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勤労の義務

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==勤労の義務==
 
==勤労の義務==
===[[:Category:周辺ニュース|周辺ニュース]]===
 
ページ名[[勤労の義務]]、(働くのニュース、)  <br>
 
 
'''働かなくてもいいよ~就労や自己責任の呪縛から解き放たれよう'''<br>
 
'''働かなくてもいいよ~就労や自己責任の呪縛から解き放たれよう'''<br>
 
■50年はプラブラ<br>  
 
■50年はプラブラ<br>  

2021年1月18日 (月) 07:50時点における版

勤労の義務

働かなくてもいいよ~就労や自己責任の呪縛から解き放たれよう
■50年はプラブラ
人生は長くて90年で、そのうちフルに働いたとしてもせいぜい40年ほど、あと50年は「学生」したり「子ども」したり「高齢者」したりと、人はブラブラして過ごす。
我々の社会というかこの近代社会は、なぜか「労働」ということに過剰な意味付けをしているようだ。
よくわからないが「国民の義務」にもそれは入っている。
国民というか、市井の人々を管理する権力サイドからすると、働いてもらわないと困る、ということらしい。
だがさまざまな事情(高齢ひきこもりとか精神障害とか発達障害とか)があって働けない、あるいは働くことが持続できない人々はたくさんいる。
また、家庭が裕福で働く必要のない人々も前者よりは少ないもののいることはいる。
後者の方はラッキーだとして、前者の方(働けないあるいは働くことが持続しない)は、そんな無理して働くなくてもいい、というアタリマエのことを僕はあらためて言いたい。

というのも、少し前に当欄で親亡きあと、生活保護で何が悪い?~高齢ひきこもりという記事を書いたところ、何人もの方から、
「それでもやはり就労にチャレンジすべきでは?」というご感想をいただいており、それらの方々はすべて「支援者」の方だという事実がある。
社会規範とは、人々のそんな「アタリマエ」から形成され、強固なものとなる。
それは根深く社会に定着し、働けない者の心を直撃する。現実としては働けない、あるいは働くことが長続きしない。
それは当人の弱さも原因の一つではあるが、それよりもどちらかというと昨今の「企業のブラック化」のほうが大きな原因だと僕は思う。
■ブラックとトラウマ
ひきこもりの原因が不登校から就労の挫折に移った今、意を決して働いたもののその職場がたまたまブラックであり、
そこでトラウマを刻印され退職し再びひきこもるというパターンが珍しくなくなっている。
そう、働くことは危険になっている。
非正規雇用4割、正社員でも長時間労働が当たり前の今(働き方改革などはまだまだ少数派だと思う)、下手して働くと再び傷ついてしまう。
ひきこもりの原因が就労現場での挫折が中心を締め、そのトラウマを抱えつつ再び長期のひきこもりに突入した人に対して、
「それでも働け」とは僕にはとても言えない。
むしろそうした人々の存在が、この社会にしつこくはびこっている就労規範を打ち砕く契機になるかも、と期待もしている。
が、そうした人々に対して、世の青少年支援者たちは「働くことはできる」と言ってしまう。
もう、いいんじゃないでしょうか、その「働くことが第一」の価値から降りてしまっても。
政府は40代になっても就労支援し続ける的な政策提案をしたが(「氷河期世代」を集中支援=安定就労へ3年計画策定-諮問会議)、
こんな状況になってもまだ国は人々を働かせるのか、と僕はいやになった。
■「自己責任」はコミュニケーションの根源を知らない者がいう愚かな価値
働けない人は現実として働けないし続かない。非正規とブラック社会の我が国は、弱い者をそれでも「働け」と追い込んでいく。
そもそも、働くことがそんなに価値があるか?
高齢化した母を手助けして、布団を干したり買い物に行ったりカボチャを切ったり(いずれも体力仕事)することも大事ではないか?
あるいは、親がささやかに行なう家庭菜園を手伝うことも、その家族的には大いに助かることではないか?
あるいは、なんらかのかたちで関わり始めた「居場所」的な施設(たとえば子ども食堂)で、
ボランティア的にその施設を応援することも立派な社会貢献ではないか?
あるいは、地元の福祉系団体が行なうバザーを手伝ったりするのも、その人ならではの温かみを醸し出す作業になるかもしれない。
そう、働けない人は働かなくてもいいんだよ。
「働くこと=善」はここ200年程度で形成された価値に過ぎないと僕は思うし(それ以前は規範ではなく生存のための手段だった)、
働かないかわりに何かできることがあればそれを行ない(無理して行なわなくてもいい)、生活保護や親のカネで生活してもなんら問題ではない。
我々は「他者」なしでは生きていけない。
というより、自我の形成は他者によって行なわれる。
また、自己は常に他者に取り囲まれ、他者の力によって生かされている。
それが「コミュニケーション」の根源にある。
「自己責任」なんて、コミュニケーションの根源を知らない者がいう愚かな価値だ。
そろそろ就労なんていう近視眼的な価値から解き放たれ、人間同士が助け合い、社会の中で個が生かされる「ヒトの根源」に戻っても僕はいいと思う。
人は長生きして90年程度。働くのも悪ではないが、喜びのなか、自由に生きることこそが最善の価値だと思う。
頼るところは他者に頼り、頼られる者は頼られることを誇りとする。
そして、その頼られる者(税を払う人々)も、いずれは誰かを頼ることになる。
これからの少子社会は、このような「誰かを頼ってもよい社会」になったらいいと思う。
今の、新自由主義的な殺伐とした社会は最低だ。
それで90年気持ちよく生きることができればいいのではないでしょうか?
田中俊英
〔2019年7/4(木) 田中俊英 一般社団法人officeドーナツトーク代表〕

働くことより「自分らしさ」を選んだ引きこもり経験者の人生航路
「就労」ではなく「自分に合った生き方」を模索している引きこもり経験者が、注目され始めた。
自分らしく生きるために、彼らは何を捨て、何を選んだのか
●高校時代に引きこもり、ゲーム三昧 「自分は本当は何をやりたいのか?」
「就労」ではなく「自分に合った生き方」を模索している経験者の実践例が注目されている。
ひきこもり家族会による「自分らしい生き方シンポジウム」も、11月25日に大阪、来年1月14日には東京で、それぞれ開かれる。
大阪府に住む児島一平さん(47歳)は、大手企業の会社員だった父親と専業主婦の母親の家庭で生まれ育った。
小学4年のとき、ニュータウンに転居。
周囲の価値観は、いい大学を出て、いい会社に入るのが当たり前のような成績重視の風潮だった。
児島さんも、中学3年までは勉強一筋で頑張って進学校に入学した。
高校に入ると、さらに勉強量が増えて、「何のために、こんなに勉強するのか?」と考えるようになったのがきっかけで不登校になり、高校時代はほとんど学校に行かずに引きこもった。
引きこもっていたときは、やることがないので、パソコンで遊んだ。
その経験が活きて、一旦はIT系の企業に就職したが、営業現場での世間話やコミュニケーションができず、つらくなって無断欠勤の末、再び引きこもった。
その後、試行錯誤の末、大学に入学、会社にも就職したものの、34歳のときに勤めていた会社が倒産。
児島さんは「チャレンジするしかない」と思って、レンタルボックス事業の店を出した。
3年後、リーマンショックで売り上げが低迷。
2011年の東日本大震災で、一気に不景気に見舞われた。
児島さんは、社会に対して特に期待はしていなかった。
今になって、「当時はそう社会に思わされていたのかもしれない」と振り返る。
人生を何度も建て直し、リサイクル品のネット販売を始めた。
しかし、何のために働いているのか、わからなくなった。
自分が一生懸命築き上げたものは、リーマンショックなどでひっくり返される。
経済を追いかければ追いかけるほど、振り回される。
「本当は何をやりたかったのか?」「本当に自分はそう思っているのか?」そんな禅問答のような自分とのやりとりを始めた。
2013年、河内長野市にNPO「みんなの未来かいたく団」を立ち上げた。
耕作放棄地や農作物づくりを通じて、人を再生していこうというというのが趣旨だ。
「行き過ぎた経済主義に振り回されずに、経済と共存して豊かな生活のできるコミュニティをつくりたい」
児島さんは、耕作放棄地や古民家などを持て余していて、活用してほしいと考える地主が多くいることを知った。
「住居をタダで借りられて、農作物で食が担保されれば、収入が少なくても生活できる。エネルギーも太陽光でできれば、医療や教育などの支出だけで済む。ただ、現実に、田舎での生活は寂しいし、豊かでないと意味がない」
●古民家を借りて郊外に転居 月10万円で豊かに暮らすには
そこで児島さんは、腹をくくってネット販売以外の全ての事業を整理し、都会から30分ほどの所にある同市にコミュニティをつくろうと、今年4月、同市の賃貸に転居。
ワークキャンプなどの活動拠点となる古民家も無料で借りた。
「地主さんは、古くなるから空き家を使ってほしいと思いつつも、貸すことに抵抗がある。公募だと目につくので、行政がもう少し間に入って、つながりをつくってくれるプラットホームができれば、もっと進むと思う」
今後、「月収10万円で豊かな生活ができるコミュニティ」の仕組みをつくり出し、次世代のライフスタイルのモデルとして実践していきたいという。
同じく大阪府に住む鈴見咲君高さん(44歳)も、高校時代まではほぼ無遅刻無欠席 で、先生の言うことを聞き、おおむねすべての教科で成績が良かった。
頑張って学校に通い続けた反動で、大学に入学後は燃え尽きたように通学できなくなり、引きこもった。
「学校時代、忘れ物をよくするとか、いじめとかの問題があったのに、“学校の”勉強さえできれば大丈夫と言う周囲の大人を信じるしかなかった。他の選択肢を知らなかったんですね」
鈴見咲さんは、そのまま大学を中退し、約16年にわたって引きこもり状態が続いた。
「大学やめさせてくれ」は、初めて自分の人生への意思を表示できた瞬間だった。
「大学では研究室配属まで行ったけど、さんざん自分を殺してきたのに、“なんで、そんなに自主性がないの?”と研修室で言われ、右にも左にも行けなくなった。何がやりたいのか考えることすら許されない状況に、長いこといたんです」
引きこもっていたときは、親や先生を恨んだ。
サポートしてくれるところは、どこにもなかった。
「支援機関に行こうと思えなかったのは、当時、障害者扱い、異常者扱いしていたからです」
●引きこもりである故に 営業がままならないもどかしさ
そんな中、パソコンのキーボード文字の並び方を変えれば、もっと早く入力できることに気づき、個人別で考えるべきだと主張。
個人別で文字配列できるソフトウエアを開発し、販売した 。
ところが鈴見咲さんは、「引きこもりであるが故に」営業展開できなかった。
「当時は、ネットの中でも、引きこもりですとは言えなかったですね。ローマ字入力に不満を持っている人の集まりにも行けないし、アイデア出しや広めてくれるところまで行けなかった」
鈴見咲さん自身は、このソフトウエアをWindows10で動かし、今も使っている。
ただ、Windowsをタブレットととして使っているときには動かす方法がないという。
現在は2日に1回、夜中にスーパーで清掃のアルバイトを続けている。
1回4時間制なので、正社員の4分の1くらいの勤務時間で済み、自分に適した働き方が守られる。
鈴見咲さんは、そもそも「勤労の義務が定義できない」として、疑問を投げかける。
「いくら稼げばいいのか? 稼げなくても働いていればクリアされるのか? 定義できなければ、使う側が恣意的に解釈できてしまう。だとしたら、勤労の義務は法律としてあってはいけないものなのではないか?」
勤労の義務がなければ、たとえば趣味の集まりに出かけていっても、「次に何をすべきか模索中です」という自分の紹介がもっと楽に言える。
でも、働いていないのは悪いことだとなると、趣味の場にも出て行けないし、相談にも行きづらくなる。
就労がメインの目的でなければ、相談相手と話も合わない。
だから、「勤労の義務が引きこもりを生み出す」と鈴見咲さんは言う。
「いつまで自分が生きているかわからない。だったら世の中を良くする方向で、自分の好きなことをやって、早かれ遅かれ死んだときに、できることはしたと自分で思えるような生き方であれば、それでいいのではないか」
●本人、家族、支援者が探る 自分らしい生き方
この児島さんと鈴見咲さんも登壇する「自分らしい生き方シンポジウム」は、25日午前11時から、大阪のドーンセンター1階で開かれ、第1部の音楽パフォーマンスの後、第2部で本人、家族、支援者が立場を超えて、自分の「今」を語る。
問い合わせはこちらまで。
〔2018年11/1(木) 池上正樹 ダイヤモンド・オンライン〕

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