●文通番号4-48  われ「敗者」にあらず

ミズキ 〔東京都八王子市 男 37歳〕

 今の社会はまさに「人間は~でなくてはならない」というルールに則って、他人と幸せを奪い合うゲームの場です。私のような引きこもり者のみならず、このような社会に違和感を感じている人は多いのではないか、と私は思っています。

 例えば「人間は勉強をしなければいけない、われわれは勉強をしない人間を幸せにしてはいけない」に始まるさまざまなルールに基づくゲームの場であるところの「学校という社会」に、今や多くの子どもたちが不適応を起こしているのもその現れではないでしょうか。

 問題はこのルールが一つの主義に基づく規範、すなわちフィクションに過ぎないという事実が全く省みられない、あるいは無意識のうちに隠蔽されているという点にあります。

 他人から勝ち取らねば手に入らぬしあわせを追求せずに、人生を送る自体が本来すべての人にあり、これを侵害することは誰にも許されないはずです。

 しかし、無自覚かつ無責任にこのゲームに引きずり込まれている人に限って、自分たちのルールを唯一の正しい道として他人に押しつけたがります。

 そして残念ながらこの社会に適応している人の多くは無自覚、無責任です。これも仕方のないことでしょう。なぜなら自分の生き方を考える機会も与えられなければ、責任など持てるはずもなく、他の生き方を考える機会も与えられなければ、ゲームの自覚など湧こうはずもないからです。

 実際、落ちこぼれでもしない限り、子どもの頃から他の生き方を許されぬわれわれには、本当に何者にも縛られずに自分の生き方について省みたり選択したりする機会など、まず訪れはしないのではないかとも思われます。

 また健気にも落ちこぼれてもなお「唯一の正しい道」に復帰しようと努力する人もいるでしょうが、仮にこのような人が望み通り「勝者」となったとしても、社会全体のストレス総量は減るわけでもなく、個別のケースについてはともかく社会問題としての引きこもりが解決に向かうとは思えません。

 ただしこれがゲームであることを理解した上で、自分の意志で参加(復帰)している人はそれで結構。彼らに対して私がいうことは何もありません。「敗者」は結果を受け入れ反省するなり再起に賭けるなりすればよいのです。勝てば自分を幸せにしたであろうルールに負けてから異議を唱えるのは卑怯というものですから。

 純粋に自分のためにゲームを行う人は決して「人間は~でなくてはならない」などと、他人を引きずり込んだりはしませんから、イジメやお節介で他人を苦しませたりはしないはずなのです。

 友達がいないこと、仕事をしていないことを理由に肩身の狭い思いをし、あるいはイジメをうけている人たちにしても真っ先に気づくべきなのは「友達がいないこと、仕事しないこと=よくないこと」というのが単なるゲームのルールに過ぎないということ、それに気づかぬ限り人は常に他人か自分、あるいはその両方を傷つけ続けるだろう、ということではないでしょうか。

 ゲームをやめればあなたはもう「勝者」でも「敗者」でもありません。「別に友達が欲しいと思わない人」や「仕事がしたいと思わない人」も孤独や貧乏に耐える強さ(あるいは鈍感さ)さえあれば、自然界では幸せを感じながら生きることができます。

 しかしその自由を真っ向から否定するような社会においては、多くの若者がかえって引きこもり状態に陥ってしまうのも当然の結果と思わざるをえません。

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