●文通番号8-08 モノ社会の貧しき「自立」
ミズキ 〔東京都八王子市 男 37歳 無職〕
去年の秋にあるテレビ番組で、引きこもりの若者が自宅から文字通り引きずり出され、施設に送られる様子が放映されました。
「五体満足な若者が仕事にも就かずに自宅にこもっているなど許されるべきことではない」という旧来の常識的感覚からすれば、これも彼に対する当然の処置なのでしょう。
しかし私は、いかにこの社会において「精神」というものに対する理解が立ち遅れているかを見せつけられたような気がしました。「身体」と同様われわれの「精神」も重要かつ複雑なものであり、そこに抱える問題も人によりさまざまなはずです。体に障害があって歩くことができない人から車椅子や松葉杖を取り上げ無理やり歩かせようとする施設など存在するのでしょうか。
また一人前の社会人の条件としてしばしば「自立」の重要性が強調され、私のように学齢期を過ぎて引きこもり生活を送る者に対するプレッシャーとなっていますが、もし自力で金を稼いで生活することが自立の必須条件であるなら、体に障害があり金を稼ぐ能力のない人は自立できないことになります。
しかし彼らを寄生虫扱いすることはこの社会では少なくとも表立っては許されていません。ここも「身体」と「精神」に対する認識のアンバランスが感じられます。
もっとも「障害はとは何か」「引きこもりは障害か」といった問題についてはいまだ議論の余地もあり、今後の研究や価値観の変化に期待をかけながら気長に待つしかないのかもしれません。
ともあれこのように身体や経済といった人間や生活の物質的側面ばかりを強調する風潮が、一方で「引きこもりイコール強制すべき反社会的行為」という主張を生み、一方では「自立」観そのものを歪めているという事実は確かに存在するのです。
そもそも自立とはなんでしょうか。「モノ・カネ社会」に適応し、物質的に自立した人は全て精神的にも自立を遂げているのでしょうか。
私の考えでは答えは「ノー」です。
「自分で稼いだ金で生きる」ことを物質的自立とすれば、精神的自立とはまさに「私は自分の自由と責任の下に行動する」という意識を持つことに他なりません。
「私は自分のために金を稼いでいる」という人も「たとえ貧乏しても働きたくないから働かない」という人も精神的自立という点では等しいのです。
一方、自分で判断し選択する自由と責任を放棄し、「人間は社会のために働くべきだ」という押しつけられたフィクションを唯一の真理のごとく押し頂、イヤイヤ働いてたまったフラストレーションを働かない者への非難・攻撃という形で発散する。そんな「模範的社会人」もいます。
たとえ何億円稼ごうと、何十人の家族を養おうとこのような人が精神的な自立とはほぼ遠い状態にあることはいうまでもありません。
問題は「何のために働いて金を稼ぐか」にとどまりません。社会のためにイヤイヤ勉強した人は(教育者を含め)頭の悪い人をいじめ、社会のために「正しい生き方」を自分に課す人はしばしば偏狭な正義を振りかざして他人を責めます。
思えば精神的に自立を遂げた人間などこのモノカネ本位のプライド主義社会にとっては単なる邪魔者に過ぎないのではないでしょうか。
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