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Center:163-芭蕉の俳諧に見られる文学性の追求

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芭蕉の俳諧に見られる文学性の追求

延宝8年(1680年)、「芭蕉は談林の俳壇に訣別し、江戸深川の芭蕉庵に入った…
談林のアナーキーな華やかさから眼がさめたとき、芭蕉のなかに、遠く亡命の日につながる傷心が、よみがえったのではなかろうか。人間の感性を既成の美意識から解放していった新しく自在な俳諧精神を通して、芭蕉は悲しみの詩情とでもいうべきものを発見していく」(134ページ)。
元禄6年(1693年)『柴門の辞』を評して「封建時代の民衆のかなしみをになって生きようとした芭蕉が、「実ありて、しかも悲しびをそふる」俊成や西行の伝統を発見したのである。かなしみから眼をそらさず、かなしみの底に人間的な詩情をみつけるためには、まず、かなしみに耐えなければならない。そういう心の支えとして、彼はこの伝統を発見した。…
むろん、民衆は、封建制の重みをおしのけていくような力を、まだもっていなかった。だから、どこにもゆき場のない心をになって生きぬくということは並大抵のことではなく、そこの、現実拒否の感情がしのびこむ余地がある。しかし、この現実拒否的な側面を単純化して、芭蕉の俳諧が本来、現実逃避的であったということはできない」(136~137ページ)。
元禄6年(1693年)、『閉関之説』―「芭蕉の風狂といったものも、少しずつ変化しはじめているようにみえる」(144ページ)。
「芭蕉は、人間の不幸な運命から眼をそむけない。眼をそむけないことから、彼の文学は出発しなおしたのである。しかし、眼をそむけないと同時に、かなしみの抒情に流されまいとしている。「汝が性のつたなきをなけ」といって、立ち去るわけである。美しい文章を書くという、非情の風流におきかえたのである。
しかし、病気の寿貞や子供たちを狭い草庵にひきとり、貧乏のなかで食わなければならなくなると、この非情の風流精神ではどうにもならない。こうして、人情味のある『閉関之説』がかかれた。そしてこの頃から、芭蕉は「軽み」の世界にむかっていった」(146ページ)。
「軽みは、現実を静かにみつめている境地である。だから、少なくともそこには風狂のポーズはない。だが、その静かな凝視は、かなしみを生きぬこうとした、ひたむきな芭蕉の心を、すっかりつつみこむことができただろうか。…新しい人間形成は矛盾をかかえこんでいた。芭蕉は、その矛盾をにないながら、詩情をきりひらいてゆかねばならなかった」(147ページ)。

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