●文通通番号7-28  「自立的引きこもり者」宣言

ミズキ 〔東京都八王子市 男 37歳 無職〕

 私が「自分は間違った生き方はしていない」という確信を得るに至ったのは思えば最近のことです。おそらく多くの若い人は今も孤独のうちに自信を失い、言葉になり難い思いを抱えているのでしょう。

 しかしあえて私は「引きこもり者の増加」という現実について、また「引きこもりの存在意義」とでもいうべきものについて当の引きこもり者がどう感じているかに強い興味を覚えます。

 治療の責任も原因も個人に負わせるべき病気としてではなく、社会全体の問題として引きこもりをとらえようという動きがせっかく起こっている今だからこそです。

 前に見た映画の中の言葉に「賢者は自分を社会に適応させ、愚者は社会を自分に適応させる。故に社会の進歩は愚者によってなされる」(バーナード・ショー)ということばがありました。正論・常識の示す人間像と自分とのギャップに苦しんでいる人たちも「賢者」になれない自分をどうか責めたり恥じたりしないで下さい。

 われわれにはたとえば「バカでいる自由」があり、「働かない自由」もあり、ついでに「引きこもる自由」もあるはずです。社会が何といおうとこれは「自然」が生き物としての人間に与えた自由なのです。人間が自然であることを自覚し、互いに尊重しあえるようになれば二重の意味で「引きこもり問題」はこの世に存在しなくなるでしょう。

 ところで個人的には私は「社会復帰」という言葉に少なからず抵抗を感じざるを得ません。世の中との関わりの上で引きこもり者にしか果たせない役割があるとすれば、それはすでに疲弊した現社会のシステムに追いついてそれを支えることではなく、むしろ「社会との共依存」から個人が解放される新時代の先駆けとして生きることだと思うからです。

 社会との共依存とはどういう状態を差すかといえば「社会が個人から自由を奪い、個人は社会に責任を押しつける」ことであり、たとえば前の戦争の際などはこの共依存がみごとに機能したといえるでしょう。

 思えば当時と現在の間に人の常識はどれほど変化したでしょうか。十分な幸せを買える以上のプライドを社会のために稼ぐことを強いられる今だってある意味で戦争と言えるかもしれません。

 ところで、残念なことに引きこもり者を励ますつもりか強迫的な前向き指向や努力信仰など、旧来の正論・常識に迎合するような意見を述べる引きこもり経験者をときおり見受けます。このような言葉が依存的な心理状態にある人やもともとそのような性格の人に対しては麻薬のように働くであろうことは想像に難くありません。励ましを受け社会復帰を遂げた人は、今度は引きこもり者を励ます側に回るでしょう。

 しかし新しく形成されたこの連鎖こそは先に述べた共依存の一種に他ならないと思われます。引きこもり者に対してやさしく差し伸べられた手のように見えて、実のところこのような意見は孤独と焦りのまっただ中にいる人たちにはかなりのプレッシャーとなるでしょう。

 彼らが「依存的引きこもり者」と「現社会システム復帰者」の連鎖に疎外を感じ、さらに深い孤独に陥ってしまうとしたら社会問題としての引きこもりは解決ではなくむしろ固定・濃密化に向かってしまうだろうと私は確信しています。

 反論・質問を歓迎します。

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