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Center:161-文学を学び考える

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2015年11月12日 (木) 20:48時点における版

(1)文学を学び考える

文学とは何か。愛用している『新明解国語辞典』(第四版、1996年)はこう述べている。
「芸術の一様式。体験を純化したり構想力を駆使したりすることによって得られた作中人物の行為や出来事の描写を通じて、「人生いかに生くべきか」という主テーマが読者の想像力と読解力と豊かな感性により自ら感得されることをねらいとするもの。〔普通、小説・詩歌・戯曲を意味し、広義では、随筆・評論をふくむ〕」。
国語辞典としてはかなり詳しい説明です。私にはこういうところから文学とは何かを考えるのです。

いま一人、梅原猛さんから学ぼう(梅原猛の論文集『美と宗教の発見―創造的日本文化論』講談社文庫、1976年)。
私が理解するところでは梅原猛さんは、日本の芸術の特色を幽玄に象徴される時間的推移に伴う感情表現においており、それを少なくとも古今集(905年)以来の日本人の深層にある美意識と認めています。
「感情が芸術において不可欠であるかは異論もあろう。一歩ゆずって感情が芸術一般に不可欠でないにしても、特に日本における芸術を論ずるときは、この感情的要素を軽視することは出来ないように思われる。たとえば、ノースロップは西洋文化を理論的文化と見、東洋文化を美的文化と見ている。ライシャワーは、このノースロップの見方葉、特に極東の文化によくあてはまり、日本文化は極端に情緒的な文化だと論じている」(162ページ)。
この引用は論文集の「壬生忠岑『和歌体十種』について」にあるものです。注意してほしいのは理論的文化と美的文化の間には優劣関係はないということです。
梅原猛さんは古今集などを多く扱いながら文学というよりも芸術ということが多いのですが、文学を芸術の一部としているためと思います。
さてこの論文の中で、「一体、芸術とは何であるのか。そしてその様式はいかにして生じるのか。…いま出来合いの芸術に関する定義から考えてみよう」。
コリングウッドの芸術の定義「われわれ自身のために想像的経験、あるいは創造的活動を創造することにより、われわれは、われわれの情緒を表わす、これをわれわれは芸術と名づけるという」。…「ちょうど論理の世界に、理性が不可欠なように、美学の世界には感情が不可欠なのであろう。理性のない論理はえせの論理であるように、感情あるいは情緒のない美はえせの美なのであろう」(161~162ページ)。

こうして『新明解国語辞典』では「感性により自ら感得されること」をねらいとするもの、梅原猛さんが「想像的経験、創造的活動により情緒を表わす」と引用したことを芸術、文学と理解することにしたのです。

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