はいろいろない場所を巡り歩き、自分の関心や趣味に熱中しながら時間を過ごす。
それら各自の情報交換をしながら人間関係をつくる場所になってきました。

(7)創作活動には発表の場をつくる

2005年9月に創作活動を続けていた太田勝己君が、はがき大の絵作品を数枚持ってきて「こういうのを1万点描いたので展示したい」と言ってきました。
事務所移転のとき協力を申し出てくれた中央区佃島の小坂クリニックに展示会場を頼みました。
快諾してくれたのですが、スペースを改装中なので年明けにしたいと連絡を受けました。
太田君はたぶんかなり切迫していたのでしょう。
就職活動を続けていたのがうまく行かなかったようです。
11月22日、突然なくなりました。
私たちには強い衝撃でした。
翌年2月、遺作となった太田君の作品展を小坂クリニックで開きました。
そのとき何人かが私も作品を発表したいといっていました。
これを手がかりにして2007年12月に第2回創作展を行いました。以後5回まで続いています。
2003年のアンケート「将来生活の姿」にみられた引きこもり経験者の創作活動への関心を、作品発表の機会をつくる形で実現したのです
。創作展の名称は第2回からは太田君が口にしていた「はじっこにいたい」というのから「片隅にいる私たちの想造展」としています。

(8)学校・支援団体の情報提供サイトに取り組む

事務所の移転、NPO法人化した2005年ごろにはおおよその条件はできました。
その後の進展もあり、現状の取り組みは2種類(情報センターという団体と個人の2種類)3つの部分(個人が創作系と仕事づくり系に分かれる)になります。
団体としての不登校情報センターを働ける場にする取り組みから紹介します。
サイトによる学校と支援団体の情報提供を複数の人で分担し、少しは相互に乗り入れる形で制作できるようにめざす集団的な自立の取り組みです。
2006年11月に10人近くが集まり話し合う場を持ったのですが、その場かぎりのものに終わりました。
技術的に力のあるまとめ役がいないことが大きな理由です。
それだけではなく、一人ひとりがいろいろなページに関わるにはパソコン作業には難しい面があります。
引きこもり経験者のもつ気質も関係します。
それが共同作業として容易に超えられない壁のように思えます。
2007年になって支援者が週1回きて、このサイト制作に加わりました。
その人を中心に4人ほどのチームを組んでサイト制作に取り組み、この状態は3年続きました。
途中で参加者が就職するなどしてメンバーは少し入れ替わっています。
4年後の2011年春、その中心の支援者が職場の勤務条件の変更で来られなくなりました。
しかし、この期間にサイト制作は安定的にできるようになりました。
その状態で「パソコンを収入源にし、パソコンを生産財にする」方向性ができたと思います。
学校・支援団体からの収入も少しずつ増えてきました。
経営的に成り立つレベルには程遠いのですが、このまま進めばある程度はいけそうな気がしています。
このサイト制作をさらに有効にするために、2010年にサイトの中心をWikiシステムにする提案がありました。
技術面のリーダーが生まれているからです。
サーバーを変える、無料で借りて運営しているブログを同一ドメインにするなど技術的な変更をゆっくりとすすめてきました。
このWikiシステム制作には私も参加できますし、通常の文書入力できる何人かが加わりました。
不登校情報センターが管理する同じドメイン内で会員などが個人ブログを設けています。
そういう個人ブログが多くなると不登校情報センターのサイトを見ようとする人も増えますし、それがサイト全体のアクセス数も増やします。
相乗効果が期待しているのです。
事典的でデータベースになるサイトをWikiシステムにすると有効な面がいくつかあります。
この技術的なことは省略します。
多様で大量の情報を受け入れ、処理していける可能性を持つことが「パソコンを生産財にし、パソコンを収入源にする」のに適しているはずです。
信頼性と安定性のある巨大なサイトがこの2年間にできました。
これまでのサイトの収入源はリンク料と掲載料でした。
一般の商業用のサイトと比較すれば1桁違う低額料金ですし、無料で掲載しているページも多いものです。
ところが昨年からリンクの継続が減少をしています。
社会の不況が支援団体にも影響していると感じます。
より多くの学校・支援団体の情報を掲載することでこの低収入をカバーすることが対策になります。
通所する当事者にとって不登校情報センターは共通する活動としてネット上で学校・支援団体の情報提供サイトをつくる場所です。
それを中心に当事者が集まり、居場所ができます。
もちろんパソコンを使わない人もいます。
その条件のなかで当事者各人が得意なことや関心をベースに自分なりの取り組みを始めています。
これが現在の状態です。

(9)創作活動とネットショップ

2006年2月の「太田勝己作品展」により創作活動を生かす取り組みが生まれました。
2007年に第2回想造展ではポストカードや自作作品集が生まれました。
2009年の第3回想造展のあとブログ「片隅にいる私たちの創造展」を立ち上げました(このブログはWikiシステム導入とともに「センター便り」に統合されました)。
2010年の第4回想造展はネットショップ「あゆみ雑貨店」と「あゆみ書店」を設定しました。
ネットショップは有効な活動になっていないので、これを活動させなくてはなりません。
ネットショップはこれまで無料貸与のサイトにお店を出している状態です。
活動条件を広げるために自前のサイトにネットショップを開きます。
2011年末に不登校情報センターのURL・ドメインを〔futoko.info〕に変更しました。
通信販売のネットショップを独自に設定するためのドメイン変更です。
今年5月の第5回想造展では出展者の退潮が現われ出展者は10名に減りました。
この状態をどう理解すべきかはまだわかりません。
創作活動をする人には創作以外の面でのサポートが要求されるのではないかと考え始めているところです。
しかし創作展自体は、まとまりのあるものができ好評でした。
これまではいくつかの作品を冊子にまとめ販売できるパターンができました
。ネットショップの生かし方はこれが一つですが、しかし商品数が少なすぎます。
ネットショップを創作活動とは相対的に独立させて発展させようと思います。
たとえば読み終えた本の再販売、フリーマーケットやリサイクルショップの要素をネット上で行うものと考えています。
創作活動をどうするのか、どうなるのかは未知数です。
新小岩地区センター会議室を会場にして想造展ができたことは、身軽に展示会をする条件になるのかもしれません。
それが今年5月の創造展で切り開いた可能性です

(10)対個人サービスの仕事づくり

昨年夏、「引きこもり後を考える会」を始めたいという提案がありました。
数人が3回ぐらい集まり話しました。
引きこもり状態から抜け出した後の経験の意見交流です。
仕事に就いたなかで経験したこと、将来の生活を考えての対策、障害者手帳、年金の支払い、生活保護、住宅問題などがテーマに話し合われました。
仕事につき収入を得られる道以外で、その条件を解決する根本策は、社会的には用意されていません。
できそうな芽は、個人として自営業として仕事づくりをしている人がいます。
登録型の派遣で仕事に就いている人にも、個人で働く方法を望んでいることがわかりました。
それらを昨年10月に「引きこもりを抜ける仕事づくり」発表会として行いました。
これと並んで自分で仕事起こし、仕事づくりをしようとする人も現われました。
得意なことや興味・関心を収入に結び付けようとする有志です。
「チョコシゴ」という名称のグループです。自分で仕事づくりをめざします。
「引きこもり後を考える会」と「チョコシゴ」の2つの動きの特徴は、めざす方向が就職型よりも自由業・自営業型であり、職種としては対個人サービス業的なものです。
実例は整体師、メイクサービス、居場所ガイドでしょう。
カウンセラーになりたいという引きこもり経験者の気持ちもここに一致します。
メンバーの一人は手紙相談を提示しています。
これはカウンセラーの特殊パターンです。
カウンセラーもまた対個人サービスです。
これに類するのに家庭教師、パソコンの個人指導などがあります。
10年前に「将来生活の姿」としてアンケートにあった仕事や職業[1]は、いまのこの動きと矛盾しない、整合性のあるものと判断しています。
要するに引きこもり気質に合う仕事というのは、対個人サービス的なものです。
一人ひとりを対象に丁寧なかかわりを持っていく仕事です。
今年の6月に、また一つの動きが生まれました。
引きこもり経験者による「体験発表の出前サービス」です。
30代後半から40代に入った引きこもり経験者の企画です。
親世代の人を対象に小人数の体験発表会をします。
その延長に家族訪問の「出前サービス」、保健所・親グループなどへの体験発表の出前サービスを続けようと考えています。
一般企業への就職は、組織に指揮系統があり、作業手順にしたがって仕事に就くことです。
大人の引きこもり経験者にはその壁はかなり高くなります。
彼ら彼女らが仕事についたときに出会う困難はここに関係しています。
一般人に混じっていけるコミュニケーション能力を高める、社会的なスキルに熟達することなどは、それ自体が仕事につくのと同じ難題になるからです。
それらは就職する前に想定できるし、就職には動こうとしない人が多いのです。
「いまのその状態を自ら受入れて」社会参加する道はこの意味から必要です。
社会的な条件ができていないために困難なのです。
それを社会的条件ができるのを待って始めるのではなく、いまの状態で自分にできることに取り掛かろうとしていると見えます。
個人の特長・特技を生かす仕事づくりです。
引きこもり経験者が自分で生み出そうとする仕事は彼ら彼女らの条件にあっています。
これらをどう活用するのか、活用されるのか。
それがいま直面していることです。

(11)情報社会と若者の中での仕事起こし

最近の動きで感じるのは社会的な変動の影響です。
放送大学の宮本みち子先生がこういっています。
「孤独な若者、社会的技量を習得できないまま放置されている若者、引きこもり、若者無業者(ニート)、フリーターはホームレスと地続き」になっていると。
私の実感では引きこもりから問題から社会に近づこうとしていたのに社会の方が引きこもりに近づいてきているのです。
それは若い世代に会社離れ現象が生まれていることとも関係します。
内閣府の調査によると、3年前の大学卒業者のうち就職して現在も働いている人は50%以下です。
これは若者の中に広がる「自己実現願望」が情報社会の到来によって身近になっているのに対応していると考えます
。もちろん大部分がそういう人というのではなくこれからの趨勢、中心がそうなるという意味です。
これまで支援者として不登校情報センターで訪問活動に関わってきた元学生等にも同じことが起きています。
引きこもり経験者とならんで彼らが仕事おこしに動いています。
一人はあるフリースクールで働きながら自分で対人関係セミナーを開き始めました。
もう一人は広告会社をやめ自分でI T関係の個人事業を始めました。
そしてこの2人を“所属タレント”にする「若者生き方セミナー」が訪問活動部を拠点に秋から定期的に始まります。
当事者の仕事づくりの動きと支援活動にかかわった青年の仕事おこしがどう関わりあうのかはまだわかりません。
とにかく両方とも不登校情報センターがある程度も応援をする関係になることは確かです。

(12)不登校情報センターは広報・企画事務所

不登校情報センターの役割はこれらの取り組みを応援することです。
具体的には関係者が交流し、企画を話し合い具体化する場をつくる、発表の場をつくる、広報の役割です。
さいわい信頼性の高いウェブサイトができています。
居場所としていろいろな人が関わります。
共同事務所のような役割になるはずです。
不登校情報センターは集団的自立の場として、情報提供のウェブサイト運営業という仕事おこしを一方でしています。
他方では、個人が自由業的・自営業的な仕事づくりをするのを手伝う役割をめざしています。

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